1

私がその吸血鬼の人(今考えると矛盾した言い方だ)に出会ったのは、曇り空の日だった。そう、曇り空。私の体調が悪くなる日。だから私はお昼休憩に公園でぼんやりとしていた。少しでも風に当たって、呼吸をしたかった。会社にいるとあんまり上手く呼吸ができない。それが空調だけの問題ではないことを私は理解している。理解しながら、目を逸らし続けている。食欲がないからドリンクゼリーをズコズコ吸っていた。 「そこのお嬢さん」 と、声をかけられた私は隣を見た。吸血鬼がいた。いや、吸血鬼はそこら中にいるんだけど。それでもフリー画像みたいな吸血鬼だから、すごかった。ブラム・ストーカーが手を叩いて喜びそうだと思った。 そんな吸血鬼然とした彼は私の隣に座り、私の頭を指さした。 「……失礼ですが、頭に……その、鳩の糞が」 「あー」 ゼリーがなくなって、ズコ、と音を立てたけど私は口寂しくて、入口をガシガシと噛んだ。鳩の糞には心当たりがあって、もしかしたら通勤の時に落ちたのかもしらん、と思った。それは同時に、会社の人が誰も指摘してくれなかった事を意味していた。 「……あー」 「…………と、取りましょうか?」 ニコオ、と笑った吸血鬼だったけれど、その顔には動揺が見て取れる。私があんまりにも何も言わないから、彼は気まずくてわたわたしているようだった。私はそれを見ながら、またガジガジと入口を噛んだ。なんの味もしない。 ふと、彼の肩にいる丸々としたものに目がいった。アルマジロらしい。私がそれをぼんやりと眺めていると、吸血鬼はその視線に気がついたらしく「ジョンと言うのですよ」と誇らしげにそれを私に見せびらかせた。ヌー、という何とも言えない鳴き声を漏らしたそれは、短い足をパタパタとさせている。 「あー……」 「…………さ、触ります?」 私の無反応っぷりにまたしても動揺したのか、彼はそんなことを言った。私が首を横に降るとジョンと吸血鬼は落ち込んだ様子で引き下がった。 「せ、せめて糞だけでも」 さっきから凄い糞に引き下がってくる。吸血鬼って糞が好きなんだっけ、と思ったけど、ただ単に良い人なのかもしれない。人っていうか、吸血鬼。良い吸血鬼って何?献血のキャンペーンキャラクターになるとか?胸も無いしいいんじゃないかな。 「なんか、」 「は、はい」 「別に、今から死ぬからいいかなって」 「……えっ!?ちょ、えっ!?」 いや別に、嘘なんだけど。吸血鬼とアルマジロはとてつもなく慌て始めた。うちの親よりも焦っている。私の親はあんまりにも私が同じことを繰り返すので取り合ってくれなくなった。悲しいね。悲しいのかな、よくわかんないけども。 「鳩の糞とか、どうでもいいんですよ、別に。なんか誰も教えてくれないし。知らない人の方がまだ優しいし。どうせ私って非正規雇用だから舐められてるんでしょうね。なんかもう、頭がずっと重いんですよ。息も上手く出来ないし。スーパーに行って死にたくなったことってあります?あそこはね、生きようとするひとが行く場所なんですよ。だって食べることは生きることだから。そういうのすら放棄したい私にとってあそこは処刑場だし、でも生きるのにはご飯っているから私はあそこに通ってます。隣の人のカートにたくさんの生鮮食品があるのを横目で見ながら自分のカートに乾麺とゼリーを入れていく私の惨めさが分かりますか?分からないでしょうね。分かるなんていったら殺してました。殺せないですけど」 突然捲し立てた私を、アルマジロはヌ、ヌ、と信じられないものを見るような目で見ていたし、吸血鬼は─────吸血鬼は、砂になった。 …………砂? 「お、重い!重すぎるわ!重すぎて潰れたんですけど!?初対面で言う話じゃない!なんて言えば正解だったのこれ!?」 「さあ」 「さあって!?ていうか君も君でこんな素人に話すんじゃないよ!なんかそういう……自助グループとかカウンセラーさんとか、そういう適切な機関及び専門家に話しなさい!?