よく、人生は物語/舞台に例えられる。人には人の人生があり、物語/舞台があるのだと。わたしはそれを否定しない。否定はしないが、そのすべてが面白いかと言われると、首をかしげてしまう。だって、消費するなら、見るに堪えるものがいいに決まっている。格好がいい主人公に、物分かりのいいヒロイン、素敵な爆発と、ほろりと泣ける脚本に、どこの誰かも分からない人間が、つらつらと流れるエンドロール。わたしは、全部が欲しかったけど、残念ながら、わたしの物語/舞台は平坦にしか成り得ない。 わたしの人生というものは至って平凡なものである。片親ではあるけれども無償の愛を知っているし、小学校中学校高校大学となんとなく進学し現在に至る。富豪ではないが、貧乏を経験したこともない。家には屋根があり、お風呂にも入れた。これを幸福と呼ばずしてなんと呼ぶのか。わたしは知らない。 なので、骨折なんていう大怪我も人生で一度もしたことがなかった。

「ねえ、バージンって骨折の前につけるべきだと思う? 後につけるべきだと思う?」 思わず頬杖を付きそうになって、今の腕の惨状を再認識する。代わりに背もたれに体を預ければ、ぎしりと不安定な音が出た。浅桐はわたしの質問に答えない。うるせえ、という返答は答えではないから。わたしはそんなの認めませんよ。

ある夜の日、屋上で、わたしは浅桐のトラップに見事なまでに引っかかってすっ転んだ。転んだだけならまだ良かったけれど、そこから階段を転がり落ちたわたしを彼は阿呆と呼ぶ。呼ぶな。確かに階段を転がり落ちてしまったのはわたしが愚図なだけで浅桐のせいではない。せいではないが、浅桐のトラップがなければわたしが愚図を発揮することも無かったのだ。そんなわけで骨折。バージン骨折あるいは骨折バージンを奪われてしまったわたしの責任を取る事になった浅桐は、わたしの世話を一任されてしまった。とは言っても彼のやることと言えば、パソコンで文書を打ち込むぐらいのものだ。それと多少の付き添い。利き手が使えない生活は不便だが、まあそう悲観するほどでもない。寝る時に少々苦労するぐらいで。 浅桐は驚くほど静かに作業をしているので、わたしは眉間に皺を寄せた彼を見ながら、なんとなくベットで横になる。やることもないから、先輩に借りた恋愛漫画をパラパラと捲った。一話の終わりでおとこのことおんなのこがキスをしていた。正確に言うと、おとこのこがおんなのこに迫っている。 「ねえ浅桐、同意のないキスって暴力だと思わない?」 「ああ!? さっきからいちいちうるせえ!創作にお前の感情を持ち込むな!」 「多様性の話だよ。同意のないキスが暴力じゃなくてもいいけど、暴力である作品もあってもいいんじゃないかな」 キレながらわたしの疑問を拾うあたり、まあ浅桐らしいことだ。この手の話には乗ってくれることが多い。存外親しみやすいと思うのだけれど、周囲の人間は少し困った顔をする。 「まあ、数は少ないだろうな」 「だよね? わたし、そういうのが見たいな」 「またお得意の逆張りかよ。だったらお前が書けばいいだろうが」 「…………わたしが書いたって、誰も読まないよ。ねえ、浅桐なら書いてくれる?」 「生憎と口付け程度で解ける呪いは信じないたちでね。呪いってのはかけるものじゃなきゃ意味がねえ」 流されたな、と苦笑しながら会話を続ける。少女漫画は昔からわたしの性に合わなかった。恋愛が嫌いというわけではないけれど、主役のふたりが付き合い出してしまうとどうにも興味が持てなくなる。過程が好きなのだろうか。 「じゃあ、白雪姫は呪いがかけられたまま?」 「ああそうだ」 「でも、白雪姫は目が覚めたでしょう。王子様の口付けで。わたしなりに言えば、同意のない、暴力のキスで」 「それこそ愛の力だろ。呪いが解けていないのに、王子のキスで目が覚めた! わざとらしいぐらいの奇跡ってわけだ!ヒヒッ」 「うわあ、性格悪……」 口では浅桐を糾弾するけど、こころのなかではそうであってほしいと思っているわたしがいた。だってわたしも怨嗟を持っているから。呪ってやりたいひとがいるから。一生かけても消えない傷を、残してやりたいひとがいるから。 「何笑ってんだ」 「……おもいだしわらい」 わたしは目を閉じる。今度こそほんとうに寝ようと思って。怨嗟は今日も消えない。

