1
いつの間にかすっかり暑くなって、夏になったんだとありありと思わされる。常に長袖ハイネック長ズボンマスクという格好の私にとって、この季節は絞首台にも等しい。もしかしたらそこのお前は服を脱げばいいんじゃねえの、と思っているかもしれないけど、そう出来ないからこうなってる訳で。とどのつまりは少し、黙ってて欲しいってことだ。 「む、来たか。五分の遅刻だぞ。従者が主より遅れてどうする」 「うわ出た」 母親に連れられて来ている街の緑化活動は、夏の間は夜に行われることになった。いやまあ、夜でも蒸し蒸しとした暑さは変わらないし、お陰で変な吸血鬼には絡まれるから全体としてはマイナスだ。 「ゼンラさんは相変わらず涼しそうな格好ですね」 「従者はいつも暑そうな格好をしているな。TPOというものを考えたらどうだ?」 「…………」 一番TPOについて言われたくない吸血鬼からそんなことを言われて、私の血圧がグイーンと上がる音がした。いやまあ、怒りませんけど?別に?いい大人だからね?それに私はゼンラさんが悪気なくこういう煽りみたいなことを言う人だって知っているから、もう慣れたものだ。 「私の方こそ、ゼンラさんが外気にバンバン当たりまくってる格好してる方が心配ですよ」 「む、そうなのか。しかし陽射しがないのだから……」 「違います!空気っていうのは人間が住んでいるだけで汚染されてくものなんですよ。いいですか?今もこの空中には目には見えない電波がうようよ漂っていて、それを肌が勝手に吸収して肌に悪影響を及ぼすんです。昔はそうでも無かったけど今はスマホとかあるでしょう。ブルーライトに発ガン性があること知らないんですか?だから人にスマホの画面を向けたら駄目なんですよ。これだから何も知らない人は……」 「そ、そうか……」 こくこくと頷く機械と化したゼンラさんは、私に当然のようにゼンラニウムの種を渡す。これを埋めろということらしいが、私はそれを叩き落としてパンジーの苗を持った。 「せめてその帽子ぐらいは脱いでも良いのではないか?今は日差しもないのだから」 私と同じようにスコップを持って土を盛り返しながら、ゼンラさんはそんなことを言う。全裸であること以外はとことんマトモで、なんだか釈然としない。私はちゃんと服を来ているし法律だって遵守してるのに、何故かゼンラさんと同じぐらい頭がおかしい人間扱いされるから。 「脱げるわけないじゃないですか。さっきの話聞いてました?夜なんて電波が日中の何倍飛んでると思ってるんですか。政府に思考盗聴されたくないからこうやってアルミホイル巻いてるんですから。……あ、まさかとは思いますけど私がこうやって電波妨害してるって吹聴しないでくださいよ。今じゃ政府の人間は国民の家を違法で監視してるんですから」 「…………ふむ。その理論で行くと、今この話をここでするのは良くないのでは?」 「大丈夫です。私にはこれがあるので」 私は母親から貰った土の瓶を取り出す。 「ここには政府の無線を遮断する特別な金属が入ってますから」 「ほう、そういうものがあるのか」 ゼンラさんはスコップを置いて、私のそれをまじまじと眺める。そんなことをしていると、いつの間にか私の周囲には誰もいなくなっていたけれど、そりゃあ全裸のおっさんとは誰も話したくないだろう。 「……ゼンラさんも欲しかったら、お母さんに頼んでみましょうか?あの人お人好しだから、多分くれると思いますよ」 うちのお母さんはのほほんとしていて、こんな高くて貴重な石もご近所さんによく配ってしまう。まあ、配ると言っても九割九分断られてしまうから、在庫はかなりあるんだけど。 「いや、気持ちだけで結構。それに我には盗聴されて困る思考など……ない!」 「……全裸なのに?」 「全裸は思考ではなく思想だろう」 そういうものかしらん、と思って(面倒くさくなったとも言う)私は黙々とスコップを動かし始める。 「……従者よ。我は、従者のそういうところ買っているのだぞ。だから貴様は従者なのだ」 「はあ」 満足気なゼンラさんの言葉に曖昧に頷きながら、私はゼンラニウムをまた一つ、一つと花壇に植え込んでいった。
