「おい!またお前という奴は出されたものを残したな!」 とある日の極星寮に、そんな野太い声が響く。反射的に近くにいた汐見潤は「ひょえっ!」と声を上げ、それを見ていた少女は汐見の頭を撫でてやる。 「ちょっと銀さーん、潤が怖がってんじゃん」 「む……それは悪かったな……いや待て、そもそも俺を怒らせているのはお前だろう!?」 「銀さんうるさーい」 「こ、この女……!」 当初の目的を忘れ怒りを剥き出しにする堂島銀に、小指で耳を掻きながら実に適当な相槌を打つ少女。この二人の言い争いは(とは言っても片方しか怒っていないが)極星寮の名物であり、間に挟まれることの多い潤はまたか……とそんな二人を呆然として見つめるばかりだ。 「ていうか最終的には残してないから良くない?」 「城一郎に食わせたんだろうが……!」 「城一郎はお腹が満たされて嬉しいし、私は食べなくて済んで嬉しいし、農家の人も廃棄物が出なくて嬉しい。一石三鳥じゃん。潤もそう思うよね?」 「えっ!?私ですか!?えっ……まあ……確かに無駄は無いですけど……」 「汐見!こいつの言に惑わされるな!城一郎はお前の残飯処理班じゃないんだぞ!」 「ひ、ひぇっ」 またしても身が竦んだ潤を見て、少女はあはあはと笑う。そしてたまたま近くを通りがかった城一郎の腕を掴み「城一郎は私の残飯処理班だよねー?」と問うた。 「何?いきなり暴言?まあそうだけど」 「ほら、城一郎もそうだって言ってる」 「……城一郎!!!!」 「お前ら相変わらず仲良いなー」 「極星寮の助さん格さんとは私達のことだからね」 「誰が格さんだ……!」 「あ、格さんの自覚あるんだ?」 そんな会話をしながら、少女は城一郎を盾にするように極星寮から逃げ出してしまう。銀はその背中を見て、大きく溜息をついた。 「ったく……城一郎も、あれ以上甘やかさないでくれ」 「別に困ってないんだけどな。何がそんなに気に食わないんだよ?」 「お前なあ……。この先ずっとあいつの隣に居て飯を食ってやるつもりか?将来困るのはアイツだぞ」 「困るって何が?飯残して、何が困るんだよ?」 「……それは、」 その単純かつ明瞭な問いに、銀は一瞬口ごもってしまう。それを見て、城一郎は快活に笑った。 「銀はさ、真面目過ぎんの。それはもちろん長所だけどな、全員が全員そうじゃないし、そうなれるわけじゃない」 「…………」 「今は俺がいるから良いんだよ。いつかあいつだって、考えなくちゃいけない時が来るんだ。そんときにどうせ苦しむんだから、今だけ甘やかしたっていいだろ?」 「……あの女が飯を食うだけで苦しむのか?」 銀にとって、あの少女は自分とは対極な存在であり、城一郎に近しい存在でもあった。いつもヘラヘラと笑いだらしが無いが、誰とでも仲が良くすぐに打ち解けられる。そんな彼女は城一郎と同じく極星寮のムードメーカーであり、食戟は殆どしないものの料理の腕は銀も城一郎も認めていた。 銀の脳裏に過ぎるのは、学園に来てからずっと仲がいいらしい城一郎と馬鹿騒ぎをする姿や、笑いながら銀の小言を聞き流す少女の姿だ。どうにも、苦しんでいる姿というのは風邪をひいた姿ぐらいしか想像がつかない。 そんなふうに考え込んでいる銀を見て、城一郎は苦笑する。 「まあ、お前らって相性悪いからなあ」 そう言って、銀を放置して城一郎もその場を去ってしまったのだった。
城一郎の言う、『考えなくちゃいけない時』は、銀が思っているより存外早くやって来た。城一郎が極星寮から去り、寮は火が消えたように静かになる。それは少女も同様で、あれだけ素行が悪かった彼女は毎日授業に出席し、それが逆に銀を不安にさせた。 「ねえねえ潤、これ食べてくんない?」 「えっ、ええっ……」 「おい!だから汐見に食わせようとするなとあれほど言っただろう!」 ただ、いつも出された物を残す癖は変わらない。処理させる相手が汐見や他の後輩に変わっただけで、その度に銀は声を上げて怒るのだった。 「ええー。しょうがないなあ、じゃあ捨てるわ」 「おい待て!行かせんぞ、今日という今日は時間をかけてでもいいからちゃんと食え!」 少女が立ち上がれば、銀もその行く先を阻む。そんなことを繰り返しているので、少女は大きく溜息をつき、渋々と言った様子で席に着いた。 