1

夏は苦手だ。 太陽の熱をうけると、私の体はジワジワと侵食されて、腐敗しているような心地になる。腐るのは駄目だ。未だ放置されたままの三角コーナーを思い出してため息をつく。腐るのは駄目。腐るから、駄目。私は私が人間であるということを受け入れられない。 腐敗していく体を厭う代わりに、私はトリオン体を好んだ。腐らない永久不変の箱。私にとってはそうであるように思えた。 「腐らない箱ならもう一つあるんじゃないかな」 と、彼は言う。私は薄々勘づいていたけれど悪趣味過ぎて言わなかったのだ。でも彼は言った。そういうひとなんだな、と私は思った。 「ひつぎ」 ほらね。やっぱり。 「じゃあ死ねってこと?」 「そんなこと、言ってないよ」 彼は私の顔をじっと見て言ったようだった。私も本気でそう思ってるわけじゃない。ただ、聞いただけだった。私にはありとあらゆる強迫観念があったけれど、そのひとつに彼にまつわるものもあった。顔の顔を見ないこと。絶対に見ないこと。 彼を見るぐらいなら私は太陽を直視する方がマシだった。暑い。同じようなことを隣にいる彼も言っている。ああ、腐っていく。早くトリオン体になりたい。でも、ここはボーダーの外だから出来ない。先生にトリオン体になるのは必要最低限の時にしなさいと言われてから、その訓練をするようになった。そうじゃないと、私はこのさきまともに生きられないんだそうだ。まともってなんだろうと思って横の彼に目をやる。彼みたいなことなんだろうか。 「また同じアイス?」 「うん」 「よく飽きないね」 私はスライド式の蓋を開けて、一番下のアイスを引っ張りあげる。いつも同じ銘柄の、バニラのカップ。これもまた、強迫観念のひとつだった。夏に食べるアイスが一番苦手なのだ。彼は吸うタイプのアイスをひとつ買っていた。 「プール開き、もうすぐだね」 「私泳がないよ」 「そうなの?」 「代替課題出す」 「へえ……おれもそうしてもらおうかな」 私はその言葉を無視した。彼は困ったように「怒った?」と言うから「怒ってないよ」と返す。怒ってはいない。何回かそういうことがあったから、もう慣れてしまった。 「二宮さんがまた顔出せって言ってたよ」 「行かない」 「そう……」 二宮さんと私はそこそこの知り合いだけど、犬飼くんはそうでもない。二宮さんがなんとなく彼を差し向けているんだろうなということは知っているけれど。あのひとは、心配性なのだ。可能性を潰したいのだ。 「犬飼くん、私もう食べ終わったから帰っていい?ここにいると腐りそうで嫌なの」 「あ、ちょっと待って。最後ひとくちだから」 彼が勢いよく最後のアイスを吸い込んでいる間に、ゴミを捨てる。十秒待って、それから彼を置いて駐車場を出た。暑い。どんどんと自分が腐っていくような心地。頭が腐ってバカになるのが私は怖い。手足が腐って何も出来なくなるのが怖い。心臓が腐って死ぬのが怖い。気がつくと私はアスファルトの真ん中で呆然と立っていた。どれくらいの時間が経ったのかもよく分からない。数分だった気もするし、数年だった気もする。後ろから犬飼くんが名前を呼ぶ声がしたけど、私は上手く振り返ることが出来なかった。 「……具合悪い?」 「いつも通り」 別に嘘じゃない。私がこうして動けなくなってしまうことはよくある事だった。次の一歩を踏み出せば、その足が体の重みに耐えられなくてボロボロと崩れていくように思われてならなかった。 彼は少し困っているようだったけれど、私の手を掴む動作は澱みなくて、それが不思議だった。まともだとこういうことも出来るのかと思った。 「ここに居たら熱中症になるよ。どっか入ろう」 引っ張られて、私は一歩を踏み出してしまう。崩れない。ゆだった陽炎は私の体を壊すのに至らない。ただ、彼に繋がれている手だけが崩れて落ちていくような感覚だけがあった。 「犬飼くん、私の手、どうなってる?」 「ちゃんとあるよ」 「本当に?」 「ほんと、ほんと」 ほら、と言いながら彼は私の手を少し強く握りしめた。不思議なことに手は腐り落ちないで、ただ彼の手を握り返すだけだった。

