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とかく私は虚弱だった。持病なんてものは無いが、最早持病と言っていいほど風邪を引き、立てば目眩座れば眩んで数歩歩けばまた目眩、という具合である。酷く度し難い。 「うっ…………」 地球温暖化とかそういうレベルを超えて、最近の夏は恐ろしく暑い。ベンチから立ち上がった瞬間、血の気が下がる感覚と暑さにノックダウンした私は、ベンチに逆戻りして横になる。にしても、不動峰のジャージは黒いわけだけど、どうして皆平気なんだろう?黒がどれだけ光を吸収するのか、知らないのか? 「おい、大丈夫かよ」 「当社比大丈夫……」 「お前の基準は基本あてにならねえんだよなあ……」 とりあえず水飲め水、と粗雑ながらも正しいことを言ってきた神尾からペットボトルを貰って、大人しく飲む。 「………まだいたんだ」 そこに、二つ目の声が降ってきた。伊武だ。ただでさえ険しい顔の彼は、逆光でさらに怖いことになっている。 「何でおんなじこと繰り返すかなあどうせこうなるって分かってるのにわざわざ外に出て他人に迷惑かけて意味分かんないんだけど」 「おい、言い方!」 「神尾、声響くから止めて……」 「お、俺かよ……」 神尾には本当に申し訳ないけど、伊武を止める声の方が私にはキツい。血が流れてバクバクする感じが、脳にも伝わってきて吐きそうだ。そんな私を見て、伊武はフン、と鼻を鳴らした。
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伊武はなんというか……ライトさに欠けるキャラクターではあるので、友人が多い方では無い。それに方々から恨みを買うことも多く、私は何度も「よく伊武と仲良くできるよな」と呆れたような、苦笑混じりの言葉を頂戴した。これは伊武と一番仲の良い神尾にも言われたことで、まあ彼の場合はシンプルに、悪気なくそう思っているようだった。そんなことを言えば、私も神尾に対して同じことを思っているのだけれど、それはさておくとして。 「おはよう!」 「おはよー」 「今日の英語の宿題やった?」 「数学の授業中になんとかする」 教室に入った瞬間から、クラスの子達に声を沢山かけられて、私は一個ずつそれに返事をしていく。そうしておしゃべりに花を咲かせていると、後ろから「……邪魔なんだけど」という声がした。伊武だった。 「あ、伊武おはよう」 「おはよう。…………いやだから、邪魔なんだけど。そこに立たれたら後から入ってくるやつが困るだろ話すにしても廊下で話せよどうして考えられないのかな他人のことが……」 「ごめんごめん。次から気をつけるよ」 私がそう言って手を振れば、彼は「何?そんなふうに追い払わなくてももう行くよ」と眉をひそめて自分の席に戻る。私は別に彼を追い払うつもりで手を振ったのではなく、もう伊武が席に戻るのだと思ってじゃあね!と手を振ったのだけれど。後で訂正しとかないとなー、と脳内のメモに書き込んでいれば、同級生女子の不満気な「……感じ悪。言い方あるだろもっと」と声が聞こえてきて苦笑した。それはまあ、概ね私も同意する。伊武の物言いは、この学級という最小の社会においては不利になるだろう。でもその不利さに困っているならまだしも、困っていないようなので、私は特に強制したりだとか、注意する必要も感じないのだった。それはまあ、彼が困ったとしても別に助けないということでもあるのだが。
