「おはようございます」 「ん……はよう……」 かやさんは、あまり朝が得意ではない。だから俺がドアを開けた時も目の前にいるのは、パジャマ姿のまま髪の毛がびよびよと跳ねた彼女の姿だった。昨日確かに俺がドライヤーでしっかりと乾かしたはずなのだが、その毛先はどう見てもうねっている。くせ毛、恐るべしと言ったところか。 「あっ、布団に戻ったらだめですって!」 「んー……」 むにゃむにゃと何事かを零しながら、彼女は布団の中で丸まってしまう。その様子は以前親戚の家で見た猫を彷彿とさせた。 布団を引き剥がそうとすれば、中から押さえつけているのかビクともしない。こ、この人は……! 「かやさん!出てきてください!」 「うーるーさーいー」 「うるさくさせてるのはあんたの方でしょうが……!」 ようやっと布団を力づくで剥がせば、もう随分と見慣れたグチャグチャになったかやさん───つまり髪の毛がボザボサかつ肋骨が浮き出ているお腹が見えている状態─────が出てきた。そこまでして、ようやく彼女は起き上がってくれる。 「今日ばっかりは朝ごはん食べないと駄目ですからね。一日ずっと出かけるんですから」 そう、今日は彼女と出かける日だった。それも、スーパーだとか公園だとか病院だとか、そういう簡単だったり重要な場所ではない。実際、水族館なんて場所、きっと行かなくても困らないだろう。そして、そんな場所に行くことが、どれだけ彼女にとって難しくて苦しいことかを俺は知っている。知っているからこそ、嬉しかった。俺の嬉しさは、いつも彼女の苦しみの上で成り立っている。そのことを俺はいつだって忘れることは無い。 「昨日ゼリー買ってましたよね。今用意しますからちゃんと起きてください」 「……ぶどうのやつがいい」 「はいはい」 普段、彼女はあまり朝食を取らない。取れない、と言った方が正しいだろうか。元々胃が強くないところに薬の副作用も相まって、朝は毎日のように吐きそう、と零している。だから摂取したとしても白湯だったりわかめスープだったりと汁物が多い。俺も無理に食べさせようとは思わないが、今日ばっかりは何か固形物を食べてもらわないと少し不安だった。 平たい形のそれを冷蔵庫から取って、蓋を取れば汁が飛び散った。まあ、中身が無事だっただけでも自分の力加減を考えれば成功だろう。小さいスプーンとゼリーを持ってリビングに戻れば、かやさんは今度は床で寝ている。日が当たるところだけに身を置いている様はいよいよ猫じみていた。 「かやさん、ゼリー出しましたよ」 「……んん」 呻きながらもよたよたと四つ這いで来た彼女を膝の上に乗せることで机の前に固定させる。ゼリーをゆっくりと口に入れている間に俺は持ってきた櫛を使って、彼女の髪を梳かすことにした。 「櫛の通りが悪いんですけど、ここ最近ちゃんと髪洗ってます?」 「うん」 「…………」 絶対に嘘だ。それか、本人はちゃんと洗えていると思っているか。どちらにせよこういう時に同じ性別でないのが悔やまれる。俺が女だったら間違いなく彼女の髪を思う存分洗ってやっているだろう。今一番欲しいのは理容師が使うあの装置かもしれない。この前も、日向子さんがこっちに来た時に一緒に温泉に行った挙句、髪の毛を洗ってもらったのだと俺に話していた。 「…………タオルを巻けばいけるか」 「タオル?」 振り返った彼女がスプーンを口にくわえたまま首を傾げる。「いや、ちょっと独り言を」と返せば、はなから興味は無かったらしく、「ふうん」とだけ零して、もう一度ゼリーを口にのろのろと運び始めた。