「銀さんってさー、なんで私にそんな構うの?第一席ってそんな暇?」 嫌そうにたった少しの米を箸で掴み、口に運びながら少女はそんなことを聞いた。向かいに座った銀は、問いを受けて顔をしかめる。自分の中で、少女に構っているつもりは一切無かったからだ。 「なんでってそりゃあ……」 「何?私の事好きなの?」 「なっ……ばっ、誰がだ!そんなわけあるか!」 ドン、と銀が反射的に机を叩けば皿が揺れ、味噌汁の残りが若干零れる。その様子を半目で見ながら少女は、「冗談だってば。そんな否定しなくても良くない?」と口にした。 「…………悪い」 「別に怒ってないけど」 そう言って、また少しの米を箸で掴んで、少女は口に運んでゆく。 思えば、銀は少女が何かを食べている様をまじまじと眺めたのはこれが初めてだった。だからどうにもその光景は銀にとって、アンバランスで、不自然に思える。 「……何?」 視線に気がついた少女が、銀にそう問うた。 「いや、お前、ちゃんと食えるんだな」 「食わないと死ぬでしょ、人間って」 「そりゃあまあ、そう出来てるからな」 「………………ねえ、銀さんはさ、」 そこまで言いかけた少女は、一瞬銀の顔をじっと見つめて、「……やっぱいいや」と口を噤む。その視線が、かつて月天の間で見た城一郎と同じような気がして、銀は酷く嫌な予感がした。何か、致命的な何かを見落としているような不安感。 そんな銀を他所に、のろのろと一時間以上かけて少女は食事を食べ終わると「じゃあねー!」と笑い、部屋に戻っていく。 ────そしてその日から、もう二度と少女は寮の食堂に現れなかった。 汐見や他の後輩達がいくら声をかけても、少女は食堂に現れない。銀が何を言おうが「ご飯は無駄にならないし、後輩は残飯処理しなくても済むし、銀さんは怒らなくていい。一石三鳥じゃん」といつの日かと似たようなことを言う。そしてその言葉に銀はいつも反論できないのだった。
「先輩……なんかまた痩せました?」 「えっ、そうかなー。わはは。モデルになれちゃうかも」 ある日、そんな会話が聞こえてきたのは、銀が自分の部屋に戻ろうとした時だった。廊下で話し込んでいるのは汐見とかの少女らしく、思わず銀は二人から目の入らないところで足を止めてしまう。 「……もう、そんな冗談言ってる場合じゃないですって……今月だけで何回倒れたか……!」 倒れた。その言葉を聞いた瞬間に、銀は自分の心臓が止まった心地がした。 「潤、それ誰に聞いた?」 一方の少女は、優しい声で汐見にそう問いかけて、返ってきたのは弱々しい声だった。 「…………ほ、保健室の先生が話してるのを盗み聞きしました」 「あはは!潤もやるねえ、流石極星寮生」 「笑い事じゃありません!このままだと本当に死んじゃ、」 「───────死なないよ」 汐見を遮って飛び出した少女の声は、先程までの明るい様子とは打って変わってどこでも静かだった。無風の水面のように静かで、酷く億劫そうな声色。何度も何度も同じ説明をしてきたかのような、疲労が見え隠れするようなそれ。 「死なないんだよ、潤。人間っていうのは倒れたら点滴を打たれるんだ。どれだけ固形でのそれを忌避したとしても、最終的には点滴という、『食事』をさせられるんだよ。つまり、私達はそこから逃れることが出来ない。分かるでしょう。私達は食事をしている限り、死ねないんだ」 「と、突然どうしたんですか……そんなの、当たり前じゃないですか……」 「…………あはは。そうだよね。当たり前だよね。変なこと言ってごめん」 「…………先輩」 「潤に心配かけちゃあ私も銀さんと変わんないなあ。冷蔵庫になんか食べられるものがないか探してくるよ」 そう言った少女は、踵を返し銀の元へとやって来る。そうして階段の踊り場で二人は鉢合わせた。 「…………いつから極星寮は盗み聞きの温床になったのかな」 「…………悪い」 「いいよ別に。怒ってないから。私は銀さんに怒ったことなんて、一回もないから」 そう言って、半笑いのまま通り過ぎようとする少女の腕を、銀は反射的に掴んでいた。その手首の細さにゾッとする間もなく、少女は「何?」と言う。 「俺のせいか?」 「だから、何が?」 「お前が、何も食べなくなって、そんな風になったのは、俺のせいか?」 「はあ。いや、違うけど」 「…………」 「あ、納得してねーって顔だ」 少女は溜息を一つ。銀の手を掴み返して「ここじゃあれだし、私の部屋で話そうか」と、笑いながら言って、彼の手を緩く引っ張るのだった。