2
私の家には物心ついた時から色んなものがあった。石、電池、石、石、アルミホイル、石、機械、機械、水、石、水、本。そういうものがある家庭が普通じゃないと知ったのは、小学校の頃、クラスメイトの部屋に遊びに行った時だった。彼らの部屋は皆整然としていて、それに有害な電波を撒き散らすものばかりだったから、初めて行った時に、私は悲鳴を上げて逃げ出した。二回目に至っては、良かれと思って政府が情報を盗むための導線(後にこれはコンセントと呼ばれていることを知る)を私が鋏でちょんぎって、それはもうどえらい事になったから、もう三回目は無かった。多分永遠に私は人様の家に行くことがないんだろうな、と思ったのはその時だった。 あれだけ普段私に電波を有害なものだと語る母親が、その子の両親にずっとずっと謝っていて、その背中が今でも目に焼き付いて離れない。その帰り道に、私は『どうしてお母さんは本当のことを言っているのに謝るの?』と聞いて、でも母親からの返事は無かった。彼女はぽろぽろ涙を零していて、それから私はもう二度と、その質問をしなかった。
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VRCにはゼンラさんに差し入れをしたりするのによく行くんだけど(正確には行かされているんだけど)、私はこの場所があんまり好きじゃない。より正確に言うのなら、あのヘンテコな仮面を付けた所長のことが、私は大嫌いだった。初めて会った時から私のことを情弱だの義務教育はどうなってるんだだの馬鹿にするようなことばかり言う。最近はもう無視してるけど、会うと絶対絡んでくるから、それがかなりめんどくさい。 ────でも今日は、その所長ではなく知らない女の人が私を案内してくれた。彼女は私と同い歳ぐらい、それか歳下ぐらいの外見だったけれど、その特徴的な耳が彼女が吸血鬼であることを示している。 「ゼンラニウムさん、お友達が来てるみたい」 ここに来るまでに何度も転んで何度も謎の液体を浴びた彼女は、ビショビショに濡れてコンセントにぐるぐる巻かれているという危なすぎる格好でゼンラさんを呼んだ。私は彼女の壊滅的なドジっぷりにドン引いていたけれど、ゼンラさんはなんの反応も示さなかったことから、これが彼女のいつも通りであることを私は知る。……まあ、それでもあの所長よりかはマシだけど。 気を取り直して「これ、うちの母からです」と私は彼にタッパーを渡す。すると彼は人付きの良い笑みを浮かべて「感謝するぞ」と言った。それは私ではなく母さんに向けられる言葉だと思ったけれど、私はそのまま頷くだけだ。 うちの母親はどうにも昔から惚れっぽい体質で一年に十人以上の人を好きになってはいつの間にかさめているという私にはまったく理解できない精神構造の持ち主なのだった。と、ここまで言えば嫌でもわかると思うけど、彼女が今好きなのはゼンラさんで、私はそのダシに使われているというわけだった。ダシにするより普通に自分で持って行った方が好感度とやらも上がりそうだけれど、奥手な彼女にはこれが精いっぱいらしい。純情なんだかそうじゃないのか、わが母ながらよくわからない人だ。 「というかゼンラさん、今日は収容されてないんですね。どうしたんですか。お出かけの予定でも」 「うむ、今日は遊園地とやらに顔を出そうと思ってな」 「やめてください」 私は即答した。 「む、なぜそんなことを言われなければならない。料金はしっかり払うつもりだぞ」「遊園地なんて子供が沢山いるんですよ。そんなところに全裸のおじさんが表れたら、一生モノのトラウマですよ」 「そういうものか、まあ人間たる従者が言うのならそうなのだろうな。