「──くん、起きて」
「……あ?」
「まだ夢でも見てるの? 早く起きなよ」
それはよく見知った女の顔────じゃねえ。見覚えのない、女ですらない。小学生ほどの、少女の顔。あどけないその顔が、オレの視界に映り込んだ瞬間。オレは全てを理解した。
「お前、────かやだな」
てんごく、と発した音はノイズによってかき消される。まるで上からぐちゃぐちゃとペンを走らせたように、この夢では天国という苗字は意味を持たないらしかった。ただ、今までの夢と違うのは、オレが真っ先にこいつの存在に気が付いたこと。天国かやという女を、忘却しないまま存在しているということだ。
「うん? そうだよ。わたしは、かや。変なまひろくん。どうしてそんなこと聞くの?」
「……は? おい、何ふざけてやがる。さっさとこの夢から、」
「まひろくん。どうしたの……? そんなに怖い顔、して……わたし、なにかした?」
本当に困惑した様子を見せる。これは演技なんかじゃない。オレには分かる。あの女にこんな器用なまでが出来るわけがない。ああ、そうか────逆だ。オレが、天国かやを忘却したんじゃない。天国かやが、オレを忘却した。忘却した、というよりも無かったことにしたという方が近いだろうか。今までの夢の中で、天国はオレの知っている天国だった。地味な丸眼鏡をかけ、背筋は曲がって、髪は短い、オレと海に飛び込んだ女。これを天国かやと定義するなら、今目の前に居る少女は天国かやであって、天国かやではない。オレと出会う前。そして、舞台に魅入られる前の、あいつ曰く、普通の女の子。眼鏡は無い。髪は長く、雑な一つ結びにされている。姿勢が悪いのは相変わらずで、ワンピースが好きなのも相変わらずだ。
朝早いのか、教室にはオレ達しかいない。ピンク色のランドセルを隣の机に下ろした少女は、キャラクターのあしらわれたファイルを取り出した。それから教科書なんかを机に突っ込んだ後、またオレの顔をちらと見て、それからなにか言いたそうにしながらも黙りこくった。その視線がどこまでも有象無象と同じで、オレは無駄にイライラとする羽目になる。
「言いたいことがあるならさっさと言えよ、〝かや〟」
「いや、あの……違うんだったら、違って、いいんだけどね? その……」
遠慮がちな言い回し。視線は合わさない。手の指をくるくると回している。その様子はどこまでも気弱な女の子とやらだった。こっからどういうふうに成長したらあんな暴言を吐くようになるんだよ。
「……まひろくん、友達と、喧嘩でもした?」
「……してねえよ。何でそう思う」
「だって、その。まひろくん、ちょっと、かなしそうなかお、してたから。くるしそうなかおで、寝てたから……」
「────ハア⁉」
腹が立ったので天国の口を掴んで引き伸ばせば酸素を失った魚のようにもがき出す……かなり見苦しい。