わたしの人生というものは至って平凡なものである。 (くるおしいほど、ぬるい地獄に足をつける) 片親ではあるけれども無償の愛を知っているし、 (死に至るには足りない苦痛が体を這う) 小学校中学校高校大学となんとなく進学し現在に至る。 (わたしの地獄は、あまりにも平凡過ぎた) 富豪ではないが、貧乏を経験したこともない。 (わたしは何者にもなれないことを悟り) 家には屋根があり、お風呂にも入れた。 (観客席から、浅瀬から、舞台を見やる) これを幸福と呼ばずしてなんと呼ぶのか。わたしは知らない。 (わたしはこれを、怨嗟と呼んだ)

浅桐真大という人間は、わたしにどこまでも類似していた。類似している、という言葉を聞けば彼がどれくらいの屈辱を受けるかということが分かるぐらい、わたしたちは類似している。 かみさまを信じないわたしの唯一の戒律は、この世は舞台であるということだけだった。そしてもし、人を救わないかみさまがいてもいいなら、わたしのかみさまは寺山修司だった。この世を舞台に落とし込もうとしたひと。その全てが脚色で、ほんとうだったひと。去りゆくものはみんな嘘で、明日来る鬼だけが本当だと彼は書いて、わたしはそれをずっと信じている。 だから、浅桐が、あの日、あの夜、屋上でこんなつまらない世界のことを舞台だと言ってくれたとき、わたしは泣きそうだった。運命だと思った。魂の双子だと思った。わたしたちは、同じ肉塊から生れ出づる生き物なのだと思った。 彼は問うた。わたしは答えた。分かると、ただそのひとことだけでわたしは十分だった。わたしはそれを知っている。それだけを信じて生きてきたのだから。他に何も持っていないのだから。 彼は、それを否定した。分かったふりだと、その一言で片付けた。わたしの数十年間を、たった数秒で切り捨てた。わたしは、絞り出すようにどうして、という言葉が出る前にすべてを悟る。 とどのつまり──────────わたしと彼は、同じなんかじゃなかった。浅桐真大は、本物なのだ。真作なのだ。彼の持つ天才という称号はどこまでも輝かしく、また光っていた。高みにいた。わたしの持つ、天才という呪いの言葉などとは同じではなかったのだ。わたしはいつだって、他人を恨んだ。わたしのこころを傷つける人間を、地を這うようにして恨み続けてきた。怒りを忘れても、怨嗟は忘れなどしなかった。彼が高みからのぞむ有象無象を這い回るのが、わたしだった。 浅桐真大が真作なら、天国かやは贋作である。それがわたしの出した結論だ。 許せなかった。お前がいるせいで、わたしは贋作になってしまったのだと理解した瞬間、かつてないほどの怨嗟がこころのなかで巣食うのを感じた。ゆるさない。ゆるさない。死んでもお前をゆるさない。お前の存在が、わたしの存在意義を殺してしまった。 だからわたしは、彼の仕掛けたトラップに引っかかることにした。わざと階段から転げ落ちた。彼の責任になれば良いと思った。体は痛んだけれど、なによりもこころが痛かった。涙が出るのは、悲しさではなくて許容できないものへの怒りゆえだということを、わたしは随分前から知っている。骨を折ったのはたまたまだ。それこそ本当に、わたしが愚図だっただけ。脂汗をかいて呻くわたしを見ても、彼の顔はひどく冷静で、予想していたことなのにそれすらも恨んだ。生憎と死ぬ勇気は持ち合わせていないが、情動だけは持ち合わせている。だから本当は、あの瞬間。自分が転げ落ちるのではなくて。 ──────────お前のことを突き落としてやろうと思っただなんて言ったら、どんな顔をするだろうか。

