ボーダーのカウンセラーから紹介されたのは、影浦くんという男の子だった。カウンセラーの先生は、似た特性を持っているからと私達を引き合わせたようだった。でも彼はその鋭い目をさらに細めて私をまじまじと見るので、過敏な私の頭は色んなことをぐるぐると考えて、彼のSEを知った今ならきっとそれが全部彼に突き刺さったんだろうなと思う事ができるけれど、当時の私は何も分からないからパニックになって、そのまま吐いた。影浦くんも影浦くんでグロッキーになっていた。これが私達の、吐瀉物に塗れた出会いである。 よく海外ドラマなんかで見るグループワークは同じ体験をした人々(薬物中毒だとか大事な人を亡くしたとか)を集めてする代物だけど、影浦くんはつまり私にとっての同族ということらしい。少なくとも、カウンセラーの先生はそう思っているんだとか。 「…………んだよ」 影浦くんは、瞬時に私の視線に気がつく。彼はいつもそうだ。私が彼の真後ろに立った時も、若干ビビりながら「テメーはお化けか」と振り返って文句を垂れていた。ちなみに言っておくけど、私が彼の真後ろに立っていたのは驚かそうだとか思ったのではなくて、前からうるさそうな集団が来たのが嫌で、彼を壁にしただけだ。 そんなこともあったな、と思いながら、私は彼の質問に首を横に振って、ぼうっと前を見つめた。私と彼の、どこが似ているんだろう。だって彼はこんなにも堂々としている。足を軽く組んで、デカい画面に映っている試合の模様を、じっと見つめていた。私はこんなにも、ひとつ前の席でひそひそと話している子達が気になって仕方が無いのに。隣に座っている影浦くんが、それに怒らないか気になって仕方が無いのに。 影浦くんは先生に言われた事を気にしているのか、わざわざ私の隣の席に座ることが多い。影浦隊の人達のところに行けばいいのに、と思うけど、彼はそれを見透かしたように「んな仲良しこよしな訳じゃねえよ」と言った。影浦隊は隊員同士の仲が良いと専らの評判なんだけど、それを言ったら怒られそうだから私は黙って首を縦に振る。 私は未だかつて、一度たりとも影浦くんと喋ったことが無い。言葉は怖い。取り消せないし、放った言葉はまるでリトマス紙みたいに顔色を動かす。その揺れ幅を、私の過敏な頭は全部見透かしてしまうのだ。嫌悪も、好意も、全部全部。私はそれが嫌でたまらない。あと普通に、他人に暴力を奮う人は怖い。それそのものというより、それが出来てしまうという事実が、他者からどう思われてもいいような行動をできる人のことが、嫌だ。だから影浦くんのことは基本的に嫌いだ。嫌い。だから私はそれが彼に届くように嫌いですよう、と念じてみるけど、もう影浦くんはこっちを見なかった。だから私も安心して、画面の方に顔を向けた。でも全然、前の子達に気が逸れてしまって集中出来なかった。 「あ、カゲと仲良くしてくれてるやつ!」 なんかそういう商品名みたいだ。 「お、カゲのお化け」 お化けて。生きてるよ。 「君、カゲの友達……の子だよね」 …………普通すぎて言うことがない。強いて言うのなら友達では無い。 影浦くんとセットのように扱われはじめると、自然と私は影浦くんのお友達に声をかけられることが多くなった。影浦隊のひとから、彼と仲のいい他の隊のひとまで。みんなが、私にも構ってくる。まるで影浦くんにするみたいに。 全員気のいい人たちで、全員優しいからすごい。だって、私にだって、こんなにも優しい。何も言わない私を見ても、無理に喋らせようとはしないし、怒らない。パニックになったら私の背中をさすってくれるし、外に連れ出してくれるような人達。影浦くんは、そんな優しい人達の中心にいて、私をその持ち前のSEで見つけると、手招きするのだ。ほら、今も、こうやって。 ─────どうして? 私は足を止める。影浦くんの周りにいる人達は、突然足を止めた私を不思議そうな顔で見て、でも影浦くんだけは、目を細めていた。それが答えだった。 私は、本当は、最初から彼が憎かったのだ。ずるいと思った。どうしてお前だけ、と思った。 だって私は、ちゃんとしてるのに。暴力だって奮ったことがなくて、まともに生きようとしているのに、なんで好き勝手やってるお前が、そんなふうに。 私はろくに話せない。私は友達がいない。私は役立たず。影浦くんとは、全然違う。影浦くんより、救いようがない。 私は影浦くんの所に行かなかった。 その日から、私は影浦くんと会わないことに全ての神経を費やした。影浦くんのお友達も含めて。すると今までよりも息がしやすくなって、つまり私にとって彼等はストレスだったという事が分かって、私は笑った。別に嫌だったわけじゃない。私という性質が、人間関係を構築するのに向いてないだけで。私だって本当は、誰かと一緒にいたい。でも、それをすると今度は心が蝕まれていく。どっちにしろ駄目になるなら、まだ被害の少ない方がマシだ。 先生が、通院を進めてきた。私はずっと嫌だと拒んでいたけど、ただ一つの条件を付けて、行くことに決めた。 影浦くんと一緒なら、いいです。 