五日が俺の誕生日で、十八日が彼女の誕生日。どこまでも思想がかけ離れた俺達の一番近いものが誕生日なのは、ある意味正しいのかもしれない。 「……お母さん、来ないって」 その日の彼女は、俺の足の上で体育座りをしてしょげかえっていた。自分の誕生日に母親が来ないことを悲しんでいるらしい。 「へえ、そうなんですね」 思ったより興味なさげな声が出てしまったが事実なので仕方がない。彼女の方もそれを分かっているので特に追求せず、ただ「あーあ」と溜息を零している。わざわざ俺の部屋に来たのはこれが原因だったらしい。 「そんなに日向子さんが来なくて寂しいなら、当日俺とどっかに出かけましょうよ」 「ええ?面倒くさい……だるい……外出たくない……」 「だって折角のお誕生日じゃないですか」 そう言うと、彼女の顔色が一瞬にして暗くなった。───────未だに俺はこうして彼女の地雷を平然と踏んでしまう。踏んだことは分かるようになったのも、尚更タチが悪い。 「……誕生日、あんまり好きじゃないし。お祝いされるのは好きだけど、自分が生まれた日なんて大嫌い。生まれた日は祝うのに死んだ日は祝わない。生まれたら死ぬことをみんな分かってない……」 そう言って抑鬱的な発作を起こした彼女はいよいよ顔をうずめてしまう。 彼女は、俺の誕生日を祝ってくれたことが無い。「おめでとう」という言葉はあってもその中身はどこまでも空虚で、目を合わせてくれることは無い。彼女の生に対する忌避感はこんなところまで根を張っているらしかった。 「ねえかやさん。結局のところ誕生日だなんて理由付けですよ」 「理由付け……?」 「俺もかやさんと同じで、ちゃんと理由が無いと動けないんです。ね、同じじゃないですか」 「はあ」 「じゃあもう一回言いますけど、『誕生日だから』俺と一緒にお出かけしましょう?」 彼女は俺の言葉に少しだけ考えこんで、「……意気地なし」とだけ答える。返事としてはそれだけで十分だった。

バスの中はそこそこに人が居たけれど、俺達はなんとか座ることに成功する。そう言えば、あの冬もこんなふうに彼女と隣の席に座っていたんだったか。 以前と違うのは、今俺のとなりにいる彼女は薄ら顔色が悪いということだった。多分、いつもみたいに希死念慮を引き起こしているんだろう。ただ、それを俺に言ってもどうしようも無いから、こうして黙って窓の外を眺めて人の多さに辟易としている。そして俺はそんな彼女をただ見ている。 こういうところは、何も変わらないままだ。

水族館に行きたい、と言ったのは天国さんの方からだった。理由を聞けば、『カップルが一番別れる場所』とやらが水族館らしい。俺は普通にそのデータが興味深かったので情報源やら研究結果やらを彼女に聞いたのだが、何故か侮蔑の視線だけが返ってくる。……未だに何が悪かったのか分からない。 それはともかく、彼女の方から何かをしたいと言うのはあまり多いことではなくて、だから俺はなるべくその要望を叶えてやりたいと思うのだ。 「…………帰りたい」 「えっ」 前言撤回。この要望はどうにも叶えられそうにない。バスから降りて同じく水族館に向かう人々の群れを見た彼女はげんなりとした顔をしてそんなことを言った。俺の腕に対して当然のように絡みついたまま帰りたいとごねる様はどこまでも子供じみている。というか、明らかに甘え慣れている。世の中の一人っ子はみんなこんな感じなんだろうか……………いや、彼女が特殊なだけなんだろう。 「帰りたい。疲れた。もう帰る」 「ちょ、ちょっと、そんなこと言わないでくださいよ」 「帰る。人多いところ嫌いだし」 彼女はむすっとした顔のまま、うだうだとそんなことを言っている。俺はほとほと困り果ててしまって棒立ちになるばかりだ。 「ま、まあ入るだけでも。ね?無理に見なくていいですから、帰るにしてもちょっと涼んでから帰りましょうよ」 「えー……………」 「あー、あ、そうだ。ふかふかのぬいぐるみとかありますよ。お土産屋さんとかあるでしょうし」 「……………ぬいぐるみ」 かかった、という言葉が頭に過った俺を誰が責められようか。 「ね、それなら良いじゃないですか。お昼ご飯もついでに食べていきましょうよ。今からスーパーに行くのは嫌でしょう?」 「それはやだけどさあ」 かやさんはとにもかくにもスーパーに行くのが嫌いだ。元々が出不精ではあるものの、スーパーはその最もたる例だった。その例を出したからなのか、彼女は渋々と言った様子ではあるものの「じゃあ行く……………」と頷く。俺は心底ほっとして、彼女の腕を引っ張るように入場口まで連れていく。その足取りが重いのは、彼女のせいか、俺のせいか。 「あ、チケットとか、」 「それならもう買ってますから。はい、これ渡してください」 「え?あ、うん」 「………はい、じゃあこれはもうもらっておくので。