綾人には物心ついた時から婚約者がいた。しかし婚約者とは名ばかりで、実際のところ彼女は気狂いと呼ばれ、神里の家に押しやられていただけだった。 彼女の趣味は虫を愛でることで、数多の虫の中でも特に蛹を好んでいた。 「蛹がいちばん美しいのです。永遠のものは、美しくなるより他ないのです」 そう言って、彼女は幼虫を蛹になるまで育ててやり、羽化の時期を待たずして殺す。蝶の羽を毟り、四肢をもぐ様は、幼心ながら綾人に恐ろしい印象を植え付けていた。 大人になっても綾人はそんな彼女のことがどうにも薄気味悪く、自らの妹に近づかせないようにしていたが、それが妹の誤解を生んだ。妹は自らの兄と婚約者が自分を嫌っているのだと悲しんでしまったので、彼は一度だけ妹と彼女を引き合せることにした。 「綾華様は綺麗な髪をしていらっしゃいます……いえ、髪だけじゃありません。お顔も、お着物も、全てが綺麗で」 「まあ、そうでしょうか……」 女は薄く笑って、妹の髪を口に当てる。妹はそんな彼女に照れた様子で頬を薄く染めた 「綾華様はまるで─────蝶のようです」 女がそう言った瞬間、綾人は女の手を強く叩き落とした。女は表情一つ動かさなかったが、妹は驚いた様子で「お兄様!?何をなさるのですか……!」と縋り付く。綾人はそれら全てを無視して、女の手首を強く掴み部屋に戻した。それからもう二度と、自らの妹に彼女を会わせることは無かった。

そんな状態が数年経てば、神里綾人は婚約者にご執心なのだ、囲っているのだ、という噂が立つようになったが、綾人はそれら全てを無視して過ごした。時折女の顔を見に行くこともあったが、体を交わすことは一度も無かった。女の方も綾人が来たとて何を話すでもなく、いつもぼんやりと、虫かごの毛虫を見つめるだけだった。 丁度、綾人が家を空けている頃だったろうか。稲妻や雷電将軍に纏わる騒動の台風の目である、旅人達が神里家にやって来た。旅人は綾華だけではなく、部屋の奥に隠された女にも会った。いつも閉じ込められて可哀想だと思った綾華が、彼らを引き合わせたのだった。 「旅人様は蝶のようですね。軽やかに、まるでなんでもないみたいに国を渡るんですから。是非お話を聞かせてください」 女は実に楽しげな声で笑って、旅人やパイモンにお伽噺を強請る。旅人達もそれならと、自分達が今まで見てきた国の話をしたし、さらに晶蝶の話もしてやった。彼女が蝶を持ち出してきたから、てっきり好きなのだと思って。けれど女は目を細め、静かな声で「そうですか」と言うばかりだった。

旅人に出会ってからと言うもの、女はいっそう美しくなり、またいっそう体が弱くなったように綾人には思えた。そして最近は毛虫や蛹を愛でる時間よりも、旅人から貰った晶核を陽の光に翳す時間の方が余程多い。それを見ると、綾人は、柄にもなくよく分からない情動に駆られそうになった。晶核を奪って壊してやろう、という発想すら出てきた自分が恐ろしく、彼女の部屋を訪れる頻度は減った。

そして次に綾人が訪れた時、彼女は蛹になっていた。そう、蛹だ。人の姿はなく、大きな蛹がその部屋には巣食っていた。 「綾人様、こんにちは」 蛹からはいつも通り、女の声がした。 「……一体これは、どうしたのですか。まさか何かに呪われて、」 「人間が産まれてくること自体、私にとっては呪いのようなものです。ですから綾人様、これは何も不思議なことではありません。今までの私は地を這う虫だった、というだけのこと」 顔は見えなかったが、女が薄く笑っているように綾人には思われた。 こうなるとますます、綾人は女を誰にも会わせることが出来なくなった。世話をする人間ですら部屋に入れず、彼は暇さえあれば彼女の部屋に顔を出したが、かと言って彼がすることは何も無かった。蛹は食事も排泄もしない。それそのものであるだけで、完全だった。 「ねえ綾人様、昔のことをどれだけ覚えていますか?」 ある日ふと、蛹がそんなことを言う。綾人はぼんやりと庭を眺めて「貴女が虫を食べていたことが今でも鮮明に思い出されます」と呟いた。 「ええ、そうですね。私は虫を食べていました」 「おかしいではないですか。虫が、虫を食べるのですか」 「そういうこともあるでしょう。現に私はそうなのです」 「それならまだ、獣の方がましでした……」 綾人の体から力が抜けた。床に横たわって、蛹を眺める。そうすると彼はいつの間にか寝てしまって、こんな夢を見た。

まだ幼かった頃の二人がいる。少女が木の下ではらはらとした様子で立っていて、幼い綾人は木の上にいた。彼は手馴れた動作で蝶を捕まえ、下に戻る。 『ほら』 『わあ……』 蝶は飛び立つ元気もなく、弱々しく羽ばたいた。 『これをあなたに』 『いいの?』 『ええ、こうしておけばにげません』 綾人は蝶の羽をやわく折った。少女の手の中に、哀れな蝶が収まる。炎のような夕暮れが二人の顔を照らしている。

場面が変わった。 大人達がずっと二人の周りを走り回っている。それが恐ろしくて、二人は手を繋いでいた。大人たちの言うことは難しくてよく分からない。ただ、『どうして』『このままでは』『呪い』『祟り』という言葉だけが聞き取れる。 『…………こわいよ』 『だいじょうぶ、あなたのことはわたしがまもります』 綾人はそう自分に言い聞かせるように呟いた。けれど少女は喜ぶどころか、悲しそうな顔になる。 『ねえ、あやとさま。わたしはあやとさまがいないとかなしいです』 『……そんなのわたしだって』 『わたしだけじゃない。あやとさまがいなくなれば、たくさんのひとが、かなしみます。わたしよりずっと、たくさんのひとが……』 『……なにをいっているんですか』 少女がゆっくりと綾人の手をほどく。綾人は嫌な予感がしたけれど、どうすることも出来なかった。 『だいじょうぶ。あやとさまは、わたしがまもります』 『……いやだ、わるいのはわたしです。わたしがあのとき、あしをおったから……』 少女は何も言わなかった。気がつけば大人達が少女の周りをぐるりと囲んでいる。彼女は連れていかれる。

劈くような悲鳴。血の匂い。 そういう悪夢を、彼は見た。

目を覚ませば、朝だった。床は冷えきっており、彼の頭はすぐに冴える。 慌てて体を起こして部屋の中央に目を向ければ、そこには蛹があったが、よくよく見れば薄皮が開いており、中の空洞が見えている。彼女の姿はどこにもない。 「っ……!」 屋敷の中を探し回っても、彼女はやはりいなかった。そんな兄の様子に不思議そうな顔をしながらも、起きたばかりの妹がやって来て、こんな事を言った。 「実は今朝、不思議な夢を見たのです。お義姉様が、ふらふらと何処かに行こうとするのです……夢の中の私はそれを止めようとしたのですが、振り返りもしなくて……それで、不安になってしまって」 お義姉様はまだ、ここにいらっしゃいますよね? その言葉に綾人は答えられなかった。まるで逃げるようにして女の部屋に戻れば、やはりあるのは蛹だけだ。けれどもう一度よく見れば、蛹の中に何か光るものがある。 それは、見覚えのある羽だった。昔、幼かった彼が手折ってしまった羽。 これで辻褄が合ったのだと、綾人は不思議とそう思った。そして思ったからとは言え、その喪失を埋められる気はせず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。