1
朝、時間通りに起きられたことが無い。 時間というものに間に合ったことがない。 私が目を覚ませば、時刻は午前の十一時だった。体が縮んだゴムみたいになって、でも発散する場所が上手く思いつかないまま、私は窓から顔を覗かせる。外には誰もいない。穂刈くんもいない。私はしばらくしてから顔を引っ込めて、のろのろと制服に体を通し始めた。跳ねた髪の毛をヘアーアイロンなんかでどうにかする気力もないから、水でぺたぺたと押し付ける。どうにも先だけが跳ねていけない。冷蔵庫にあったラムネを一粒だけ食べて、私は自転車に乗った。平日の昼間は実に平和だ。誰かにとっては地獄たり得る時間だけど、私にとってはそう。道行く人が不思議そうな顔で私を見るけど、知らないフリをした。 「遅かったな」 教室に入ったら穂刈くんが真っ先に声をかけてきて、私は「うむ」とだけ言った。「変な言い方だな。殿様みたいな」 「うむ」 私はのろのろと、教科書の類を机の中に突っ込んだ。その間に穂刈くんは何かを言っていたような気がするけど、私はその全てを無視してしまった。意地悪がしたいのではなくて、ただ単に話を聞く余裕がないのだ。ようやく机にそれらを入れ終わった私は、始業のチャイムがなる前に教室を出て、保健室に行った。馴染みの先生が調子はどうだとか抜かして、私は体温計をいつものように脇に突っ込んだ。案の定熱はなくて、私はベットに陣取って寝た。起きたら午後の二時になっていて、教室に戻った。そういうことを、私はいつも繰り返していた。 「穂刈くんを見てると、鶏肉が食べたくなるよ」 「何でだ」 「帰りにコンビニ行こうかな」 ちなみに、今日した会話はこれだけだった。 家に帰ると、穂刈くんからメッセージが来ていて、そこには端的に『明日からモーニングコールをする』と書かれていた。私はどういう風の吹き回しだろうかと小首を傾げて、端末の電源を落とした。これで連絡も何も無いだろうと寝こけた私が朝見たあのは、穂刈くんの顔だった。 「起こしに来たぞ、お前を」 「え?やだ……」 「鶏肉もある」 「もっとやだ……」 押し付けられたものを見れば、コンビニで売ってるサラダチキンだった。私がそれをモソモソと食べる間、制服姿の穂刈くんはじっと私を見つめていた。 「穂刈くん、一体全体どうしたの」 「こっちの台詞だ、それは」 何が、と言おうとして私はやめた。あんまりにも心あたりが多すぎて、言うのが億劫だった。私達の周りに発生している諸問題は政治から宇宙から多すぎて、話す気にもならないのだ。話した所で、解決するわけでもないから。 「穂刈くんって、私のことなんも分かってないよね」 「そうだな」 徐に彼はティッシュを取って、私の口周りに飛び散った肉汁を拭った。私はなされるがままで、こんなことすらも億劫になったんだなと思うと悲しさよりも虚しさが勝った。
2
昔から約束事を守れたためしがない。 そしてその頃からずっと穂刈くんとは家が近所で幼なじみと言ってもおかしくないのかもしれない。けれど私は一回も集合にまにあわなかったし、穂刈くんが私を迎えに来たことなんて一度もない。どういう風の吹き回しだろうか、と思いつつのたのたと貰ったサラダチキンを食べる。普段、朝食は昼食と兼用しているから胃がびっくりして吐きそうになった。でも吐く訳にはいかないから、水を飲んで我慢する。穂刈くんはその大きな図体をゆらゆらと揺らしながら(暇なんだろう、意味の無い動きだ)私のそんな様子を見ていた。 「穂刈くん、先に行っていいよ」 「意味が無いだろ、それじゃあ」 「意味って何?」 「登校」 さかむきですらない、端的なことばだった。私はせりあがってくる肉の味から意識を逸らして、それから「うん」と言った。体が鉛のように重たかった。 「分かったよ」 「分かってくれたか」 「何も」 矛盾していたけれど、穂刈くんは指摘することなく自分のバックを持った。 私は穂刈くんと二人で、のろのろと学校の廊下を歩いていた。こんな朝の早い時間にここを歩くのは久しぶりだと思う。生徒がそこそこいて、みんな楽しそうで、うるさくて、わずらわしい。わずらわしい。 「ほら」 穂刈くんがふと足を止めて、廊下の掲示板を指さした。教科別に、生徒の順位が貼られた紙はなかなか前時代的だと言わざるを得ない。彼がなぜそれを指さしたのか分からないので、私は黙りこくった。彼も彼でしばらく何も言わないので、私はウトウトとして、目を必要以上に瞬かせたりした。 「名前がある。おまえの」 「うん」 一番上に私の名前がある。