行きますよ」 「う、うん」 俺はあらかじめ買っておいたそれを彼女に押し付けて、そのあと返ってきた半券を即座に回収する。彼女は胡乱な顔をしていたが、俺からすれば、入園料の価格を見たらまた帰りたいだとか死にたいだとか言うに決まっているのだ。このぐらいの対策は当然だろう。 「あ……クラゲだって」 「歩きながら見たら危ないですよ」 「んー」 生返事をしながら、彼女は入り口近くに置いてあったパンフレットを手に取って眺めている。なんやかんや言っても、一応興味自体はあるらしい。 「クラゲ、好きですか」 「うーん、多分ね」 「じゃあそこから見ます?」 「いや、順路で良いよ。非効率的なことはしたくないし。それに、方向音痴が二人もいるんだからさ」 「………ですね」

人が多いとは言っても、水槽が見えなくなるほどではなかった。薄暗い照明の中、子供が騒ぐ横で俺達は黙って巨大な水槽を見上げていた。はたから見ると、俺達は途方に暮れて茫然としているように見えるのかもしれない。 「水族館に来ると、この水槽が全部割れたらどうしようって空想をいつもするの」 彼女は手前に来た小魚に人差し指を向けながら、そんなことを言った。 「生きた魚が気持ち悪くて。川にも怖くて入れなかった。小魚でも無理。だからこの水槽が割れると思うとゾッとする」 「相も変わらず、独特な感性ですね」 「そうなのかな。生きた魚が気持ち悪いって人は結構多いと思うよ。皆表明する機会が無いだけで」 「じゃあ今も気持ちが悪いって思いながら見てるんですか?」 「水槽があるからね。展示品だと思ってみてるよ。屏風に描かれた虎を本当に怖がる人なんていないでしょ。要は境界線だよ。侵害されるかどうかっていう」 「ああ、成程」 「……………あ、今気が付いたんだけど、もしかして最初の『独特な感性』ってやつ、皮肉だった?」 「全然。むしろ褒めたつもりでしたけど」 「そう。ありがとう」 そんな会話をする俺達を、傍にいた子供が不思議そうな顔で見ていたのがやけに印象的だった。

「あ、イルカのショーですって。行きます?」 「興味ない」 「……………ですよね」 「君、興味あるなら行って来たら?わたしここで待ってるから」 「せ、せめて一緒に行くって言ってくださいよ」 「だから興味ないんだってば」 「まあ、いいですけどね。かやさんがいないのに行っても仕方ないですし」 「あっそう。それよりショーで人が少なくなってるうちにクラゲ見に行きたいんだけど……………何その目は」 「かやさんって、心底甘やかされて育ってきたんだな、と思って」 「それブーメランだけど大丈夫?」 「俺はそんな甘やかされた覚えは………」 「いや、そっちじゃなくて。甘やかす方」 「……………」 「うっそ、無自覚?相変わらず君ってどうかしてるぜ」 そんなことを話しながら歩いていれば、一際暗い空間に辿り着く。縦長の水槽が試験管のようにいくつも並び、中にはライトの光を貫通するほど薄いクラゲたちが蠢いていた。 「あ、」 彼女はそれを見たかと思うと、パッと俺から離れて小走りで水槽の前まで行く。丁度人もまばらだから、彼女も珍しくそんな挙動が出来たんだろう。俺が追いつくころにはもう彼女は顔をべったりと水槽に押し付けるようにして、蠢くクラゲを見つめている。 「俺からすれば、魚よりもクラゲの方が気味が悪いですけどね」 「わたしだってクラゲも十分気味が悪いと思ってるよ」 「そうなんですか?」 「うん。でもクラゲは好き。ゆるしてあげられる」 「……………勝手な人だな」 「んひひ」 そう笑った彼女はぼんやりとクラゲを見続けていた。見るものが無くなった俺が添えられていた解説文を二周し始めていても、彼女はずっと同じクラゲを眺め続けている。 「あ、もう飽きちゃった?あれだったら他のところ見てきても良いけど」 ある程度周囲を見て戻ってきた俺に彼女はそんなことを言うので、俺は溜息をついてこう答える。 「だから、そういう気の回し方は良いんですって。丁度ここ、ソファもありますしそこで待ってますから」 「はあい」 そんなソファは壁際だからなのか暗闇の中にぽつんと置かれていた。