変に素人に話してもお互いのためにならないんだからね!?」 思ったよりもホスピタリティのある返事を貰って驚いているうちに、砂は元の形に、つまりは吸血鬼の形に戻っていった。仕組みはよく分からないけど、彼は一人で輪廻のサイクルをぶん回しているらしい。 「カウンセラーってあれですか、病院とかですか」 「え?いやまあ……病院には限らないだろうけど、一番わかりやすいのはやっぱり病院なんじゃないか?資格がないと雇って貰えないだろうし……変な人に引っかかるよりは……」 「でも病院に行くの、怖いです。それで病気って言われたら、どうしていいかわかんないし。私は私がおかしいことを認めなくちゃいけないのがすげー怖いです。病名なんてものが出たとしたら、私はずっと病気って事実から逃れられないわけで……」 「だからこう……私が背負える範疇じゃない!そういうことはメモ帳なんかに書いてあとで病院でわかりやすく話せるように留めておきなさい!?」 吸血鬼は存外まともなアドバイスと共に再び砂になってしまった。さらさらとしたそれは、どことなく私に地元を浜辺を思い出させた。あそこにはなんのいい思い出もないんだけど。 「…………一緒に病院着いてきてくれませんか?」 「責任の重さで死ぬわ!」 三度目の死だった。私は砂を手に取ってばらまこうとしたけど、アルマジロが必死に止めて来るので、やめてあげることにした。

2

夜、仕事終わりに指定されたバス停に向かう。今日はこの前と違って晴れていて、何故か一番星が二つ見えた。晴れはあんまり好きじゃない。私の抑鬱を、天気のせいに出来なくなるから。私の頭がおかしいことを、認めざるを得なくなるから。 「ド……クさん」 「名前覚えてないからってそんな検索避けみたいな呼び方を……」 ドラルクだよドラルク、と言う彼の肩には相変わらずのアルマジロ。 「それ、バスに乗れるんですか」 「ケージに入れたらね。あとそれじゃなくてジョンと呼びたまえ」 「ジョン」 ヌー、と声を零したそれは(内心ではどうしても『それ』呼びになる)短い手足をバタバタとさせた。私はそんな光景をぼんやりと見つめる。 「……なんかまた良くないこと考えてるんじゃないか?」 「いえ、別に」 「まあいいが……。ああ、保険証は?」 「あります」 「メモは?言いたいことはまとめてきたかね?」 「ありますよ」 私がそう言って彼に端末の画面を見せようとすると、彼は目をギュッと瞑ってギャア、と声を上げる。そして「そういうセンシティブな話題は他人にすぐ見せない!」と叫んだ。成程、見たらまた重くて死んでしまうんだろう。彼は物凄く繊細な存在なのだ、物理攻撃ではなく精神攻撃にも弱い。その割には元気そうで羨ましいけれど。 ドラルクさんとは数日前に公園で出会って、私は冗談で病院に着いてきてください、と言って彼は重いから嫌だと言った。まあ、至極当然だと思うので落ち込みもしなかった。それどころか私の悪い回避癖が働いて、病院に行かなくて済むことに安心していた。 ところが次の日、公園には彼が座っていた。私は思わず頭に手をやったけど、鳩の糞は無かった。髪を洗う気力がなくて、少しだけ油分が手に付くだけだった。 彼は私にいくつかのホームページがプリントされた紙をくれた。全部そういう病院だった。 『ほら、この中から良いの選んで初診予約しなさい。夜やってたり土曜日空いてたり……あとはカウンセリングを自主的に受けられるか主治医の判断によって受けられるかとかがあるからそれはもう自分で決めるといい』 『あの、』 『ふふん、感謝の言葉は構わないよ』 私が声をかけると、彼は何故か胸を張った。肩にいるそれも胸を張った。仲がいいんだなと思った。私には友達がいないから、そういうのが、あまりよく分からないけど。 『いやあの、私の代わりに電話……初心の予約してもらっていいですか』 『自分でしなさいよそんぐらい!?』 『電話、怖いんです。ずっとバクバクして、声が震えて上手く喋れなくって。