昼下がり。都内某所の喫茶店にて。清々しいほどの晴天で、宇佐美の黒いスーツは恐ろしい程に干上がっていた。 「ねえ宇佐美くん、見て」 そう楽しげに呟いた目の前の女は、スマホの画面を宇佐美に見せるが、宇佐美は一瞥もくれずに腕時計に目を向けるだけだ。 「キムタクからメール来てたの。この前は羽生くんで、その前はタッキー」 この目の前にいる女のメルアドが流出し売買されようが宇佐美は心底どうでも良かった。昔から彼女はそうだったのだ。サブスクリプションは解約できないまま毎月謎の数百円が引き落とされているし、利用規約は最後まで読まないし、キャッシュバックに成功出来たためしがない。そんなことを思えば思うほど、宇佐美はどうして過去の自分がこんな女と交際(口に出すのもおぞましい言葉だ)していたのか分からなくなった。気でも狂ったのか、と過去の自分の襟首を掴んでもいいが、今はそれよりも時間が惜しい。 「前に千円を貸していたでしょう。返してください。今すぐに」 「宇佐美くん、お金無いの?」 「殺しますよ」 「やめてー」 女は平坦にそう呟いて、ストローに口を付けた。ズゴゴゴゴ、と実に不快な音を立てて希釈されたカフェオレが吸い込まれていく。 「貴女に千円でも金を貸したことを心底後悔しているんです。早く返してください」 「分かった分かった。ちょい待ってね」 女は鞄から財布を引っ張り出し(取り出し、ではなかった)、紙幣を覗く。沈黙。その次に小銭入れの部分を覗く。沈黙。そうして最後に財布の背面から一枚のカードを取り出した。 「ごめん宇佐美くん、千円無かった。千円分のテレカあるからこれで勘弁ね」 「良いわけないでしょう殺しますよ」 殺すぞ、とは宇佐美が何度も愚かな債務者から聞かされて来た言葉だ。それを聞く度に出来もしないのに何を言うのか、そんな言葉しか言えないからこんな所にいるのだ、と冷徹に思ったものだった。けれどいざ実際にこのどこまでも愚かで忌々しい女を見ると殺すぞ、としか思えなくなった。殺すぞ、本当に。法律が無ければ、とっくの昔に宇佐美はこの女の頭をグラスでかち割っていたところだ。 「アフターヌーンティーセットのお客様」 「あ、はーい、私です。オペラはこっちの人で」 「……は?」 突然頼んだ覚えのないものが目の前に置かれ、一瞬宇佐美は怒りを忘れた。女の顔を見れば「頼んでおいたよ。宇佐美くん、これ好きだったでしょう」と微笑みと共にそんな言葉が返ってくる。 こういう、こういうところが宇佐美は本当に忌々しかった。サブスクリプションの一つも解約出来ないくせに、こんなどうでもいいことは逐一覚えている。本当に、忌々しい。 「……待ってください」 そこでふと、疑問が宇佐美の脳裏を過ぎった。女はもう既に、にこにことスコーンに手をつけている。 「貴女、電子マネーの類を持ち歩く人間じゃないでしょう」 「うん。使い方あんまわかんなくて」 「クレジットカードなんて以ての外だ」 「宇佐美くんが昔止めたんだよ?貴女はクレジットカードを家から持ち出すな云々……約束守ってて、偉いでしょう」 「………………」 沈黙。咳払いを一つ。 「それなのにどうやってこの場の支払いを済ませるつもりですか。千円も返せない貴女が」 どう見ても、このテーブルにある彼女の皿は千円を超えていた。アフターヌーンティーセットだけで千円を超えているのに。 「え?宇佐美くんが払ってくれるでしょう?宇佐美くんが呼んだんじゃない」 「………………」 「あ、今何考えてるのか当ててあげよっか?自分の分だけ払って帰ったら、私が無銭飲食で捕まらないかな……って思ってるでしょ」 図星だったが、宇佐美は長年の銀行生活で培ったポーカーフェイスを駆使してオペラを切り分けた。独特の苦味と甘みが、この目の前の女への怒りを忘れさせてくれるような、気がする。あくまでも気がするだけだが。 「私、オペラ、別に好きじゃないんですよね。寧ろ大嫌いで」 それはもう、負け惜しみのようなものに近かったし、真実でもあった。実際、宇佐美はオペラが好きではないし、かと言って嫌いというわけでもない。とにかく、彼女が間違っているという証左を示したかった。千円が戻ってこないことは、分かりきっていたので。 ────分かりきっていた? 「違うよ」 一瞬の違和感は、女の言葉によってかき消される。 「宇佐美くんは、オペラが好きなんじゃなくて────私と食べるオペラが好きなの。だって宇佐美くんは私の事が好きだから。私と食べないオペラのことなんて、ちっとも好きじゃないの」 その女の微笑みを、宇佐美はもう何度も目にしたことがある。女と母親が入り交じったような、恐ろしいまでに慈愛に満ちたその瞳の恐ろしさを、宇佐美は随分と久しぶりに思い出した。そしてどうして自分はこの場に来てしまったのか、と脳が警鐘を鳴らし始める。そうだ、前にも自分はこれと同じ光景を見たはずだった。同じ微笑みを見て、彼女に別れを告げたはずだった。もう二度と会わないと、会えば自分がどうにかなるか分からないとそう思ったはずだった。 「宇佐美くんは、ちっとも変わらないね。あの頃と同じまま。オペラを食べるのも、すぐに殺してやるって、言っちゃうのも……」 どうして忘れていたのか。殺してやる、は脅迫ではない。恐怖の言葉だ。殺さなければ、自分がどうにかなってしまいそうで、恐ろしかったはずなのに! 「……また、千円貸しちゃったね、宇佐美くん」 くすくすと、楽しげな笑い声で宇佐美は我に返った。目の前の女は、まるで少女のようにあどけなく、くすくすと笑っている。宇佐美を見て笑っている。 「ねえ、次は何処に行こう?何を食べよう?でも別に、何処でもいいよね?何を食べてもいいよね?」 女は首を傾げてみせた。重力にしたがって横髪が落ちる。片目が隠れて、だまし絵のようだと、宇佐美は他人事のように思った。 「────だって宇佐美くんは、私がいたら、それでいいんだもんね?」