暑さ寒さに弱い私だけれど、エアコンの空調にも酷く弱くて困ってしまう。先の授業中、理科室のエアコンはガンガンにかかっていて、私の頭は眠気とは違う感覚に支配されてぼんやりとしていた。くしゃみも寒気も止まらないし、廊下に出た時の蒸し暑さが二倍ぐらいに襲いかかってきて、頭も痛くなってきた。保健室に向かうべきだろうか、と思うけれど、具体的な病名のない私は養護教諭や教師から落伍者として見られている雰囲気があり、それもはばかられる。 「………生きてる?」 「生きてる生きてる」 廊下で立ってはいるものの足が動かなくなってしまった私を不審がったのか、伊武がやって来てそんなことを言った。確かに、理解の教科書やらノートを持って意味もなく立ちすくんでいる女を見たらそう思うかもしれない、と私は苦笑した。 「さっきの理科室、エアコン凄くなかった?」 「確かにいつもより強かったけど。何、寒かったの?上着持ってきたら良かっただろ。どうせ温度上げてくれって言っても聞き入れてもらえないんだし」 「あーあー、正論は聞きたくありませーん」 口は反射で回るものの、頭の巡りが悪いし、不思議とバクバクしてきて、私はますます動けなくなる。そんな私の様子に、感じ入るものでもあったのだろうか。顔を顰めた伊武は「ジャージ貸そうか。あれなら長袖だし。半袖よりマシでしょ」と呟いた。 「あー、いや、大丈夫。あれ目立つから嫌なんだよね。気持ちだけ受け取っておく」 「…………あ、そう。後悔しないでよね」 そんな捨て台詞みたいな、と思った私の腕から、伊武は当たり前のように教科書やらノートやらを取り上げて教室に向かうので、私は一拍遅れて彼の背中に「ありがとー!」と叫ぶ。うるさい、と言わんばかりに振り向いた彼がこちらを睨んできたけど、彼はそれ以上何を言うでもなく、そのまま教室に戻っていってしまった。 けれどそんな伊武の善意に私は応えられなかった。体とは、いやこの場合は心だろうか?どちらにせよ不思議なもので、私の足はぴったりと廊下に張り付いたまま動けなくなって、結局次の授業を私は結果としてサボってしまう羽目になったのだった。
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お前って案外図太いよな、というのは神尾の台詞で、彼は昨日起こった出来事を指して私のことをそう判断したようだった。 と言っても別に大したことでは無い。我らが橘先輩に『放課後みんなでラーメン屋に行くんだがお前も来ないか?』と言われて丁寧に断った後、ラーメン屋で一人ラーメンをすすっているところを皆に見られただけだ。別に私はラーメンを食べただけだし、橘先輩も『おお、奇遇だな。ここにはよく来るのか?』と言って返事を返せばその後こっちに話題を振ってくることはなかった。が、後で同学年の部員達からお前なんてことしたんだこの馬鹿、みたいなメッセージが飛びまくってきて、それが納得いかない。 「お前!昨日ラーメン屋に行くつもりだったらなんで来なかったんだよ!マジで気まずかったんだからなこっちは!」 「なんでって……一人で行きたかったから」 「じゃあラーメン屋は避けろよせめて!鉢合わせるかもって思わねえの!?」 「だって……ラーメン食べたい気分だったから。お母さん飲み会で、夕飯無い日だったし」 そこで、先の「……お前って案外図太いよな」という言葉が出た。より正確に言うならばその後に「体は虚弱なのに……」と付いたが、大体似たようなものだ。実際神尾の言うことは正しく、ラーメンを食べた後に私は胃もたれした。でも後悔はしていない。 「別にそんぐらい、橘先輩は気にしないでしょ」 「当たり前だろ!橘さんの器はそんな小さくねえよ!」 「分かってるならそんなに怒らないで……声が響く……頭痛くなってきた……」 そう言って神尾を手で追い払えば、神尾は子供っぽく舌を出しながら「お大事にな!」と吐き捨て自分の席に戻っていった。なんなんだ。 「…………君さあ」 「うわっ、びっくりした」 さて次の授業の教科書でも出すか、と油断していたら後ろから突然伊武に声をかけられて、私の体はびくりと跳ねた。すると伊武は露骨に不機嫌そうな顔になり、「なにその反応まるで俺が話しかけるのが想定外みたいな言い方そんなに俺が君に話しかけるのって変なのかなあ酷いよなあ」とブツブツと言い出す。しかし私が何も言わず伊武が話終わるのをじっと眺めて待っていれば、彼は珍しくたじろいだ様子で「……な、何」と言った。 