2

犬飼くんは私に優しい。多分、私に同情しているからだろう。どうせ二宮さんがあることないこと吹き込んだのだ。私には分かる。あのひとが良かれと思ってしたことが、本当に良かったことがどれくらいあるだろうか。体感は半々ぐらいだった。 夏はまだ続いていた。私は保冷バックからいくつもの保冷剤を取り出して体に配置していく。教室は騒がしくて、誰も私のことを気にしないし、誰も自らの体が腐っていくことを気にしない。それが私には未だに信じられない。この体で生まれて十数年になるけれど、信じられないことばかりだった。 「あ、いいもの持ってる」 それは、ひょっこり、という擬音が相応しい現れ方だった。どちらかというとあのスーツ姿を見なれているから、半袖の制服を彼が身にまとっているのは違和感がある。 「犬飼くん」 「なんで呼称だけ?」 「無視は良くないから」 「まあそうだけど……それ、保冷剤?」 「うん」 「一個貸して、って言ったら怒る?…………あー、やっぱ今のナシで。ごめん」 犬飼くんは自分で言って、自分で止めて、自分で謝った。全部を自分でやった。私は何も言っていないのに。 「あのね、犬飼くん。私は病気なの」 「病気」 「頭の病気」 だからそういう半端な絡み方をされると困る、と続けようとしたのだけれど、彼は少し眉を潜めて「誰が言ったの?」と言う。 「病院の先生」 「……そう」 彼は少し拍子抜けしたようで、それもまた私にとっては苦痛だった。針で眼球を刺されたことなんてないのに、多分こういうことなんだって分かってしまうような感覚があった。 「……犬飼くんにとって、頭の病気ってスラングなんだ」 「そんなことないよ」 彼は即座に否定して、また眼球の奥がねじ切れそうな痛みが走った。違う、私は怒っているんだ。痛みに呻いているだけじゃない。 その事に気づいた私は咄嗟に犬飼くんのことを殴る夢想をしたけれど、結局そんなものは夢想でしかなくて、私は彼の顔を見たら体が腐ると思っている頭の病気だから何もしない。一生何もしないって、決めた。 「顔色悪いけど、大丈夫?」 「腐ってるから、青いのは当たり前だよ」 「腐ってないよ」 「腐ってる」 「腐ってないよ」 「今腐っていってるの。見えない?」 「見えてないのは君の方だよ」 こっちの方がいいよ、と彼は保冷剤を私の首元に当てる。その瞬間、首元がぼろぼろと崩れ落ちて喉が骨が肉がまろびでるような気分になって、私は嘔吐した。昼ご飯に食べた白米がボタボタとこぼれ落ちて、クラスメイトが悲鳴をあげた。犬飼くんは目を瞬かせて、「……どうしたの」と言う。私は「どうしたんだろうね」とだけ返す。

3

「犬飼はどうした」 と、二宮さんは私を見て怪訝そうな顔をする。怪訝そうな顔、と言っても少し眉がひそまるぐらいだけど。 「置いてきました」 そもそも最初から連れ立っては来ていないけど、それを言うと尚更面倒なことになりそうで私は言わなかった。 「……まあいい。それで、今でも通院はしてるのか」 「これ、二宮さんが聞いてどうするんですか?」 「確認する義務が俺にはある」 「……通ってます。と言っても、お話してるだけですけど。この手の疾患って病名が確定する方が珍しいですし」 と、そんなことを話しているとタイミング悪く犬飼くんがこちらにやってきた。私の嫌そうな顔が出ていたのか、彼(二宮さんではなく犬飼くんの方)は不思議そうに目を瞬かせる。 「あれ、何してるの?」 私が答える前に、二宮さんが大きな溜息を吐いた。 「……お前が連れてきたんじゃないのか」 「いやいや、初耳ですね。ね?」 「うん」 私は観念して頷いたつもりだったけれど、犬飼くんは「ふてぶてしいなあ」と驚いたように言う。私からすれば彼の方がよほどふてぶてしく見えるのだけれど。 「二宮さん、もういいですか?必要なら処方箋渡しますけど」 「それを俺に渡してどうするんだ」 「医療費負担してくれないかなって……まあ、冗談ですよ」 二宮さんが本気にしてしまいそうだったので、私は席を立ってその場から離れる。でも不思議なことに(ある意味では当然のように)犬飼くんはテコテコと私に着いてきた。 「ね、前から思ってたけど、あれ、何?」 あれ、が私と二宮さんの会話だということは直ぐに気がついた。そして彼は何も知らないのだということに、少し驚いた。てっきり犬飼くんは二宮さんの指示で私にまとわりついていると思ったから。 「鳩原さんだけが、私の味方だったの。だから」 「…………二宮さんに関係ある?」 「あのひとの中にはあるんだよ。私には無くても。私が鳩原さんに救われていて、二宮さんは元に戻したがってるから。色んなことを」 私は部品だろうね、と言おうと思ったけれど、寸前で止めた。彼が気を悪くするだろうと思ったし、二宮さんを悪く言っているようだったから。私は別に、二宮さんのことが嫌いではないのだ。好きでもないけど。 「ふーん……」 彼は釈然としないような声色で、私はだろうな、と思った。私が犬飼くんでもきっとそう思うんだろうから。 「犬飼くんは、二宮さんに言われて来てたんじゃないんだね」 「半分合ってるし、半分違うよ」 「二宮さんに言われてないの」 「指名されてはないよ。自分で決めて、来た」 「そう……」 「あれ、なんでか気にならないの?」 「別に、気にならない」 私は鞄から体温計を取り出して、脇に挟む。こうしないと落ち着かないのだ。むやみやたらとトリオン体にならないかわりに、体温計で温度をはかること。これが先生との約束事。私の体が腐り果てないことの証明。 「犬飼くんのことなんて、私はどうでもいいよ。一秒間の間に死んでいくどこかの国の子供たちと同じぐらい、どうでもいいんだよ」 「へえ。君のことが好きだからって言ってみても?」 「どうでもいいよ」 私がそう言うと、電子音が軽やかに鳴った。犬飼くんはそれをみて、少し笑ったようだった。

