[アオキさんは私と違ってふつう]
ノーマルって、普通の意味なんだって。 私にそう教えてくれたのはアオキさんだった。アオキさんは兄の祖父の孫の従兄弟の……ええと、つまり遠い親戚で、法事の度に会ったりしていた。私がこっちに来た時には一緒に新しい物件を探してくれたんだけど、ノーマルのことを教えてくれたのはもっと昔。おばあちゃんが死んだ時の葬式で、私はたくさんの具が入った巻き寿司を彼に押付けた。彼は嫌そうな顔ひとつせずそれを食べた。外では窮屈なボールから(本当に窮屈かは知らないけど)出してもらった彼のムクバードがパタパタと飛んでいる。 「ノーマルタイプにしなさいって言うの」 「……何がですか」 アオキさんは年下の私にも敬語だった。私は続けて「ママが、貴方はノーマルタイプにしなさいって。ノーマルって何?」と聞く。こちらの方が本題だった。 彼は少し考えて「……ふつう、ということです」と言った。 「ニュートラル、中立、標準……」 「ふうん」 私は分かったような顔をして頷いた。
それから数年たって、私は普通とは程遠い人間になった。ポケモンを持つことは医者から禁止されて、要するに、頭がおかしくて自分の面倒も見られない人がポケモンの面倒を見られるわけが無い、ということだった。なんて正しい。 私がおかしくなっても、アオキさんは普通だった。普通に働いて、普通にご飯を食べている。私はたまにアオキさんと一緒にご飯を食べるけど、おおよそは彼が食べる姿をぼんやりと眺めているだけだ。私が来る時、彼はいつものカウンター席には座らず、端っこの座敷に座る。それが少しばかり、いたましい。 「……何なら食べられますか」 これもお決まりの台詞で、私は食べられるものなんてないからいつも「じゃあおにぎり」と言う。普通の人間はおにぎりを食べるし、そして何よりアオキさんはおにぎりが好きなようだったから。私はやってきたほかほかのおにぎりの頂点をすこーし齧ると、あとは全部彼にあげた。明日の朝ごはんを抜かないと、とすら思った。 私が普通じゃない私への罰として割り箸を爪の間に入れようとしていると、アオキさんはそれを手で止めて、突然「ふつうっていうのは」と言い出す。彼にしては珍しく、フランクな言い方だった。 「基準ということです」 「わさびがあるか、ないかってこと?」 「そうです。そして我々は本来、わさびの有無を決めることが出来ます。わさびがあってもなくても、そのどちらも悪ではありません。好きな方を選べばいい。貴方はどちらが好きですか」 「わさびが入ってる方」 そっちの方が痛いから。私は痛いのが好きだ。痛いと、生きていいと思えるし。 「……大人になりましたね」 昔のこと、覚えていますかとアオキさんはしみじみとした口調で言った。私は頷いて、手首の傷をなぞった。覚えている。全部のふつうじゃないことを、私は覚えている。
[私と違ってふつうはアオキさん]
「アオキさんって、いっつもちゃんとご飯食べてて偉いよね」 えらいえらい、と私が言うと、当の本人はなんとも言えない顔をした。 「喜んでいいのか……皆やってると思いますよ」 「私はやってないよ」 私がそう言うと、彼は黙ってしまった。それからおにぎりに付いていた漬物の小皿をそっとこちらに寄越してくれる。これは別にアオキさんがケチだとかじゃなくて、私のあんまり物を食べられない性格……性格?脳のつくり?をよく理解してくれているからだ。 私は黄色いそれを一欠片だけ食べた。飲み込んだ瞬間に嘔吐感がやってくるけど、今吐いても何も出てこないことを、私はよく知っている。というか普通にお店で吐いたら営業妨害だし。アオキさんにも悪いし。 「普通ってね、本当に偉いよ。働くのもご飯食べるのも、生きてるのって偉い」 「……そういうの、欺瞞かと思ってました」 アオキさんは珍しくそう刺々しい口調で言った。 「なんかやなことあった?」 「それはいつもですけど」 「いつもなんだ……」 大人って大変、と私は言う。一応私は成人だけど、アオキさんを見てると私ってまだまだ子供だなあと思うことがある。アオキさんは癇癪とか起こさないし。タオルで首も絞めたりしない。 「とはいえ、悪いことと比較していてもそれは建設的ではありませんよ」 「私の拒食って悪いこと?私は食費が浮いて嬉しいけど」 「それで死にかけたら元も子もない」 死んだらお金たくさん浮いてもっと嬉しい、と思ったけど言わないでおいた。アオキさんが悲しむからね。その代わりに私は「なるほど確かに」と言う。 「じゃあ上を目指すんだ。アオキさんは将来どうするの?」 「………………アパートの家賃で不労所得を」 「建設的すぎる意見だね」 「こんな年寄りの意見より、若人の方が色々あるでしょう」 アオキさんは私といると、特に自分を年寄り扱いする。別にそんなにおじいさん、って訳でもないから私からすれば変な感じだ。 「私は……私は……ふつうになりたい」 「ふつうに」 「ふつうに寝られて起きられて、働けて、ご飯も食べられる頭が欲しい」 昔、私はふしぎなアメを食べた。食べかけた、と言うべきか。 どうしても何かを食べるのが嫌で、ポケモン用のこれならもしかして沢山栄養が入ってるんじゃないかと思ったのだ。そしてそれを見た当時帰省中だったアオキさんは、手を突っ込んで吐かせた。自殺行為ですよ、と難しい四文字熟語を並べた彼が怒っていたことを、私はよくおぼえている。 それからアオキさんは、私の一挙一動に目を光らせるようになってしまった。流石にずっとではないけど、会ってる時はいつもそうだ。私の爪と皮膚の間に血がこびりついていることにも気づいて、おしぼりを渡してくれたりとかするし。 「そういう……ノーマル?になりたいですね」 「……昔から、ノーマルという言葉は悪口だと思っていました。よく言われるので」 「アオキさんってノーマル似合ってるよね、みたいな?」 「そうですね。遠回しな嫌味かと」 少しの間の後、褒め言葉として使えるのは貴方ぐらいのものです、と彼は言った。私は微笑んでみたけれど、彼の反応を見るに、多分そういうことじゃなさそうだった。