それは我の本意ではない。行くのは止めるとする」 「…………」 自分で言っておいてなんだけど、私は少し申し訳なくなって口を閉じた。確かに、ゼンラさんは異常者かもしれないけれど。それでも私達がいつも向けられている言葉を向けるのは、残酷だったかもしれない。 「……その、遊園地はよくないけど、植物園とかいいんじゃないですか。ゼンラさん、植物好きだし……なんか今、夜の開放やってるっぽくて……暗かったらあんまり見えないかなって……その……」 いやでも、ゼンラさんのことだからもう行ってるのかもしれないな、と気づいた瞬間から私の声は尻すぼみになっていく。けれど彼はその無駄にぱっちりした目を瞬かせて「流石我が従者、いい考えだ」と頷いてみせた。その言葉にホッとしてしまうのは、どうしてだろうか。ゼンラさんといると、いつもこんな事ばかり思っているような気がする。 「……ちょっと気になったんだけど、なんでゼンラニウムさんは、この子のことを従者って言うの?」 ふと、案内してくれた彼女がそんなことを言う。少し目を離した好きに彼女の服が若干焼け焦げていることに私はギョッとしたが、またもやゼンラニウムさんはそれをスルーした。どこまでも彼女はこれが平常運転らしい。 「彼女はこの我を常に支える存在なのだ。こうして我に意見を出すことを許しているのも従者ただ一人だけなのだからな…………」 「ふむふむ、翻訳してもらっても?」 「最初会った時にゼンラさんのこと助けちゃったら、懐かれちゃったっぽくて……」 「簡潔な説明ありがとうございます」 にっこりと笑う彼女はなかなかに容赦がないけど、ゼンラさんが「それは違う」と口を挟んだ。 「我を助けちゃった、のではない。助けたのだ。それは従者の意思であり、間違いなどではなかった」 「…………」 「お前はどうにも自分を貶めるような発言をするからな。主人たる我がこうして訂正する必要がある」 「確かにゼンラニウムさん、普段よりずっと口調がいかめしいかも」 どうやらゼンラさんは私といる時、主人ロールに拍車がかかっているらしいのだけど、私は普段の彼を知らないからなんとも言えない。ただ、生まれてからいままで誰にも褒められた事がなかった私にとって、悔しいことに、彼の言葉は嬉しさじみたものを見出せてしまう代物だった。 「………………」 でも私の口からは何も出てこない。頭に仕込んだアルミホイルがガサガサと耳の裏で揺れる。今だけはお願いだから誰も私の思考を盗聴していませんように、と私は信じてもいない神様に、祈ってしまうのだった。
3
夜の植物園は思ったよりも薄暗い。 それでも人の気配はたしかにあるものだから、なんだか妙な気分になってしまう。こうしていると彼のその異様な姿も自分の頭に巻かれたアルミホイルも、当たり前かのようになっていて、私からすればそちらの方がずっとずっと不思議なのだった。私も彼もここにいることがなんでもないみたいですごく変な感じ。 彼が私のことを誘ってくれた時、私は母にその権利を譲ろうとした。たとえ一過性の気持ちでも、私は彼女のそれを踏みにじりたくなかった。私はきっとなんであれ母親のことを愛しているのだから。けれど母親は笑ってる、私に「言ってきなさい」と言う。昔、彼女が来ていたという、お下がりのわワンピースだって貸してくれた。どうして、と私が聞くと、返ってきた答えはこうだった。 ───だって、あなたは私の娘じゃない。 頭にアルミホイルを巻いて、部屋の中にはよく分からない品物ばかりで、貧乏で、そんな営みの中でも、彼女は母親だった。母親だから、あなたが楽しそうだとうれしいのだと。母親だから、頭にアルミホイルを巻いてあげるのだと。 そのときの感情を言い表す言葉にわたしは永遠に出会えないのだと思った。 彼の方はあれからもう何度も来たらしくて、あれはどうだのこれはどうだのいろいろなことを話してくれる。