「男は前にもウミガメのスープを飲んだことがあるか」 「ええ」 「そしてそのスープは今回飲んだスープと味が違っていた」 「うん」 「……ならば答えはこうだ。以前男はウミガメのスープを飲んでおり──────」 アルハイゼンの答えを最後まで聞いた女は、満足そうに頷き「正解」と呟く。指先だけで拍手をしてみせた。

アルハイゼンと女は、時折こうやって水平思考の問題について語り合う仲だった。とは言え、問題を出すのはいつも女の方、答えるのはいつもアルハイゼン。とどのつまり、常に女の方から話しかける関係性だったということだ。 女は珍妙なことに、猫に好かれる人間だった。なのでいつも、彼女の足元には数匹の猫が着いて回る。現に今だって、アルハイゼンの質問に肯定か否定かの二つを答えている最中、足元では猫がなおなおと鳴いて欠伸をしている。お陰で資料室に入るのにも苦労すると言っていたのは、いつだったか。 「ああ、こらこら。舐めないの。汚いよ」 「……そこか?」 一匹の猫が何を思ったのか、アルハイゼンの靴を舐めようとする。女はそう声だけで制したけれど(そしてアルハイゼンは釈然としない顔で彼女を見た)、猫はのんびりとアルハイゼンの靴を舐めている。 「ああ、もう駄目だ。止めたかったら君が止めてあげて。私はどうにも出来ない」 「……君はまさか、猫に触れないのか」 「そうだけど、まさかって何?そんなに変かな」 「君はいつも猫と一緒にいるだろう。…………いや、それは正確では無いのか。確かに猫が君に着いてくることはあれど、逆は見たことがない。猫を抱えている姿も同様に、」 「……………………」 そこでアルハイゼンはじっと女が自分を見つめていることに気づき、「なんだ」と憮然とした態度で言った。 「いや、君が猫って連呼してるの、かなり面白くて」 「……君のセンスはよく分からないな。分かりたくもないが」 アルハイゼンの物言いにひとしきり笑ったあと、女はまるで言い訳をするように「だって、なんだか怖くって」と呟く。脈絡のない、理路整然の対極にある言葉だ。 「昔、猫を家で飼ってたから、その時は触れたの。でも猫って持ち上げたら思ったより伸びるし、お腹を触ったら内蔵みたいなものがあって、しっぽにはまるで針金が通ったみたいに核がある。それがなんだか、無性に怖くなってね。触れなくなったの。生きているものの、生暖かさも、なんだかね」 「それを言うなら人間だってそうだろう。猫だけが駄目な理由にはなっていないと思うが」 「ええ、そうよ。だから私、生きたものには触らないの。なんだか怖くって」 「…………」 「じゃあ私、そろそろ行かないと。また問題を作ったら顔を出すよ」 彼女の物言いは、アルハイゼンが断るという発想は女の中に無いような言い方だったが、実際、アルハイゼンの方も断るという発想が無かったのである。

女を探したければ猫に着いていけばいい、というのはこの院で周知の事実だった。なんせ、彼女は常に猫と共にあるのだから。 「以前どうして私が猫にこんなにも好かれるのか、不思議に思った人が私を研究対象に選んでね」 「……どうなったかは察しがつく」 「ええ、結局、何も分からなかった。その人だって猫アレルギーになっちゃって、可哀想だったし」 「君には心当たりがあるのか?」 「ええ、それは─────」 女はそう言いかけて、口を閉じた。それから目を細めて、楽しげに笑う。それこそまさに、猫のように。 「わかった。じゃあこれを、次の問題にしよう。どうして私が猫に好かれるのか」 「前から思っていたが、どうして君はそんなにこの問答が好きなんだ。研究分野は違うだろう」 そのアルハイゼンの言葉に、女は一瞬きょとんとした顔をして、眉を下げた。困ったような笑い方だった。 「だって─────アルハイゼンが色んなことを、聞いてくれるから。私はそれが好きなの」 「……聞くことが?」 「だって君、私に何も聞いてくれないでしょう」 そう微笑む女の髪が、スメールの生暖かい風に揺れるのを、アルハイゼンは黙ってみやった。