余計に、ガラスケースの光が眩く思われて視界が少しぼやける。俺は彼女のライトアップされた背中を眺め続ける。そうして、どれくらいの時間が経っただろうか。ふと気が付けば、一人分のスペースを空けた隣に男が座っていた。男もまた、ぼんやりと光の当たるガラスケースを見ているようで、俺はなんとなくその視線の先を追いかける。 ────女の子だった。小さい、なんてことない、普通の女の子。まだ幼いその子はスカートを翻してクラゲの水槽から水槽へ移っていく。俺はその光景を見て、急に何かが末恐ろしくなった。悪寒と、それに追随する微かな身震いが確かに来て、急かされるようにソファから立つ。男が意識を向けたような気がしたが、本当のところは分からない。俺はこっちに向かって走ってきた女の子を避けて、かやさんの方に行く。 「あれ、どうしたの?って、えっ、何?」 うだうだと何かを言う彼女の腕を掴んで、次のコーナーまで早足で歩く。きっとあそこが一番暗い場所だった。あのとき俺の横を通り過ぎっていった少女の声が、今もこだましている。 おとうさん。おとうさん。おとうさん。 「ちょっと、少年?」 「……………あ、いや、すみません」 かやさんの不思議そうな声で俺はようやく我に返って、腕から手を放す。普通の照明なのに視界がくらくらとして、如何にあの場所が暗いかということにようやく気が付いた。 「いや、その。またかやさんが死にたくなってるんじゃないかと思って……………」 そんな苦し紛れの言葉だったが、彼女はその重たげな目を瞬かせて「珍しい。よく分かったねえ」とだけ零す。俺は、胸が軋むのを確かに感じた。 「……………帰ります?」 「ううん。別に。暗かったからだよ。明るいところに行けば気も晴れるだろうし」 その言葉を聞いて、俺はますます帰りたくなった。まるで最初と立場が逆だ。彼女の希死念慮が日を跨がずにリセットされたことは一度も無い。人の多い外界。段々と夕方に近づいていく時間。その全てが彼女の精神状態を悪化させる要因でしかない。俺はこういう時、日向子さんならどうするのかということを考える。でも、そんな挙動は結局のところ、欺瞞でしかないのだ。彼女のこころを言い訳にして、結局のところ、この場から逃れたいのは俺だった。父親という役回りから逃れたいのは、俺だったのだ。 「────君が嫌なら、帰るけどさ」 「ペンギン……ペンギンだけ、それを見たら帰りましょう、か」 「おっ、いいねえ。生で見るのは数年ぶりだよ」

数年ぶりだというペンギンは、水槽の中を悠々と泳いでいる。外界と遮断された空間にいる彼らを『悠々』と評するのは実はおかしいことなのかもしれないが。 そんなことを考えていると、隣にいた彼女がはは、と小さな笑い声をこぼす。 「なんかさあ、こういうのって動画とか写真で見た方が可愛いよね。なんでかな」 「それ、他の人に言わない方が良いですよ」 「だから君にだけ言ってる」 「まあ、気持ちは分かりますけど」 「あらそう。君がそんなこと言うなんて珍しいじゃん。それ透野くんには言わない方が良いぜ」 「言われなくても最初から言いませんよ……」 彼女の返事は無くて、少しの間。 「────帰るかあ」 「そうですね、帰りますか」 「なんか遊び甲斐が無いよね、わたしらって」 「かやさんだけですよそれ」

「そうだ少年、良いことを教えてあげよう」 「はあ、なんですか?」 「この手のハンバーガーチェーン店で原価率が高いのは上からハンバーガー、ポテト、飲み物らしいよ」 「で?」 「だからセットは頼まない!」 「はあ。まあ俺は頼みますけど……」 「あっそう」 どうせ後から分けてと言ってくるのは分かっていたので、彼女の好きなジンジャーエールにしておいてやる。ハンバーガー単品を2個買う方がダブルよりも安い、と言い始めた時は流石に俺も止めたが。 「少年、飲み物分けて」 「そんなに言うなら買っておけば良かったのに……」 「やだ」 案の定、彼女は俺の飲み物を平然と飲み始める。母親と回し飲みができるタイプなので、まあ当然の挙動か。 「あ、ジンジャーエールだ。わたしこれすき」 「知ってますよ」 「じゃあクリオネって食べたらガソリンみたいな味がするっていうのは知ってる?」 