当然だ。だって私がこの学校で一番頭がいいから。逆に言うと、この学校の生徒はみんな私より頭が悪いから。穂刈くんは一度大きく頷いて、「凄いことだぞ、これは」と言った。 「穂刈くんに言われてもうれしくないよ」 「誰に言われるならいいんだ、じゃあ」 「ホーキング博士」 私がそう言えば、彼はその重たげな目を何度か動かして、不思議そうな顔をしていた。私はそれら全てを無視して教室に入った。自分の席に座って机の中に手を突っ込むと、昨日入れたはずの教科書だとかノートだとかが、全部無くなっていた。仕方がないから、私はまた保健室に行くことにした。いつものように、どうせ熱もないのに体温計で平熱を叩きだした。それでベットに横になって、目を瞑った。 もう二度と目覚めたくないと、とぼんやりとそれだけを考えた。 馬鹿みたいな電子音が響いて、私は目を覚ました。この曲なんだっけ、と思って視線を横に向けると、そこには穂刈くんが何故かベットの隣にいて私を見下ろしていた。私の鞄まで持っている。それとサラダチキン。 「気づいたんだが」 サラダチキンを押し付けながら、彼は私に問うてきた。 「見下されてたのか、オレは」 「そうだよ」 返事はするりと口からとび出た。私はもう一度「そうだよ」と言って目を閉じた。目を開けたら穂刈くんはいなくなってて、隕石が落ちる五秒前で、学校にテロリストが襲撃しに来ているといいなと思ったけど、全然そんなことはなかった。穂刈くんも学校も私もいまだ健在で、彼は「そうか」と言って元より細い目を、さらに細めるだけだった。
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小さな頃から友達がいたためしがない。 そう言うと周囲の大人たちはじゃあ穂刈くんはなんなのだ、と言う。穂刈くんは穂刈くんでオンリーワンだ。つまりはどうでもいい人ということだった。どうでもいい、オンリーワン。道端の石ころの形はみんな違うから。 そんなことをぼんやりと考えていたら、激情した母親に頬を叩かれてしまう。痛い。なんの話しをしていたんだっけ。 「どうしてあんたはいつもそうなの……!」 そうだ。そう。そういう話だった。一応言っておくけれど、彼女は理由のない暴行をはたらくひとではない。家庭内暴力という言葉にも長らく無縁だったのだし。父親が彼女を抑えているうちに、私は自分の部屋に戻って鍵をかけた。 なんてことはない、私がクラスメイトに暴行を働いたのだ。死ね、死ね、と言いながら椅子を持ち上げてクラスメイトにぶつけたのだ。クラスメイトは骨折したらしい。先生にどうしてこんなことをしたのかと聞かれた時に「みんなが私よりも頭が悪いからです」と言ったからだ。母親が激情するのも無理はない。たとえ、それが事実だとしても。私は毛布にくるまって目を瞑った。涙の一つも出てこなかった。悲しくもなんともなかったから、当然だと思う。 気がついたら夜で、何故か目の前には穂刈くんがいた。 「モーニングコールは、」 「それはまたする」 朝じゃないの、という言葉を遮られて放たれたそれはどこまでも端的だ。今日も彼は丁寧にサラダチキンをくれた。私はそれを食べた。 「どうして何も言わない」 「何が?」 「虐められていたことだ、おまえが」 「…………なあに、それ」 サラダチキンの汁が手について、ベトベトでわずらわしい。まるでクラスメイトみたいにわずらわしい。 「私があんな……あんな私よりもずっとずっと頭の悪いひとたちに傷つけられると思う?」 「思う」 何故そんなに確信めいて憶測を発言できるのか、私には全く分からない。 「じゃあ百歩譲ってそうだとして、今それを言って、どうなるの。私は虐められてたから、虐めてきた人間に死ねって言いながら椅子をぶつけて骨折させていい権利がありましたって言うの?」 「道理じゃないな、それは」 「そうだね。だからもういいよ」 私はベタベタになった手を当てつけみたいに穂刈くんの制服で拭いたけど、彼は何も言わなかった。それをいい事に私はもう一度毛布にくるまった。けれどすぐに彼の手によって引き剥がされてしまう。彼は私の上に覆いかぶさっていた。細長い目が私をじっと見下ろしている。私はそれが腹立たしかった。他人を見下しているくせに、他人に見下されるのは腹が立つのだ。人間なんて皆そんなものだとは、思うけれど。 「穂刈くんも、私を虐めるんだ。私より頭が悪いから。私に見下されるのが嫌だから」 「そんなことはしない」 それは弁解どころか、全く悪気のない、謝る気のない声色だった。 「仕方がないだろう、」 そんなことしても、と続くのかと私は思っていたけれど、結果としてはそうならなかった。 「自分より弱い人間を虐めても」 「……穂刈くん、死んでよ」 私がそう言うと、彼は薄く笑った。それはここ数日で初めて見た、表情の乏しい彼の笑い顔だった。