夜だからか、目に入ってくる情報が少なく、いつもよりあ頭に残りやすい。帽子の下ではアルミホイルがむしむしと皮膚を暖めている。 気がつくと私は、彼のもとから離れてふらふらととある花の元に向かう。 「この花が好きなのか」 「好き、というか。見ちゃうんです、ついつい」 いつの間にやら追いついてきた彼は、存外落ち着いてそんなことを言った。人は皆、カラフルに彩られた道の方に逸れてしまった。私は真っ暗闇に咲く、向日葵をじっと眺める。物言わないそれは、人の顔のようだった。肖像ではなく、抽象として。 「向日葵を見ると、死のうって気になるんです。夏は特に希死念慮が強いけど、向日葵を見ると、特に。皆向日葵は元気な花だ、明るい花だって言うけど……私にはそう思えない」 「ふむ、ならばどう思うんだ」 「なんでかな、死の匂いがするの。ずっと。だから嫌いとか好きとかじゃなくて、少し怖い」 「……従者よ、そんなにも貴様が自分の考えを喋る姿を、我は初めて見たぞ」 こんなこと、クラスメイトにでも言ったら鼻で笑われそうなものだけど、ゼンラさんは笑わなかった。笑ってくれた方が寧ろ楽だと思う。自分を軽んじる相手は、いくらでも切り捨てていいから。困らないから。でも彼のこの、中途半端さは私の手に余るのだった。 「向日葵、小学生ぐらいの夏休みに育てようとした事もあったんですけど、ほら、夜の向日葵って存外しゃんとしてるじゃないですか」 「ああ、確かにな」 「それを見た母が、これは品種改良されてる政府の毒が含まれてるって言って、捨ててしまって。母の中で夜の向日葵というのは、枯れてるものらしかったんですね。それ以来、花を育てるのは止めました」 あの時のことを、今でも私は覚えている。彼女の言うことを、疑ったりなんてしない。でもあの時少しだけ芽生えたどうして、という疑問を育てていたら、枯らさずにおいていたらどうなったのだろう、と私は時折思うことがある。そうしていたら、私はもう少し上手く呼吸ができたのだろうか。 「……我は従者のことを、何も知らないのだな」 「……そんなの、皆そうですよ。分かるなんて言葉は嘘なんです。皆、分かりたいって思いすぎて、勢い余って分かるって言うだけ」 「従者は良く我のことを分かっているなあ、と常々思っていたが」 「ならそれは、ゼンラさんが私に分かってほしいと、」 そこまで言って、私は口を閉じる。なんて傲慢で恥ずかしいことを思ってしまったのか。なんでもないです、と言う前に彼の快活な笑い声が聞こえたので、私は唇をひん曲げた。 「このまま、ずっと夜ならいいのに。ずっと夜なら…………私も、お母さんも、馬鹿にされない。あとついでにゼンラさんも」 「我は馬鹿にされてなどいないぞ」 「はあ?何を今更。いやまあ馬鹿にされてるというか、討伐されていますが」 「従者が先に言った通りだろう。我の格好はなにも間違いではない。そして退治人達も間違いでは無い。他人のことなど分からないのであれば、そこにあるのは妥協か衝突の二つだけだ。ならば我はそのどちらも選ばない」 「…………」 「求めるのならば、納得がいい。たとえ理解されずとも、だ。理解し合えないことを納得してもらうことこそが、相容れない我と退治人達の最前線だろう。だから従者よ、貴様も──」 「…………なにそれ。そんなバカみたいなこと、勝手に言わないでよ!」 「…………従者」 私の声に驚いた魚が、池でじゃぼじゃぼと暴れ回る音がする。でもそれだけだ。 「それでも、アイツらは無傷じゃん!攻撃してくるくせに!私達は何も悪いことなんてしてないのに!なんでこっちが傷つかなくちゃいけないわけ!?」 「従者よ、それは、」 「ゼンラさんはおかしいって思わないの!?狂ってるのはお前らだって思わないの……!?」 「…………」 無言のゼンラさんは、それだけで否定を意味していて、私は彼を突き飛ばして逃げるように走っていった。後ろの方から彼の呼び止める声がしたけれど、私に止まるというすべはなく、その足を動かすことしか出来なかった。