「な、なんで今そんなこと言うんですか!?」 「いや、知ってますよって言われたのがちょームカついたから。君が知らないことでも言ってあげようかと思ってさ」 「……それなら他にも、沢山あるじゃないですか」 どうしても恨み節のような言い方になってしまうのも、腹立たしい。俺は天国かやという人間のことを何も知らない。彼女の見た憧憬も、過ごしてきた環境も、希死念慮を引き起こす仕組みも、そしておととしのことも、何も知らないのだ。 「水族館に行った帰りだったから丁度良いじゃん」 そう言って薄らと笑う彼女は、結局ぬいぐるみを買うことは無かった。多分、最初から買うつもりは無かったんだろう。ああいう場所のものはどうしても割高で、チェーン店のセットも買えない人間が買うわけがない。多分これは、気を、遣われたのとは少し違う。どちらかというなら、そう。────理由にされたのだ。 「……………遊園地とかさあ、行かなくて良かったよね」 突然、彼女がそんなことを言う。回し飲みだと言っているのに、我が物顔でストローを噛んでいる。丸かったはずのそれは跡形もなく平たい。 「あんたが一番嫌がりそうなところじゃないですか」 「いやまあ、そうだけどさ。ああいうとこって、お誕生日だと分かりやすくステッカー貼ったりとかあるじゃん。そんで、祝ってもらったりとか。そういうの、見なくて良かったなー、と思う」 彼女は、俺の誕生日に俺と会おうとしなかった。なんなら今年はおめでとう、という言葉すらも無かった。俺には幸いなことに、自分の誕生日を祝ってくれる友人や家族なんかがいて、だからそこに彼女がいないことにそこまで悲しむこともない。ただ、俺の方からは、彼女におめでとうという言葉が通じないのだと思うと、それだけが物悲しかった。 誕生日は、誰にだってある。生まれてきたんだから当然だ。ただそれをここまで忌避する人間を俺は彼女以外に見たことが無くて、だからこそ俺は彼女のことを特別だと思うのだが、彼女曰くそれは特別なんかではなく刷り込みなのだという。雛が初めて見たものを親と認識するように、世の中に誕生日が好きじゃない人なんて数千人、なんなら数万人もいて、ただ俺が最初に見えるようになったのが天国かやという人間だったのだと。本当にそれだけのことだと、彼女は言った。そしてそれは、とても可哀想なことなのだとも。 「気まずいよなあ。ああいうの。悪いのはこっちだって分かってる分、余計にさ」 「……別に、悪くは無いんじゃないですか」 「せっかく自責してるんだから水差すなよー」 「またそんなことを言う」 「いやいや。本当よ。本当に悪いとは思ってるのよ。でもさあ、」 萎びたポテトを手に取って、一口。咀嚼する間、俺は彼女の言葉を待ったが、結局出てきたのは「やっぱいいや」という一言だけだった。 「そんな言い方されると気になるんですけどね」 「大したことじゃないし。いつものあれだよ。いつもの愚痴」 俺の機嫌が悪くなったのを察知したのか、彼女は少し高い声で「……あ、そうだ」と零して、そのワンピースと同じぐらい黒いリュックから小さなメモ帳と、何故かそのままのボールペンを取り出す。そして躊躇いなくページを一枚ちぎったかと思うと、何かを書いて俺に差し出した。 「……なんですかこれ」 「え? せっかくだからお誕生日プレゼントあげようと思って」 罫線が引かれた紙には、その列を突き破って『なんでも言うことを聞いてあげる券』とぐちゃぐちゃな字で書かれている。……この人、本当に成人しているんだろうか。 「あ、一応言っておくけどなんでもはなんでもという意味じゃないんでよろしく!」 「ならなんでもって書かないでくださいよ」 「補足するのもダルいじゃん」 鼻歌で『ハッピーバースデートゥーユー』を歌いながら、机を指で叩く彼女の様子は、いつもと変わらないように見える。ただ、その視線はどこか仄暗い。その光景を見ると、俺はとても懐かしい気持ちになった。 「……かやさんって、変わらないですよね」 変われないですよね、とは言わない。ただ彼女は鼻歌を止めてこちらを見た。そして眉をひそめたような笑みで、「うーん」とだけ零す。 ───────それが全てだった。