1
彼女はオレよりも二つ年上だったけれど、夏頃にはオレと同じ教室にいた。留年したらしいという噂はもう既にクラスメイト達に広まっていたけれど、彼女は一見して素行が悪そうな見た目ではなかったから、なんとなく体の調子とかそういうことなのかなとオレは思った。他のクラスメイトもそう思っていたんじゃないかな。 「笹森くん」 「……え、あ、はい」 「名前、違ってた?」 「いや、そんなことは」 ないです、という言葉は小さくなって消えた。彼女だった。彼女は無表情だったけれど、その小首をかしげる動作はどこか親しみのあるものだったと思う。 「今日の課題って、どこだっけ。数学の」 「え?ああ、ええと……」 慌てて問題集をリュックの中から引っ張り出す。途中で以前寄ったコンビニのレシートが出てきてオレはすごく焦ったけど、彼女は相変わらずの無表情で、そんな様子を見つめるばかりだった。オレが該当箇所を指させば、ありがとう、という端的な返事が返ってくる。それが最初の会話だった。 彼女はクラスの中でも浮いていた。でもいじめなんてものが起こるほど皆は彼女に興味がなくて、浮いていると言ってもほんのかすかに、居場所が無いぐらいだった。 居場所がない、と言えば。一度、体育の授業終わり、クラスに戻ると電気もついていない教室で彼女がぽつねんと座っていたことがあった。彼女はその明るくも暗くもない薄ぼんやりとした部屋で文庫本を読んでいた。カバーがかけてあったから名前は知らない。オレは若干震える声で「電気……つけていいです、か」と彼女に向かっていった。 「笹森くん」 「あ、はい」 「……合ってる、よね?」 オレが頷くと、彼女はくすくすと笑った。何がそんなにおかしいのかオレにはよく分からなくて、知らないうちにからかわれたのかと、ちょっと落ち込む。彼女はそんな様子を見て、また笑ったようだった。 「電気、つけてもいいよ」 「あ、うん……」 「それになんで敬語?」 「だってほら、年が、」 違うから、と言いかけて口を噤む。遅かったかもしれないけれど、その無神経さにようやく気がついたからだった。でも彼女はどこかあっけらかんとした口調で「気にしなくていいのに」とだけ言う。 「でもまあ、それは私が決めることじゃないか……」 彼女は続けてそう言って、一人納得したように頷いた。そうしてまた、文庫本を開いた。その目がすらすらと動いているのをオレは見て、それから自分の席についた。 「ねえ笹森くん」 彼女は何を思ったのか、突然振り返ってこう言った。振り返りざまの彼女はまた無表情で、でも何故だが唇から血が少しだけ出ていて、乾燥肌なのかな、と呑気にそんなことを思う。 「やっぱり、敬語でいいよ」 「なんで、ですか?」 オレは突然の方向転換に微妙に言葉がブレる。 「私、後輩が欲しかったの」 そして一方の彼女はそんなことを言って、またくすくすと笑うのだった。
2
「笹森くん……笹森くんで合ってるよね?」 「……今度はなんですか?」 「吐きそう」 そう言って、彼女はニッコリと笑うものだからオレはどうしていいか分からなくなる。 あの日以来オレは彼女の『後輩』になってしまったようで、こうして人差し指一つで構われることが多い。敬語でも良いと言われたのは正直なところ楽だったけど(元々ボーダーの方では敬語を使う機会の方が多いし)、それ以外は、ちょっと困る。例えばこうした吐露だとか。 彼女は多分事実を述べているだけで、でも一般的には助けを求めている言葉だから、オレの頭は一瞬鈍ってしまう。こういう時判断が遅くなるのがオレの悪い癖だなあ、と感慨深くなるのは簡単だけれど、こうしている間にも彼女の胃は蠕動運動を繰り返しているのだから世話がない。 「ええと……どんぐらい吐きそうですか。百換算で」 「五十」 「二分の一か……結構ありますね」 確かリュックの中に、今日の昼飯を買った時に付いてきたビニール袋があったはずだと探せば、彼女はそれを不思議そうな顔で眺めていた。 「さっきから何してるの?」 「いや、ビニール袋があったと思うんでそれを……」 「あ、あー。ええと、ごめん。いいよいいよ。大丈夫。吐かないから」 「え、なんでそんな嘘を……」 「嘘じゃないんだけど、その、吐いたことは無いから、大丈夫なの。ごめんね」 彼女のたどたどしい言葉を整理して、ようやくオレは彼女が言いたいことを理解する。 