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朝、時間通りに起きられたことがない。ずっと昔からそうだった。最初からそうだった。生まれた時からそうだった。誰にも言ったことは無いけれど、私は自分が起きる意味を見いだせない。起き上がって学校に行ったり、何かを食べたり、誰かと話したり。そういうこと全般が、無意味だと思う。呼吸をすることは苦しくて、立っていることを意識するだけでくらくらとする。体はいつだって鉛のように重くて、目が覚めている間はずっと溺れているみたいに苦しい。それなのに本当は眠っている時間の方がすくなくて、真っ暗闇の中でも自分の目が開いていることだけは分かっているから、ブラックホールよりもまっくらな天井をいつも見ている。 昔、一度だけ、穂刈くんが迎えに来ると言ってくれたことがあった。遠足か何かで班がおなじになったのだ。私が時間を守れない人間だということは当時から有名だったから、多分、それでだ。もう理由なんて覚えていない。私にとってはその事実だけが大事だったから。 小学生だった私は、その日だけはちゃんと起きれた。正確には眠らなかっただけだけど、穂刈くんが来ると言っていた三十分も前から窓の外を眺めて彼を待っていた。でも、来なかった。穂刈くんは来なかった。その日から毎日窓の外を見たけど来なかった。一回も来なかった。来なかったくせに。来なかったくせに。来なかったくせに。 「穂刈くん、なんであの時来なかったの」 「寝坊したんだ」 「最低」 「ああ」 「最悪」 「ああ」 「死ねバカ」 「ああ」 何を言っても、ああ、としか彼は言わなかった。淡々とした返事はまるで子守唄みたいで、私の瞼は段々と重たくなってくる。 「私、昔は穂刈くんみたいになりたかったんだよ」 「ああ」 「穂刈くんみたいに、強いひとになりたかったんだよ」 「ああ」 「今はもう、こんなに頭が悪いひとになりたいとは思わないけど」 「でも、なりたかったぞ、オレは」 「頭が悪いひとに?」 「違う。おまえみたいな頭のいいやつに」 「………………」 「今はもう、こんな性格が悪いやつになりたいとは思わないが」 「そう」 「ああ」 私はいよいよ眠たくなって、目を閉じた。こうして眠気が来るなんて何年ぶりのことなんだろう。穂刈くんはどうするんだろうと思っていたけれど、全然退く気がないのでそれが少しおかしかった。まあ、今日なら母さんも父さんもそれどころじゃないだろうから、良いのかもしれない。 「起きろ、おい」 「穂刈くん、もう起こしてくれなくていいよ」 「駄目だ」 「駄目って」 「破るわけにはいかない、約束を」 「そのわりには、迎えに来るのが遅かったけど」 ちょっと黙り込む気配がしたので、私はまたおかしくなった。否定出来ないのが彼らしいなと思った。穂刈くんは素直過ぎるのだ。私とは違って。 だからもう、私は満足してしまった。どうせ私はずっと時間を守れないし、生きている意味も見いだせないし、体が鉛なのも変わらないから。このままの性格で社会で生きていくのにも、もう限界があるらしいし。もし私が穂刈くんよりも先に目覚めてしまったら、きっとそれが私の死ぬ時だと思った。首吊りでも、窓から飛び降りても、包丁を刺しても、毒を飲んでも、何だっていいのだ。穂刈くんの寝顔を見た時が私の死ぬ時だと思った。穂刈くんがいるのに、時間ぴったしに目覚めてしまったら、それこそ生きている意味なんて、今度こそ本当に無いのだ。 「……あ、待って、穂刈くん。私なんで穂刈くんを見ると鶏肉食べたくなるのか思い出したよ」 「今か?それは」 「穂刈くんの頭がトサカっぽいからだ」 「筋肉があるからじゃないのか、オレに…………」 「自画自賛にもほどがあるよ。そもそも穂刈くんの体を見た事ないし。ある方が大問題では?」 若干落ち込んでいるのが凄いな、と思いながらも「穂刈くんって本当に頭悪いね」と返す。そしたら反抗するみたいに重い体がのしかかってきて、それは普通にわずらわしい。 でもそんな穂刈くんが、最初で最後の、私の今際の際だった。