メロピデ要塞にある、救護室のベットはいつも一つ埋まっている。それにリオセスリが気づいたのはいつの頃だったか。少なくとも、もう既にシグウィンは居てくれたものだから、彼は彼女に話を聞いたものだった。 『あの子はね、もうとっくに心が壊れちゃってるの。仕事をさせようにも突然パニックを起こして倒れるし、一人にしておくと何をするか分からない』 だからウチが面倒を見てあげなくっちゃ、と呟くシグウィンはいつになく上機嫌で、けれど間違ったことは何も言っちゃいなかった。だからリオセスリは特に言及することなく、その救護室の女のことはしばらく忘れていた。

久々に彼女のことを思い出したのは、怪我人を数名連れて救護室に入った時だ。勿論、リオセスリ本人は『仲介』をしただけなので、怪我一つない。 ちらと彼が部屋を見渡すと、軽症と重症の狭間にいる怪我人の数に対して、ベットの数が足りていないのは明らかだった。シグウィンは手当に追われていて、だから彼は良かれと思ってその隅のベットの毛布を剥ぎ取った。 そこには白髪が少し交じった、少女と女性の狭間のような人間が一人蹲っていて、毛布を剥ぎ取られたことに気づくと、彼女はリオセスリをじっと見つめた。 「あー、悪い。少しベットを空けて欲しいんだ。重傷者がいてな。その間、俺の部屋に来てくれて構わないから。いや、その他の所でも全然構わないんだが」 「…………」 女はもの一つ言わず、リオセスリが想像していたよりずっと機敏な動きでベットから立ち上がった。行く、という意思表示だと受け取ったリオセスリは、そのまま彼女を外へと連れ出した。シグウィンはその光景を患者達に阻まれて、見ていないようだった。

リオセスリが先導するように階段を降りれば、その背後で鈍い音がした。女が転けたのだ。慌ててリオセスリは彼女に駆け寄ったが、彼女は苦悶の声一つ上げなくて、それが尚更怖かった。思えば彼女は立ち上がりこそスムーズだったが、その足は今にもバランスを崩しそうだった。 「背負うか?」 女は首を横に振った。しかたなく彼は彼女を支えるようにして、どうにか自分の部屋まで彼女を連れてくる。 「…………悪かったな。あんたはあのまま向こうにいた方が良かったかもしれない。悪い意味で侮っていたよ。すまなかった」 リオセスリの言葉に、女はのろのろと首を横に振った。 「いいの。別に。どこに居ても変わらない。どこに居ても逃げられないから」 「……?なんの話をしてるんだ?」 「海」 女はか細い声でそう言うと、あとはじっと黙り込んで、机の横に座ったかと思うと、そっと目を閉じた。

女は基本的には、まるで貝のように動かない性質らしく、一度救護室から出てしまえば、二度と戻ることはなかった。そして今はずっと、なんならリオセスリがいない間も、彼女は彼の部屋に閉じこもっている。 ウチがお世話出来ないじゃない、と某看護師長から何度目かの叱責を受けた後に、リオセスリは部屋に戻ってくる。するとやはり、女がまるで猫のように地面に蹲っていた。彼女の放り出された素足は、長らく光を浴びていないから、どこまでも青白く、剥き出しの魚の肉を思わせた。 リオセスリは彼女を見ていると、犬だとか猫だとかそういうペットを飼いたい気持ちが霧散していくので、この現状に凡その満足を示していた。ただ彼女の方はそうとは言い難い体調だった。時折頭を掻きむしり、何かを喚き、ろくに何も入っていない胃の中を空っぽにして見せる。彼女はいつも、床の方に向かってぼそぼそと話しかけていたり、喚いている。 一度だけ、リオセスリは誰に向けたものかと彼女に聞いたことがあった。彼女はまるで憑き物が落ちたかのように「海よ」と無邪気に言った。微笑んですらいた。

「子供を海に捨てたんですって。それでここに来たの」 シグウィンの言葉に、リオセスリは一度だけ手を止める。けれどそれも一瞬のことで、それから静かに「血統書があろうがなかろうが、返さないぞ」と呟いた。 「札付きの悪に言われたくないわよ」 「どこで覚えたんだ、そんな言葉……」 シグウィンは微笑むだけで、それ以上なにかあの彼女に対して言うことは無かった。

仕事が終わって少し時間ができると、リオセスリは時たま彼女と同じように床で横になった。耳を床に当てみても、ごうごうと機械が動く音しか聞こえない。女の髪が、波のように広がっている。 「海が怖いのか」 「怖くない人なんていないわ」 「綺麗だと言う人間もいるだろう」 「綺麗で怖いのよ。物事は画一的でなくて、矛盾している。いつだってそう」 「海が怖いアンタが、ここに居ることも含めてか?」 女は答えずに笑った。リオセスリはそんな横向きの笑顔をじっと見ているばかりだった。

終わりは存外あっけなかった。 女が床に住み着いて数年経った頃だろうか。 原始胎海が監獄の奥底から吹き出した。その中に、突然走ってきた女が飛び込んだのだ。髪を振り乱して、まるで無邪気な子供のように。 止める間も無かった。リオセスリは吹き出した海を凍らせるのに精一杯だった。この監獄の人間と女を天秤にかけた時、あっけなくそれは前者に傾いた。きっと何度その時を迎えたって、彼は同じ判断を下すだろう。けれど後悔だって、何度だってするだろう。 女が何を思ってあんなことをしたのか、リオセスリには分からなかった。

それからまた、少しの時間が流れた。 彼はいつも通り自分の部屋で書類と向き合って、ふとその手を止める。紙が、濡れていた。ぽつぽつと、その染みは増えていく。 彼は思わず上を見上げた。雨だった。普通、上から水が落ちてくるのなら、真っ先に漏水だとかそういうことを考えなくてはいけない。けれどリオセスリはこれを、雨だと思った。 視線を戻すと目の前に、彼女がいた。リオセスリは思わず立ち上がった。彼女は微笑んでいる。 「…………どうして、あんなことをしたんだ」 「迎えに行ったのよ」 それは、分かりきっていた答えだった。分かっていても、分かりたくない答えだった。だからリオセスリは質問を変えた。 「なら、どうして、ここに来たんだ」 「迎えに来た、と言って欲しいの?」 女は笑った。見透かされている、と彼は思った。 「壁のパイプ、その裏にキャンディを貼り付けておいたのよ。貴方と食べようと思って。それを忘れていたから。それだけ」 「そんなものいらなかった」 「そう。ならシグウィンにでもあげて。彼女にはお世話になったし」 じゃあ、と女はリオセスリに背を向けて、そのまま部屋から出ていった。リオセスリは後を追わなかった。追ったとて、彼女はもうどこにも居ないだろう。席を立ったそのまま、パイプの裏に手を這わせる。何かがテープで止められていて、彼はそれを剥ぎ取り、手中に収める。 それは、誰がどう見てもキャンディなんかでは無かった。彼はそれを呆然と眺めて、短い息を吐いた。 「……分けられるかよ、こんなもの……」 リオセスリの足元に、染みが出来る。それはまるで、雨のようだった。