「要は、恒常的に吐き気だけがあると……」 「そうそう。うん、ごめんねー」 「なんで先輩が謝るんですか」 「耐えられないから」 即答だった。早押しだったら一番だろうな、と思うぐらいの即答。それに少し呆気に取られていたら、彼女はまたくすくすと笑って「どうしたの」と言う。 「……先輩って、昔からそんな感じなんですか?」 「ええ、十代の昔っていつ?幼稚園児ぐらいの頃?」 「それは、オレも覚えてないですね……」 「あはは。そりゃあそうでしょ」 そんな会話をして、その日の昼休みは終わった。それで、放課後になった。毎日行われる掃除が終わった後、教室に荷物を取りに帰ったら、クラスメイトが何故か入口で立ち止まっている。前も後ろも同様にだ。何があったのかと背伸びをすれば、そこにはスカートが汚れるのも構わず蹲った彼女がいた。そして床に飛び散った、床と同じ色の液体。 「……先輩」 何が起こっているのか直ぐに分かった。オレはクラスメイトをかき分けて彼女に駆け寄る。先輩はもごもごとなにか口を動かしていたけれど、オレにはよく分からなかった。 「ごめん、雑巾取ってくれないかな。オレが拭くから。あと、保健室の先生呼んできて欲しい」 「え、ああ、うん」 クラスメイトにそう声をかけると、彼女はその人差し指でオレの服の裾を引いた。こんな場面じゃなかったら、そこそこに微笑ましい光景だったかもしれない。 「…………ごめん」 「気にしなくていいですよ」 「いや、違うの。そうじゃなくて」 「はい?」 オレが返事を返すと、彼女は何故かふにゃふにゃとした笑い方をして、照れくさそうにこう言うのだった。 「君の前で、嘘、つきたくなかったんだ…………」
3
「後輩はね、みんな卒業しちゃったの」 体育祭の時に、何故か先輩とそんな話をした。オレたちはろくにクラスメイトの応援もせずに体育館裏に陣取って、雑草を毟ったりして暇を潰していた。オレは別に応援でも良かったんだけど、先輩はのそのそと体育館裏に引きこもってしまうから、仕方なくオレもついて行くことにした。 「仲のいい子とかいたんだけど、気がついたら私だけ置き去りで卒業とかしてて」 「連絡、無かったんですか?」 「あったけど、怖くてこっちからは出来なかった。どんな顔して会えばいいか分からなかった」 先輩はブチブチと草を引っこ抜きながら、淡々とそう言った。学年別のジャージの色は、彼女だけ青色で、それが尚更目を引いていた。今考えると、彼女は応援が嫌というよりもその色が嫌だったのかもしれない。 「世の中はね、一回道から逸れちゃった人にすっごく厳しいから」 「でも、そういう人の支援ってあるんじゃないんですか?」 「支援。支援ねえ。そうだね、つまり支援を必要な人っていうのは、支援が必要じゃない他の大多数とは違う人だ」 「…………」 「ごめん、意地悪言っちゃったね。忘れてよ」 彼女は困ったように笑って、また草を毟った。彼女の手にはどこから蟻が登ってきていたけれど、彼女は潰すこともせず、ゆっくりと手を這わせて、地面に戻そうとしていた。 「でもね、色々配慮はしてもらってて。本当に、色々。それはすごく有難いことだなあと思う。ただ、それに報わなくちゃって思う時に、なんで私なんだろうな、とも思うんだ。忘れ物をして死にたくなってる時に、私が普通の高校三年生なら平然としてたのかなって、思っちゃう」 「そんなことで」 「うん、そんなことで」 彼女が頭を揺らすと、前髪が目にかかって、彼女の表情は途端に見えなくなった。オレはそのことに、少しだけ安堵した。 「笹森くん……笹森くんで合ってるよね?」 「前から思ってたんですけど、なんでそんなに逐一確認するんですか?」 「確認しないと、不安で不安で堪らなくなっちゃうの。全部そうなの。公式から赤信号は渡っちゃ行けませんってことまで、全部」 一瞬、冗談を言っているのかと思ったけれど、彼女の声色はどこまでも本気だったから、オレは黙って話を聞くことにした。 「…………あのね、私、笹森くんに言わなきゃいけないことがあるの」 「そんな、深刻な話なんですか?」 「どうだろう。なんとも言えないかも」 彼女の次の言葉は、しばらく出てこなかった。風に乗って、何組が勝っただとかそんなアナウンスがぼんやりと流れ込んでくる。ビックリするぐらい、平和な午後だった。オレがボーダー隊員であることも忘れてしまいそうなぐらい(忘れないけど)、平穏で、普通の日々。 そう思いながら彼女の顔を見れば、真っ青だった。 そこでようやくオレは、ああ、こういうことだったんだな、と思い至った。 「私、今年も進級できないんだって。出席日数、足りなかった。だからまた留年することになるの」 「……」 「また、後輩がいなくなっちゃうな……」 先輩はそう言って、泣いた。オレは何も言えずに立ち尽くしていた。