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「この人じゃないですよ」 私が彼を助けたのは、満員電車でのことだった。ただでさえ電車の中のゼンラさんは浮いていて、おまけにそのみちみちの車両の中から「痴漢です!」という女性の声が響いたものだから、呆気なく彼は捕まった。けれど私は、彼では無い他の人間がその女性の臀を触っているところを目撃したものだから、素直にそう言った。 「……君、その頭につけてるものは……」 「それ、今関係ありますか?とにかく微物検査をしたらいいでしょう。それではっきりするはずです」 「だがね、君の言うことはその……信用に値しないというか……」 私は真っ当なことを言っているはずなのに、駅員は私の頭にあるアルミホイルをまじまじと見た。それだけじゃない、私のことを面白がって撮影する人もいた。逃げ出してしまいたいと思った時、その全裸の彼が目に入る。彼は不安そうな顔をしていて、そうしたら私は、引けないと、引きたくないと思った。私は何も間違ったことなんてしていないんだから。 それにもし、ここにお母さんがいたなら、きっと同じことをする。お母さんは、優しかった。どれだけ他人に馬鹿にされても、その人たちことを悪く言うことは無かった。困っている人がいたら助けてあげて、と私にいつも教えてくれた。 ────あなたが人に優しくして、人を助けたぶん、きっとあなたも誰かに優しくしてもらえるから。 私はそんなお母さんの言葉を、信じたかったのだ。 「お願いします。私の言うことを信じられないんだったら、それでもいいんです。でも検査だけは、お願いします。だってこの人は、なにも間違ったことなんてしていないんです。だから」 私は、頭を下げた。アルミホイルが重力に従って落ちても、構わなかった。
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「っ………」 夜の植物園は走るには危うすぎて、私はあっけなく転んでしまう。痛みそのものよりも、お母さんのワンピースを汚してしまったことの方がずっと痛い。 「うお、大丈夫ですか……?」 大学生ぐらいなのだろう。そんな若い何人かの声がして、私はいたたまれなくなる。けれど大丈夫です、という前に、その中の一人が「あ!」と声を上げた。 「この人あれじゃん、アルミホイル女だ」 「え?マジ?」 「なんそれ、アルミホイル女」 「SNSでよくネタ画像で回ってくるやつしらん?大喜利とかになってるやつ」 「あー、バズった投稿のリプライでしか見たことないけど」 「ばっかお前動画サイトでもめちゃくちゃ人気なんだぞ。……あっ、あの!写真撮ってもいいですか!?」 「………………」 私は慌てて頭に手を当てる。転けた勢いで帽子が落ちてしまったのだろう。少し土の付いたアルミホイルが手に触れた。帽子を探そうにも、暗闇に紛れてよく分からない。 私が、インターネットでの玩具になっていることはよく知っていた。というかそもそも、インターネットでは、糖質だとかそういう差別的な言葉がいくらでも蔓延っていて、その対象がたまたま私になっただけ。お母さんじゃなくて良かった、とは思うけれど、ノーダメージでいられるほども強くない。それからというもの私はアルミホイルの上に帽子を被るようになった。帽子があるだけで、私は普通の人になった。皆私のことを、アルミホイルでしか認識できない。私が信じている物事や、ポケットにいつも持った石のことや、庭に埋まっている向日葵の死骸のことも、何も知らない。 許可も得ず、私のことを撮ろうとする彼らから走って逃げる。どうせすぐにでもSNSにはアップされるのだ。止めたって仕方がない。皆私にアルミホイルがあることを認めると、異常者を見るような目をする。