4

先生に、減薬を提案された。症状の改善が少し見られることと、それに比例して副作用が酷くなったから。私は先生のことを信頼しているけど、それはそれで、やっぱり少し怖い。それに両親が安心しているから、嫌だと上手く言えない。私は、どれだけ薬を飲んでも構わないと思うのに、親というものはそれを拒む。なんでだろう。私には、よく分からない。 「やあ」 「……犬飼くん」 本部で、私はまた彼に出会う。彼の首より下はスーツ姿で、任務帰りなんだろうなってことが分かった。そして同時に、私は減薬のことを二宮さんに報告すべきかもしれない、というポップアップが頭の中に表示されるのが分かった。 「二宮さんは?」 「あー、どうだろう。まだ部屋にいるかな……」 「そう」 私は踵を返したけれど、犬飼くんはいつかのようにテコテコと着いてくる。 「着いてこないでって、言わないんだ?」 からかうような声だった。でも、多分、普段から彼はクラスメイトなんかとはこういう話し方をするんだろう。そう考えると、不思議に思えた。同じ姿をしているのに、私はこんなにも違うんだと思ったら、蹲りたくなったけれど、私は我慢した。減薬の効果がさっそく、でているのかもしれない。 「……ごめん、怒らせた?」 「別に。考え事、してただけ」 「ごめん」 「だから、本当に怒ってないよ」 「そっか、なら良かった」 嘘は付いていない。私は別に彼のことを無視したんじゃなくて、本当に、考えをめぐらせたのだ。先生が言うに、私は他の人より様々なことを思考してしまう。思考の速度が早いけれど、その分考えなくていい事まで考えてしまう。 黙って彼と歩いていれば、部屋に辿り着く。中を覗けば氷見さんしかいなくて、彼女は目が合った私に会釈をしてくれた。私もそれに倣って、彼女に会釈をする。犬飼はその後ろで「二宮さんは?」と言い、彼の居場所を聞き出そうとしていた。氷見さんは二宮さんは帰った、というようなことを言って、私は肩の力が抜けたのが分かった。怖かったのだ。口にするだけで、本当は怖かった。考えたくなかった。 「二宮さん、いないってさ」 「そう。ならまた別日に行くよ」 「あれだったら、伝言とか…………あー、でもそっか、良くないか」 「大丈夫、自分で言うから」 彼はそう、と返して、それから私達の間に妙な沈黙が流れた。彼は私から視線を逸らさない。そのことに、私はものすごく嫌な予感がして、ミキサーの中でぐちゃぐちゃになる自分を想像してしまう。おからみたいに崩れてまばらになる自分。 ……その、触れた自分の皮膚の生暖かさときたら! 私は冷や汗がどっと出るのを感じて、鞄から体温計を取り出そうとする。でも、無い。鞄のポケットに、いつも取りやすいように入れているのに、無い。無い。無い。どこにも無い!私は半ば半狂乱になって、廊下の真ん中だと言うのに、鞄をひっくり返して中身を全部ぶちまける。周囲の人がびっくりしていたけど、そんな事どうでもよかった。無い、どこにも無い。どうして? 「探してるの、これ?」 底冷えするような、声。犬飼くんの手にはそれがあった。私の体温計。私はビックリしてしまって、身動きが取れなかった。そしてそこでようやく、自分が犬飼くんの顔を直視していることに気がついた。彼は困ったような顔をして、「なんで今、こっち見ちゃうかなあ」とだけ言う。その拍子に彼の手から、体温計が落ちた。 そして私には、それが彼の指がぼとりと落ちるように見えたのだった。