[ふつうは私と違ってアオキさん]
アオキさんのジムは中々特殊で、普段私達が座っている座敷の席がこう、ウイーン、となってくる。 トレーナーの人が来るタイミングはおおよそ分かるけど、それでも駆け込みみたいなのが時たまあって(たまにジムテストを運で一発合格する人とかもいるし)、ご飯を食べている人達は文句も言わず席を立つ。皆ポケモンバトルが、アオキさんのバトルが好きだから。 私はまあ……好きかと言われたら普通だけど、座り込みするほどの気概もないから、大人しく席を立つ。ジムバトルが始まると人が集まってくるから、その間私は外で待っている。外でぼんやり、空を見上げている。私はあまり人混みが好きでは無いから。
この地方には有名なスクールがあるけれど、私はそこでも上手く適応できなかった。先生が言うには私は『適応できないのではなく、人よりも適応しすぎて疲弊してしまう』そうなのだけれど、結果としては同じことだ。 こうして、食堂の外でぼんやりと立っていると私はそれを酷く痛感する。ドロップアウト、ノーマルじゃない私。ノーマルが悪口だと思うのは、普通じゃないことを悪だと心のどこかで思っているからだ。普通であることを、普通だと思っているからだ。突然大声をあげる人のことを皆怖いって思うでしょう、それと同じ。まあ私も怖いなって思うけど。 私はすることもなくて、後ろで手を組んで指を遊ばせる。アオキさんはどこかで遊んできたら、というけどこの街に遊ぶようなところはない。あくまでも食事が苦痛の私は、という意味で。 中からはワア、みたいな歓声が聞こえて、私はそれを聞くのが嫌いではなかった。嫌いでは無いのだ。嫌いでは。
数十分もすれば、アオキさんがいつも通りの猫背で出てきてくれる。 「おかえりなさい、バトルはどうだった?」 「負けました」 「見込みはあった?」 「……どうでしょうね」 他人を評価することは勇気のいることだ、みたいな事をアオキさんはいつぞやに言っていたっけ。だから多分、そういうことなんだろう。アオキさんはよく自分を普通だと言うけれど、その普通にも得がたさがあることを、私は、私だけは知っている。アオキさんだけが私がまともじゃないことに、口を出さない。薬を飲むことを許してくれる。ちゃんと処方されるものに限るけどね。 「カウンセラーの先生がね、ポケモンと過ごしてみたらって言うの」 「禁止されてたんじゃないんですか」 「減薬するぐらいには、ちょっとマシになったのかな。カウンセラーの先生は、貴方は別に面倒見が悪いわけでもないからって。それにポケモンを通して、自分を大事にすることを覚えるって方法もあるんじゃないかって言うの」 アオキさんはどう思う? 私がそう続いて聞けば、彼は「……いいんじゃないですか」と言った。それに私は少し驚く。彼が私のことに関して即断するのを、初めて見た。 「ポケモンを用いた精神疾患の治療……という言い方は適切ではありませんが、取り組みはあったはずです」 「うん」 「カウンセラーも、主治医も賛成しているのでしょう」 「うん。まあ賛成って言うかあくまでどうですかって感じだけど、反対はしてないみたいだった」 「ポケモンのことなら、こちらも多少は力になれます」 「それは、うん。ホントにね。もっと大船に乗った気持ちとか言ってもいいよ」 「嫌です」 私は笑った。笑って、それから少しだけ泣いた。自分がなんで泣いてるかよく分からなかったけど、アオキさんは何も言わなかった。 「……どんなポケモンがいいかなって、考えたの」 「そうですか」 「考えてね、考えて……アオキさんのポケモン見てたら、ほら、アオキさんリーグの方ではひこうタイプでしょ?」 「ええ、そうですね」 「……だから、飛べないポケモンがいいなって思ったの。飛べない、飛ばない、鳥のポケモン」 「…………」 「そんな子がいたら、私は私をゆるそうって、思えるのかもしれないって、思ってるんだけど……変かな」 「それは、貴方が決めることです」 私は彼の言葉に、「うん」と返事をする。私が私をゆるせるかどうか。結局のところ、普通の私を、私じゃない普通を、普通の普通を、いちばん許せなかったのは私なのかもしれない。 「……決めるのは貴方ですが、そのポケモンには心当たりがあります。ひこうタイプではありませんが、そこは構いませんか」 「うん。でもそんなポケモン、いるの?」 「いますよ。コオリッポという……まあ、今度一緒に捕まえに行きましょう。見た方が早い」 「……私、アオキさんと仲良くて良かった」 そうふざけて言って、アオキさんの腕に絡みつく。てっきり彼は無視するかと思ったんだけど、彼は目を瞬かせて、それから「……貴方の助けになれて良かった」と言う。私は言葉を失って、唇を噛み締めて、「何を今更」と返す。 「今更だよ、本当に、今更」