「………何も無いな」 「あれ、銀さん私の部屋に来るの初めてだっけ?」 「そりゃそうだろ、女子の部屋なんだから」 「城一郎はすげー入り浸ってたけど」 「あの男は……!」 殺風景なその部屋には机と、ベットしか置かれていない。その机にも教科書や筆記用具などの最低限のものしか置かれておらず、どことなくそれは銀に病室を彷彿とさせたのだった。 「私はベット座るから、銀さんは机の椅子座っていいよ」 「……ああ、悪い」 銀が椅子に座れば、木が軋む音が微かにした。少女は銀の目の前で平然とベットに寝転がる。銀は思わずそんなことをするな、と言いたくなったものの、結局口を開くことはしなかった。それは面倒だったからなのかもしれないし、ぼんやりと天井を眺めていた少女の瞳が、薄暗かったからなのかもしれない。少なくとも銀には分からない事だった。 「……私、凄く簡単に言うと食事が苦手なんだよ」 「苦手?何か食えないものがあるとかじゃなくてか?」 「うん。食事っていう、行為そのものが苦手。別に私は何かしらの神様を信仰している訳じゃないけれど、自分が生きるために他の生き物を殺したり、何かを消費したり、それが耐えられない。その最もたる例が、私にとっては食事だった」 「…………いつから、そうなんだ」 「さあ。でも多分、生まれた時から」 銀は、言葉を失った。部屋に物がない理由も、食事を残す理由も、彼女の中ではどこまでも秩序立っているもので、公式だった。けれどそれに理解が及ばない。その不理解という溝を、銀は生まれて初めて認識した。 「銀さんは……銀さんだけじゃないな。ここの人達は、特に皆食事をすることに疑問を持たないからさ。皆料理人だから、当然っちゃ当然かもしれないけど。生きるためにどうして食事が必要なのか、誰も考えないから」 そこで少女はベットから起き上がって、銀をじっと見つめた。 「───────でも、城一郎だけは違った。城一郎だけは、私のことを分かってくれた。私の苦痛を、認めてくれた。それでいいって、ゆるしてくれた」 「…………」 「だからね、本当はあの時、私も連れて行ってって頼んだの。城一郎がいないなら、私はここにいる意味が無いからって。城一郎がいないなら、私は何も食べられないからって」 自分で言っていてその時のことを思い出したのか、少女はあはあはと笑う。それはどこまでも毒気のない、あどけないもので、銀は一瞬呆けてしまう。 「でも…………結局、置いてかれちゃったなあ」 「…………そうか」 「そうかって。他に言うことないの?」 そう揶揄うように言われても、もう銀は腹が立つことは無かった。だから少し考えて「……俺は、やっぱり出されたものを残すのは、良くないことだと思う」と言った。 「まあ、銀さんはそう言うと思ったよ」 「ただ、」 「ただ?」 「お前に、死んで欲しいわけでも、ない」 「…………え?あー……うん」 その銀の言葉には妙に迫真さがあったから、少女は思わず笑いそうになった。だって、私死ぬなんて一言も言ってないじゃんと、そんなことを思ったから笑いそうになったけど、気がついたら、彼女は鼻を啜っていた。それから何も入っていない胃の底がじくじくと熱くなるような感覚になって、思わず自分の腹を撫でた。腹は直ぐにべこ、とへこんだ。 「だから、俺が食う」 それは少女にとって思ってもいない言葉で、また腹がべこ、とへこむ。熱がもっと強くなったような気がして、胃液もせりあがってくるような心地がした。 「…………いや、いやいやいや。別にいいって」 「別にいいって、なんでだ?」 「なんでって、そりゃあ銀さんが責任感じてるのは分かるけど」 「いや、責任は感じてないが。お前に俺のせいかと聞いて、お前は違うと言った。理由も説明してくれて、俺はそれに納得した。だからお前のそれは、俺のせいじゃない」 「…………」 途端にはきはきとした発言をする銀を見て、少女はそういやこいつも十傑なんだった、と今更そんなことを思った。