「猫は好きか」 「いいえ」 「実家はなにか猫に関連する事業を行っているか」 「いいえ。してないよ」 「猫に名前は付けているか?」 「いいえ。見覚えのある猫は、分かるけど」 その問答は、数日をかけてもまだ続いていた。アルハイゼンがこうにも答えを導き出せないのは珍しいことだったからだ。 「さて、それじゃあそろそろ行かないと。また質問、考えておいてね」 女は今日はここまで、と言わんばかりに席を立とうとするので、アルハイゼンは「待ってくれ」と引き止めた。彼がそんなことを言うのは初めてのことで、女は目を丸くする。 「これを君に」 「…………猫、のぬいぐるみ」 「知人が酔っ払った時に買ってきた。君が持っていた方がいいだろう。嫌なら燃やすが、」 アルハイゼンの言葉は途中で途切れた。女が大きな声で「ありがとう!」と言ったからだ。それこそ周囲になんだと言う顔で見られるぐらい。 「…………ありがとう、本当に。君がプレゼントしてくれるなんて、思ってもみなかった」 「プレゼント、という定義が正しいかどうかは一考の余地があると思うが」 「グダグダ言わないで。嬉しいから、それでいいの」 女は命のない、その猫のぬいぐるみを抱きしめてくるくるとその場で回った。幼い少女のようなその仕草に、アルハイゼンは呆れたように少しだけ笑ってみせた。本当に、少しだけだが。 「ねえ、今なら私、答えを言っていいよ」 「答えを?」 「だって、そうじゃない。聞けばよかったのよ。どうしてウミガメのスープを食べて死んだのか、どうして席を変わらなかったのか、どうして野原で死んでいたのか……全部、聞いたらいいって思わなかった?私、君に聞かれたら、答えていたのに」 そんな女の言葉に、アルハイゼンは顔をしかめる。 「馬鹿馬鹿しい。それならもう問いかけでもなんでもないだろう。問題として成立していないのなら、それはただの事象だ。事象を事象としか捉えられない、一次元的な考え方しか出来ないのなら、学ぶ意味が無い」 「………………そっか、君は、そうなんだね」 女はアルハイゼンの言葉に微笑んだ。それはほんの少し、翳りのあるもので、アルハイゼンは何かを言おうとしたけれど、結局何も言えなかった。 「変なこと言ってごめん。これ、嬉しかったのは本当だから。ありがとう。大事にするよ」 そう言って、女は手と足元に猫を連れ立って去っていく。 そしてそれが、アルハイゼンが彼女を見た最後の日だった。

女は死んだ。自殺だった。自分の部屋で、ドアノブにロープをかけて首を吊っていた。 後から聞いた話では、その日、女の部屋の前では猫がなおなおと鳴いていたらしい。普段からあることだったらしいが、数がいつもの十数倍だったので、周囲の人間が異常に気づいて発見に至ったのだという。 彼女にあげた猫のぬいぐるみは、カーヴェを通じて彼の元に返ってきた。そしてひとつの小箱も。珍しく落ち着いた様子のカーヴェに「これをお前に渡すようにと書かれてあったらしい。…………そのぬいぐるみも、皮肉だな。折角彼女のために買ったものだったんだろう?」とアルハイゼンは言われて、それを受け取った。耳元に小箱を当てて振ってみれば、かさかさと音がする。恐らくそれは紙で、すぐにアルハイゼンは『答え』だと気がついた。 けれどアルハイゼンには、その箱を開ける気になれなかった。答えがすぐそこにあるのに、不思議ともうどうでもいいと思った。解けかけた問題を放棄することは、彼にとって初めてのことだった。 彼女が死んだ理由を、誰も知らない。誰も聞いていない。ただ一つ確かなことは、院にはもう二度と、一匹の猫も現れなかったということだけ。 彼女は猫と共に去った。それだけが、確かだった。