そんなことはまあ、言わないけれど。

「……浅桐くーん」 暗闇の中で彼の名前を呼んでも、当然返事は返ってこない。寝起きのぼやぼやとした頭で時計を見ると深夜を回っている。変な時間に寝てしまったことを悟り、数分、何の模様もない天井を見てしまう。耳を澄ませば、かすかに金属音が聞こえてきて苦笑した。多分、風通しのいい頭ならこの音すら憎んでしまうだろうけど、なにぶん今は眠い。上手く頭がはたらかないから、怨嗟も麻痺してしまう。布団にくるまれていた体は火照っていて、夜風に当たりに行こうと床に素足を付ければ、ひんやりとした心地がした。 階段を登り、屋上を目指す。トラップは一切合切撤去されているから、少し前に見たよりも簡素で、すこしわるいことをしただろうかと、今だけしか思わないことを思ったりなんかする。扉が微かに空いているのか、ここでも十分に空気は冷ややかだった。わたしは、少し迷った。この踊り場だけでも十分涼しいし、月あかりもあるから暗くない。そしてなにより、わたしはこういう隅っこが大好きなのだ。なにも浅桐の生産性のある活動を邪魔するまでもないだろう。わたしは踊り場の隅、扉の裏に背中を預けて、目を閉じる。鼻歌をうたう。 「ふーんふーんふーん……」 星なんてここからは見えないのに、きらきら星を口ずさむわたしの馬鹿らしいこと! そうして微睡んでいると、突然後ろの扉がなくなった。わたしの背中は勢いよくその支えを失って、コンクリートに頭を強打。なんだか最近こんなことばっかりで困る。 「……浅桐、扉裏に人がいる可能性を考えるべきでは?」 「うるせえ愚図。さっさと入ってこないお前が悪い」 コンクリートに寝転んだわたしの視界には、胡乱気な顔をした浅桐と、満天の星空があった。あまりにも出来すぎている。かみさまは、浅桐を選んだのだと納得せざるを得ない画角。こんなのわらうしかない。わはは。 「おら、さっさと起きろ」 浅桐はこんなわたしにも律儀に手を伸ばすから腹が立つ。やめてくれよ。わたしは今、出来の良すぎる舞台を見てるんだ。お前の作った世界を見てるんだよ。ペち、と弱い音を立てて浅桐の手を払う。払うというよりも叩くと言った方が正しいかもしれないけれど。 「浸ってるんだよ、邪魔すんな」 「オレの邪魔してんだよ」 「またげまたげ」 舌打ちをした浅桐は、本当にわたしをまたいでせかせかと動いている。わたしも浸り飽きたので、キョンシーの如く直角に起き上がって。体が縮んでいて、伸ばすと唸り声が漏れた。 「なにしてんの?」 「天才のオレを理解しようなんざ百万年早い」 「ふーん。で、なにしてんの?」 「話聞いてんのかお前」 浅桐は工具を手で弄びながら、ベラベラと専門用語の濁流をわたしに浴びせ続ける。わたしは頷きながらも、欠片も理解できないから右から左へ流してしまう。これは彼が天才だから理解できないのか、それとも工業に詳しければ理解できるのだろうか。それが分からないことが唯一の救いだった。 「それができるとどーなんの?」 「最高になる」 分かりやすくて困る。わたしはわらった。

眠気は思考をゆるやかにする。怨嗟は一時的になりをひそめていた。だから、浅桐を見ては、わたしが本当に天才だったのならどれだけ良かったろうとそんなことばかりを考える。 「わたし、昔、文芸部だったんだよね」 「あのクソみてーにジメジメしたところか」 なんの恨みがあるんだよ、と思ったけれど省略。わたしの言えたことではない。恨みはどこにだって転がっているものだから。 「そ。ジメジメしたところでジメジメした奴らが文章を書くの。そんで、投票で選ばれたひとたちが冊子に載る。わたしは一度だって載らなかったな」 あれはまあ、いっそ見事なくらいだった。三年間在籍して、一度たりとも載らなかったのだから。みんなわたしのことを嫌ってるのかと思ったぐらい。実際はわたしも含めみんなジメジメしてるから、嫌うほどの交流すら無かったけれど。 「で? そのクソみたいな話にオチはあるんだろうな」 「わたしが天才だから、みんな理解できないんだと思った」 わたしはてっきり、あの妙な笑い方を浅桐がしてくれるものだと構えていたけれど(むしろ期待していたけれど)、そんなことはなかった。ただ、ものすごく奇妙な顔をしている。なんとも形容しがたい顔をして、少なくともわらっていないから、わたしは困って、口を噤んでしまう。 「で、続きは」 「……ああ、いや、それだけだよ。本当に。わたしはわたしの話が一番面白いと今でも思ってるし、事実そうだと思う。でも、感想欄にはよく分からなかった、っていつも書かれるから、誰にも理解できないんだと思った。きっと理解されないわたしは、天才なんだと思った」 わたしにとって、天才とは呪いの称号でしかない。選ばれなかったわたしを表すたった二文字の理由。わたしを選ばれなかった有象無象に対する怨嗟が、天才という言葉だった。それだけのことだ。 浅桐はそれまでの態度とは打って変わって、ふん、と偉そうに鼻を鳴らすだけで、わたしは少しホッとする。この自分の気弱さすらもわたしは憎かった。高いところを歩く勇気さえあれば、わたしは本物になれたのだろうか。 「天才は成るもんじゃねえよ」 「分かってる、分かってるけどさあ……」 それじゃあわたしが救われない。誰にも選ばなれなかったわたしを、わたしが選んであげなきゃいけない。この世から、舞台から追い出されてしまう前に。 「浅桐にはわかんないよ」 「オレが理解できないんじゃねえ。お前がオレを理解できないだけだ」 うわ残酷。残酷すぎてわらってしまうし、なんだか涙も出てきたし、わたしの情緒はもうめちゃくちゃだ。やっぱり夜は駄目ですね。夜にラブレターを書くと後悔するというけれど、その気持ちが少しわかった。ラブレターなんてもん、書く予定は一生無いが。急に花粉症が発症してしまった人の如く、目を擦っては鼻をすする。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。 「眠! 寝ていいか?」 「さっさと寝ろ」