料理の腕前よりも何よりも、十傑になるような人間は大抵我が強いのだ。そしてそれは、堂島銀という人間にも当てはまるらしかった。 「じゃあ何?突然甘やかす気にでもなってくれたの?」 「甘やかしじゃないぞ」 いやまあそうだろうけど。知ってるけど。そう少女が言うよりも、銀が言葉を続ける方が早かった。 「この先ずっとこうだからな。別に、甘やかしじゃない」 「……………………………………………………………………………………………………そうですか」 長い沈黙の後、少女が発した言葉はそれだけだった。何を言ってるんだお前は、という言葉もずっとって何?という問いかけも、馬鹿じゃないのという罵倒も、最早口に出す気力が無かった。 「なんだ、俺じゃ不満か?」 「え?いや別に……不満とかはないけど……城一郎を残飯処理にするなってあんだけ怒ってたから……なんか……」 「ああ、それか。今気がついたんだが、俺は城一郎が残飯処理になるのが嫌だったんだろうな。俺がお前の残り物を食べるのなら別に構わない」 「い、今!?それに今気がついたの!?」 「そうだが」 そうだがじゃないが、と言う言葉を少女はなんとか押さえ込んだ。 「………………というかさあ」 そこまで言って、少女はちらと銀の顔を見る。銀は不思議そうな顔で、それを見つめ返す。 「銀さんは……私の事好きなの?」 「いや、だらしがない人間は好みじゃない」 「な、納得いかな……いやまあ、でも銀さんそういう人間か……」 はあ、と少女はため息をつく。何だかどっと疲れて、そこでこの男とここまで話したことは今日が初めてかもしれない、とぼんやりと思った。何年もずっと居たのに、不思議な事だと、そんなことを考えた。 「…………まあ、銀さん忙しいだろうし、暇な時でいいから、そうしてくれると……私が、助かる」 「ああ、そうする」 「うん」 「……なあ」 「なに?」 「俺に、教えてくれてありがとう」 「………………別に、」 続きの言葉は、少女の震えた口から出なかった。その代わりに、目から涙が零れて、彼女のベットを濡らした。銀はそれを見て、少女の頭に手を乗せた。そしてなんてことの無いように、かき混ぜてやった。
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「おかしい…………」 「何がだ」 「私達、遠月から卒業したよね」 「したな」 「大学だよね」 「ここか?そうだな、大学だな」 「え?なんで銀さんまだいるの?」 「お前の隣で飯を食うためだが」 「…………え?これ私がおかしい?」 「その味噌汁もう要らないんだったら寄越してくれ」 「あ、うん」
「おかしい…………」 「何がだ」 「私達、大学から卒業したよね」 「したな」 「銀さんは遠月リゾートの厨房入って、私はエネルギー食品の会社入ったよね」 「そうだな」 「え?なんで銀さん私と仕事帰りにファミレスにいるの?」 「お前の隣で飯を食うためだが」 「……え?これ私がおかしい?」 「パスタ食いたいんだったら頼んでいいぞ、今日は腹に余裕がある」 「え、じゃあ頼もうかな…………」
「おかしい…………」 「何がだ」 「私達、遠月から卒業して結構時間経ったよね」 「そうだな」 「城一郎も薊も結婚したし……」 「したな」 「銀さんも今や遠月リゾートの支配人だからなあ。出世したよね」 「ありがとう」 「いやそうじゃなくて。え?なんで銀さん私の部屋にずっといるの?」 「お前の隣で飯を食うためだが」 「…………え?これ私がおかしい?」 「今日は何なら食べられそうだ?」 「え……じゃあ酢の物……」
「おかしい…………」 「何がだ」 「え?いやこれ……指輪だし……どう見てもプロポーズだし……」 「一昨日ふと思ったんだ、」 「うわうわうわ、すごい嫌な予感がする」 「俺はお前のことが好きなのかもしれない」 「ほら見ろ!知ってたわ馬鹿!お前以外皆知ってたからな!?」 「遠月学園にいた頃から……」 「嘘!?そこまで遡る!?合ってたじゃん!あの時の指摘、当たってたじゃん!」 「結婚してくれ」 「えー……いや、まあ…………結婚式、遠月リゾート以外で、やってくれるなら、まあ、いいです、けど…………」