4
体育祭が終わって数週間したら、先輩は学校に来なくなった。数ヶ月経っても来なくて、オレだけが進級した。クラスの貼り紙をどれだけ見ても彼女の名前はなくて、そこでオレは彼女の後輩じゃなくなったことを確信した。だからと言って、どうというわけではないんだけど。 ボーダー隊員でもない生徒とは結局学校の付き合いぐらいしか出来なくて、そもそも先輩とは学校以外で会ったことも話したこともないから、オレはごく普通に彼女の不在を受け入れた。もっと劇的にショックを受けて放心するとか、そんなふうな想像をしていたけれど全然そんなことはなかった。はなから彼女は異物だったからだろうか。結局、二年生になってから彼女に一度も会うことは無かった。オレもオレで他に好きな子が出来たりして、先輩のことはすっかり忘れていた。好きな子も、オレのことを笹森くん、と呼ぶからだ。 三年の秋になって、先輩から連絡が来た。最初通知に浮かんだ名前を、オレは一瞬誰だか上手く認識できなかった。先輩、と呼んでいたからだろう。彼女は学校近くのファミレスで待っているから、とだけ言い残していて、オレは何かドリンクのひとつでも奢ってもらえるんじゃないかとよこしまな考えを持ってその場に向かった。 先輩がいた。当然なんだけど。先輩は薄手のコートを着て、横がけのバックを身につけたままテーブル席に座っていた。ブラウスと、スカートと、黒いタイツとローファーは、オレが見たことの無い組み合わせで、彼女が一瞬誰か分からなかった。でも彼女は真っ直ぐにこっちを見てきたから、彼女はオレのことを覚えていたんだと思う。 「笹森くんだ、久しぶりだね」 「あ、どうも……」 オレは久しぶりに会った親戚に対するような反応を返してしまう。それを見て、彼女はくすくすと笑った。 「なんでそんなに他人行儀なの?」 「いえ、久しぶりに会ったので」 「まあ、それもそうか。笹森くん、何か食べたいものある?」 オレはいえいえそんな、と一旦は謙遜したけれど、その後は普通に食べたいものを注文した。でも彼女の方は何も頼まなかったので、少し恥ずかしくなった。 「今日は来てくれてありがとう。どうしてもね、笹森くんに言いたいことがあったの」 「言いたいこと」 「私ね、認定試験、受けることにしたんだ」 「…………いつですか?」 「明日」 あした、とオレが復唱すると、彼女はかつてと同じ微笑みを浮かべて「うん」とだけ言った。 「私、学校通うの、やめたの」 「……はい」 「でもね、もう、置いていかれるの嫌だったの。それに、せめて形だけでも笹森くんと一緒に、卒業したかったから。だからね、」 「……い……すよ……」 「え?」 「もう……遅いですよ」 声が震えていて、オレはすごく情けなかった。彼女の顔を見ることも出来なかった。 「オレは……先輩とは違うんです……周回遅れじゃないんですよ……オレは先輩のことなんて、すっかり忘れてましたし、他に友達とか後輩とか好きな子も出来て、数年前に話してたこととかも思い出せなくて、だから……それなのに先輩は全然変わってないし…………」 「……そっか」 先輩はもう一度、「そっか」とだけ言った。顔を見れば、そこには静かな表情だけがあった。数年前と何一つ変わらない顔だった。 「もっと、早くに気がつけば良かったな。私、遅いんだ。全部全部、色んなことが遅かったんだね」 彼女は伝票を抜き出して、弄んだ。有線が、今流行りのポップ曲を流しているけれど、そのドラマは昨日終わったんだった。 「学校からも笹森くんからも、卒業、出来なかったな」 彼女はまた、くすくすと笑った。 「笹森くん、泣かないでよ」 「……泣いてないです」 「その涙は、卒業式に取っておきなさいよ」 「取り返し、つかないんですから」 責任とってくださいよ、と零せば、先輩は笑って「えー」と気の抜けた返事を返す。それからメニューをもう一度開いて、また、好きなもの頼んでいいよ、とオレに言うのだった。