おかしい、と思いながら私は彼らの横を通り抜ける。おかしい。この街はおかしい。あんな吸血鬼達のことは皆流してしまえるのに、何もしていない私たちのことを、化物みたいな目で見る。狂っているものでも見るように。 逃げて逃げて、私は門の前に立ち尽くした。入ってきたのと同じ門。そこには当然のようにゼンラさんがいて、私は呼吸を整えた。どうして、だなんて疑問は持たない。入口も出口もこの門だけなのだから、そりゃあここにいたら私を捕まえることは出来るだろう。 「!術者!どうしたその傷は!おのれ……攻撃を受けたか……」 「……いや普通に転けたので」 というかあの後でも普通に話しかけてきてすごい、とどこか能天気に思っている私に反して、彼の顔は険しい。なんだかいつもと立場が逆みたいだ、と思った。 「貴様が転けるなんぞ、不注意なことをするものか。こんな暗闇なら尚更だ」 「むしろ暗闇だから躓いたんですよ」 「それに、帽子はどうした」 「…………」 私は誤魔化すみたいに笑った。ゼンラさんは笑ってくれなかった。私は笑ったまま、口を開いた。とめどない濁流のように。 「あのね、何を勘違いしてるかしりませんけど私はゼンラさんのことだってキチガイだと思ってますよううんゼンラさんだけじゃないあそこにいる吸血鬼全員キチガイだし私のこと玩具にしてるやつもキチガイなんだまあ一番キチガイなのはうちの母親ですけどね本当は分かってるんですよこんなもん嘘だってどうせ何も無いんだって電波とかそういうの無いんだよあるわけないんだ私って優しいなキチガイに付き合ってあげてるんだからゼンラさんにも母さんにも付き合ってあげてるだけの一般人なのに私はキチガイじゃないのに」 言い切れば息が上がって、ぜひぜひと呼吸が漏れた。生温い風が頬を濡らす。私はアルミホイルを頭から外した。 「辛かったな」 「……え」 「辛かっただろう。我は貴様ほど優しい人間を知らん。だから貴様を従者にした。それが貴様を傷つけた。それだけではない。この世界はあまりにも、貴様にとって生きづらかっただろうに」 ゼンラさんは私の頭に手を置いて、「辛かったな」ともう一度呟いた。どうしてこの人は私の心が分かるんだろう、と思って、地面に落ちたアルミホイルを眺める。そうだ。辛かった。ずっとずっと、辛かった。優しくしたいのに、この世界は私達に優しくなくて、ずっと殴られるばかりで、だから殴り返してやらないといけないのに、殴り返したその手は酷く痛くて。 「…………ごめんなさい。私、酷いことを言っちゃった」 「従者の文句の一つ聞き流せぬようでは、主とは言えんだろう」 「…………お母さんのことも、嫌いじゃないんです。ゼンラさんのことも、嫌いじゃないの……ただ……」 「……………………」 「………………辛いよ…………」 涙が出た。涙が出た。涙が出た。 その涙は花を咲かせることもなく、乾きを癒すでもなく、ただ単にアスファルトに落ちて、広がっていくだけだ。 「私達、普通にしてるだけなのに、変ですよね。皆、変ですよ」 「ああ、そうだな。この世は狂っている。貴様も我も、そして有象無象達もだ」 ゼンラさんは豪快に笑って、いつものように種を取り出す。けれどそれを口に含ませるようなことはせず、私の前で握りしめて、開く。 「…………マジック?」 「うむ。同胞が教えてくれたのだ。こんなものしか出せないが、心の慰めにするがいい」 現れたのはゼラニウムだった。でもいつから握っていたのか、ほんの少ししおしおになっていて、格好つかないのが彼らしい。あとマジックだって認めちゃってるところも。 「…………全く、私は良い主人を持ちました。従者として誉だかぁくございましてよ」 私がそうやってわざとらしく、よく分からないまま貴族っぽいお辞儀をすれば、ゼンラさんが吹き出した。私もそれに釣られて笑ってしまう。そうやって私達は、しばらくそこで子供みたいにゲラゲラ笑いあっていたのだった。