向こうにいる人に私が愚図でのろまでどうしようも無い人間だってことが見抜かれそうで、心臓を鷲掴みにされた心地がして。酸欠になって、頭が重くなるんです』 『私が悪かったからそれ以上は!!』 そう叫んだ彼は砂になって死んだ。やっぱり私の身の上話(?)は彼にとって死んでしまうぐらい重すぎるらしい。 元の姿に戻った彼はやれやれと言わんばかりに端末を寄越せと手を出す。 『まだどこ行くか決めてないんですけど。せっかちですね』 『…………ゆっくり決めなさいよ!?』 普通に逆ギレだった。 バスの中は部活帰りの学生や、会社帰りの社会人でいっぱいだった。私はドラルクさんの横に座って、窓を見る。夜はいっそう深くなって、窓に反射したドラルクさんはますますその輪郭を溶けさせていた。 「そう言えば、なんでドラルクさんは着いてきてくれたんですか」 「……聞くの遅くないか?」 「最近思考が上手くまとまらないんです。物覚えも悪くなって、ずっと頭に霧がかかってるみたい」 言った瞬間、彼の半分が砂になった。全部死ななかっただけマシなのかもしれない。 「公共交通機関で死んだら迷惑かかっちゃうでしょうが!」 「あ、そこら辺の倫理観はあるんですね」 「あるわ!社会に生きてるんだぞ!?」 うーん、思想。そう思いながらもうんうんと頷いていたら、肩のアルマジロも私の真似をしてうんうんと頷いていた。 「まあ、あのまま君に死なれたら私が死ぬんだよ。あの道通る度に、重すぎて。それが嫌だっただけだ。あとはこの時間帯どうせ暇だし……」 「死にませんよ、何言ってるんですか」 「よくそんな自信満々に言えたね!?」 ドラルクさんはため息をひとつ。それから私の代わりに降車ボタンを押してくれる。周囲を見る余裕のある人なんだな、と私は思った。 「……血、飲みます?」 「……君、献血の基準満たしたことあるかね?」 「いっつも体重足りなくて駄目ですね」 「…………なんか食べられるものとかないの?ゼリーだけ?」 「ゼリーと、あとはブロックタイプのあれです」 「ならそれも言うといい。そのうちぶっ倒れるぞ……」 「早くそれになりたいです。それになって、楽になりたいです」 言った瞬間、今度は彼の全部が砂になった。私はその砂をかき集め、アルマジロを自分の肩に乗せ、二人分の料金を払ってバスから降りる。ドラルクさんは「……ICカードしかなくて」と言った。吸血鬼もICカード使うんだ、と思ったけど別に使っていいじゃんね。便利だし。私なんかよりよっぽど有能だと思う。

3

平日の夜だと言うのに、病院は混んでいた。そんな様子を見て、ドラルクさんは「世も末だな……」と呟く。吸血鬼に言われると、変な重みがある。 「ほら、保険証は私が出してきてあげるから君は空いたところに座りなさい」 「立ってます」 「いや座りなさいよ!?」 ドラルクさんは私の保険証を受付に持って行って、私はなるべく隅っこの、ショッピングモールによくあるようなソファの端っこに腰掛けた。しばらくすると彼は戻ってきて、保険証とカルテを私に渡す。そこにはどういうことを相談したいか、みたいな質問が噛み砕かれて五つぐらいに分けて書いてあった。 「こういうの、なんて書くか困っちゃいますね」 「とりあえず体の不調とか書けばいいんじゃないかね?……あ!例は言わなくていいからな!私が死ぬ!」 「うーん、危機管理」 私がせこせこと文字を書いている間、ドラルクさんは備え付けられていたテレビのバラエティを見ていたし、アルマジロは私の手元を覗き込むようにモゾモゾと蠢いていた。生き物のなまあたたかさが、手を張って少し気持ちが悪い。落ち着かない。生きているものは気持ちが悪いから、皆死骸を食べるんだろう。 そんなことを考えているうちに書き終わって、私は受付にそれを渡す……ことが出来たら良かったんだけど、どうにも忙しそうですみません、と声をかけることが出来なくて置いてきてしまった。ドラルクさんの「渡せたかね」という質問には首を縦に振った。 