不可能に近いそのお願いを、先生はごくごく普通に叶えてくれて、某日、真っ黒なダウンジャケットに身を包んだ影浦くんが病院の前で待っていた。 「遅せぇよ」 私は頭を縦に振って、彼を伴って中に入る。私はたどたどしく初診であること、予約はしていることを受付に告げて、なんとか最初のミッションは終わった。戻ると影浦くんは待合の椅子にどっかりと腰掛けていて、まるで常連客ですと言わんばかりの態度だった。邪魔になるでしょ、と言う意味で彼の膝を叩けば、舌打ちひとつで足が縮こまる。最初からそうしたらいいのに。 「お前、喋れるんじゃねえか」 受付で、喋ってたろ。 そう言う影浦くんは、ごくごく普通の態度で。ああ、嫌だな、と思った。その、なんてことのない態度が。普通のことだとでも言わんばかりの態度が。 でも彼と話をするなら、私はこの場所が良いと思っていて、だから私は口を開く。 「か、かげ、うら、くん、」 そう言えば、彼は私の方を向いて、それからやっぱり、少し驚いたような顔をする。皆、その目をする。私が上手く喋れないと分かると、同じような顔を、する。 「わ、わた、わたし、は、かげ、かげう、らくんが、う、うら、やま、しい」 「うらやま、し、かっ、く、て、」 「む、むかし、ね、あの、ね、えす、えすいーかと、思った、の。わた、わたしが、へ……へ、ん、なの。それ、ある、かと思った、から」 「で、も……ちがっ、ちが、て、いわれて」 「じゃ、じゃね……これ、なんなのって、お、お、おもっ、て」 「だか、らっ、かげ、うらく、ん、が、にく、かった。おな、じとか、うそ、だし、ぼっ、ぼーりょ、ぼーりょくとか、ふるって、るくせに、と、ともだち、おっ、おーい、し、」 「ちゃ、ちゃん、と、かげうら、くんがっ、へんな、のとか……りゆ、りゆうが、あっ、あって、ちゃんと、」 しんどい。辛い。苦しい。頭の中に並んだ言葉がスムーズに出てこないのも。喋れば喋るだけ自分の駄目さ加減を認識してしまうのも。人より酸素を多く消費してしまうのも。こんなふうに生まれてきてくせに、影浦くんみたく、その分を取り戻せないことも。全部が全部、しんどくて、辛くて、苦しかった。 「ひ、」 息が上手くできなくなって、胸を手で鷲掴んでしまう。影浦くんはそれを見て、私の背中をさすってくれた。全然、それは私の発作に効いてくれなくて、でもそんなことは影浦くんのことだから、分かっているだろうと思った。 私達、人の優しさとか、そういうの全部、ちゃんと受け取れる人間だったら良かったのにね。でも駄目なんだよ。器の方が壊れてるから、欠けてるから、全部落ちていっちゃうの。全部、取れないの。悲しいな。 「ちゃんと喋れよ」 影浦くんは、無駄だと分かっているくせに、私の背中を擦りながらそう言った。 「聞いてやるから、お前はちゃんと、最後まで喋れ」 「……ひ、ど」 私が漏らした言葉を聞くと、影浦くんは鼻で笑った。 「言わねえと、何もわかんねえんだよ」 「え、えす、いーある、くせに」 「偉そうに言いやがって」 彼が皮肉げに笑ったので、私も笑った。もう何年もずっと、こうしているみたいだと思った。 「あの、ね、っげ、うら、くん」 「……おう」 「わ、たし。こわっ、かった。びょ、びょ、きって、いわれ、たら。それ、いや、で、ここ、こられ、なかった」 でもね、影浦くん。 「かげ、ら、くんが、いたら、も、いい、かな、て、なった、の」 「なんでだよ」 「あき、ら、め、がつく、から」 「…………」 「わ、たし、かげ、うら、くん、みた、いに、なり……たか、った、な……」 影浦くんになれるなら、人に何を言われても構わないだろうなと思った。影浦くんになれるなら、暴力を奮ったってなんとも思わないだろうなと思った。影浦くんになれるなら、こんな自分のことを許してあげられるような気がした。 本当に、そんな気がしたのだ。 「で、も、もう、む、むり、だね」 影浦くんは、そんなことない、とも、無理じゃない、とも言わなかった。そのことに私は酷く安堵して、良かった、と思った。何が、と聞かれると困ってしまうのだけど、ただただ、心の底から良かった、と思った。 「あの、ね、いっこ、しし、しつもん、あって」 「……一個だけな」 ひどい、と思ったら笑えてきて、私は笑いを噛み殺しながら、彼にこう聞いた。 「きょ、きょう、なん、で、来た、の?」 影浦くんは、私の目を見た。その瞳は、静かで、彼の気性に反して、とても凪いでいるように見えた。 「お前が、俺と同じなら良いと思った」 え、という声が、私から零れて、でも彼はなんて事ないように続けた。 「でも、お前は俺と違う」 彼は言った。 「だから、もういい」 もういい、なんて突き放した言い方をする癖に、その声色があんまりにも優しくて、寂しくて、私は、少しだけ泣いてしまった。誰かこのひとを幸せにしてあげてくださいと、私は強く思った。お願いだから。誰か、お願いだから。そう思って、私は彼の手を両手で握って、また泣いた。 「お前は、俺みたいにはなれねーよ。死んでもなれねえ」 影浦くんは、それを見て、笑っているようだった。