「ドラルクさんって、死なないんですか?」 「いやめちゃくちゃ死んでるけど!?」 「そうではなくて、消滅という意味です」 ああ、と零したドラルクさんは少し考えるようにして「まァ、ここにいるということはそうなんだろうね」と言った。 「すぐ復活して、大変ですね。イエスだって一回しか復活してないのに、そんなに復活したらありがたみがないと言うか」 「そ、そんな辛辣に言うことある!?」 「ドラルクさんはすぐ死ぬというよりも、すぐ生き返るという感じがしてなりません」 私がそう言えば、彼は目をきょときょととさせて「そんなこと言うのは君ぐらいなもんだよ」と呆れたように言った。 「へえ。友達少ないんですか?」 「切れ味!」 またしても砂になってしまったドラルクさんを、私はアルマジロと一緒にかき集めた。 結局、病院から解放されたのは二時間ぐらいあとで(医者相手に話をしたりする時間が多かったから)、まずはと言わんばかりに睡眠薬を処方された。他の薬はこれから検討するらしい。今度から週一で通院することになった旨を伝えれば、彼は「そうかね」と言う。 「ドラルクさん、今度も着いてきてくれますか」 「……え、普通に嫌だが……」 ドラルクさんは半目でそんなことを言って、でもまた脅せば着いてきてくれそうだなあ、と私は思った。外に出たら相変わらず真っ暗で、一番星は二個から数千個に増えていた。 「ねえ、ドラルクさん」 私が声をかければ、彼は振り返る。アルマジロもついでに振り返る。 「ドラルクさん、優しいから。もしドラルクさんが生き返りたくなかったから言ってくださいね」 「はあ……。言ったらどうなる?」 「私がドラルクさんの砂飲んで、海の底に沈みます」 ドラルクさんは、死ななかった。ただ目を細めて、「出来もしないことを……」と呆れた声で言った。私は笑って、そのままドラルクさんと別れた。彼の目の前で笑ったのは、これが初めてだった。 後ろから彼が「君、友達いないだろう!」と叫んだのが聞こえた。仰る通り。

「おい、こんな時間までどこいってたんだよ」 「母親みたいな言い方を……」 そうドラルクが零せば、ロナルドの手刀によりその体は砂になる。ジョンがわたわたと慌てる中、ロナルドは言葉を続けた。 「虚弱体質の癖に運動か?わざわざ公園まで行って……」 「知ってたのか?気持ち悪い」 「知り合いが見かけたって言ったんだよ!」 ロナルドはもう一度手刀を喰らわせようとしたが、まだ砂なので意味が無かった。舌打ち一つを零し、白湯をマグカップに入れる。締切前は珈琲の飲みすぎで胃が荒れるのだ。 「ほらあそこあれだろ、ちょっと前に────」 「近くの会社の屋上から、飛び降り自殺があったんだろう」 砂から戻ったドラルクが言葉を引き継ぐと、ロナルドは少し驚いたように目を瞬かせた。 「……知ってたのかよ」 「ニュースになってただろう。非正規雇用の若い女性が平日の真昼間から飛び降りて、目撃者もそこそこ多かった。これだけセンセーショナルなニュースならば、私が知ってるのも当然じゃないかね」 「……まあ、それでな。その事件の後、件の死んだ社員が化けて出るって噂がめちゃくちゃ立ったんだよ。お陰で退治人の方にまで依頼が来てるらしくってな」 呆れたように言うロナルドを眺めていれば、肩に乗ったジョンが慌てたように手足をばたつかせる。ドラルクはそれを撫でるようにして制しながら、ソファに深く座り込んだ。 「死んだら天国に行くと言ったのは誰なんだろうね。嘘っぱちじゃないか」 「……ハア?」 胡乱な目を向けるロナルドを無視して、ドラルクは肩のジョンを降ろしてやる。そうしてあの、背筋の曲がった女の姿を思い出す。あの女は死んでいる。死んでも尚、死を求めている。死を否定しながら死を望むその存在構造は、どこまでも歪んでいた。 「…………カウンセリング成仏ってアリかな」 そう呟いたドラルクに向かって、ロナルドは三度目の手刀を喰らわせた。