「いや、そういや伊武って私と話す時だけなんか早口だよね、とふと思って。昨日のラーメン屋でも神尾となんか揉めてたけど、その時は普通の速度だったし」 「っはあ!?」 私はなんの気無しに言ったけれど、伊武がかつて聞いた事のないような大きな声を出したので、私だけではなく教室にいたクラスメイトまでびっくりして、伊武を見た。 伊武本人も何故だかびっくりしていたようだったけど、じわじわと肩を震わせると教室から出ていってしまうので、私はポカンとした。のろのろと時が流れ始めた教室で、クラスの女の子達が私に駆け寄ってくる。 「びっくりした!大丈夫!?なんかされてない!?」 「いや、全然、何も……」 「あいつがあんなでかい声出すとこ初めて見たんだけど……」 「ね。ビビったわ」 そんなことを話しているうちにチャイムが鳴って、同級生達は席に着く。けれど私は少し考えて、教室を出て行った。廊下で次の時間の担当の先生とすれ違ったけど、彼は何も言わない。私は珍しく、自分の『こういう』扱いに感謝した。
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「伊武、そんなとこに居たら熱中症になるよ」 「………………君の方こそ顔真っ赤なんだけど」 こういう時に、すぐ見つけられるほど、私は伊武のことをよく知らない。いくつかの使っていない教室を巡ってみたけれど、彼はそこにおらず、結局居たのは部室だった。 「暑さ凄いんだし、ここもクーラー付けてくれたらいいのにね」 そう言いながら、私は買ってきたペットボトルの水を彼に渡す。彼はおずおずとそれを取って、眉をひそめた。 「……蓋、空いてるんだけど」 「ここに来るまでに耐えられなくて飲んじゃった。えへ」 「……じゃあこれ飲めない」 「伊武、潔癖症だっけ?」 「そういう意味じゃなくて、君が嫌なんじゃないかって」 「間接キス気にしてる?そんなん言ったら、人間って日頃どれだけ空気中の菌とキスしてると思うの。潔癖じゃないなら飲んで」 「最ッ悪……………」 そう言いながらも伊武は水を飲んでくれて、ほんの少しホッとする。熱中症はシャレにならないので。 「…………早く外に出なよ。君がぶっ倒れたらこっちが怒られる。部室なら尚更だ」 「それはそうだけど。伊武も一緒に行こ?」 「……嫌だ」 私は隅っこに座り込む伊武の横に座り込んだ。多分立ち上がる時に立ちくらみするんだろうな、と予測できるのは経験値が違うからだ。 「伊武、ごめんね。そんな怒ると思ってなくて。いや、思ってようが思ってまいがごめんって感じだけど」 「……………別に。実際そうだったし。早口だったの」 「聞き取れてないわけじゃないから、別に今のままでいいよ、私。ただ伊武に嫌われてるんじゃないかって思ってただけ」 「俺が?君を?なんで?」 「な、なんでって言われても。当たり強いから」 「……………とは、そうしてるだろ」 「え?」 「……他の部員とはあんな感じだろ、君」 そうか?と思うものの、言いたい事のニュアンスは分かったので、「そうでもないよ。気やすさは全然変わらないけど。いや、流石に橘先輩とかには変わるけどさあ」と言う。すると伊武はまた顔を顰めて「あ、そう……」と言った。 「…………ねえ、本当に出ない?ここにいるとサウナみたいだよ。サボるならサボるで、図書室とか静かな場所にしようよ」 「舐めすぎでしょ」 そう言いながら伊武が立ち上がってくれたので、私も安心して立ち上がる。あ、ほらほら目眩が来たけど、分かっていたから全然、全然……あれ。 「あ?」 気がつくと私の視界は横になっていて、頬に熱いコンクリートが当たっていた。暑いのにどこまでもゾッとする感覚は、間違いなく血の気が引いていく感覚だ。吐き気とくらみが一気に来て、体がガタガタと震えた。 視界の端で、伊武が呆然としているのが見えて、そっちの方に私はマズいな、とぼんやりと思う。こういうのって、本人より周囲の方がトラウマになりやすかったりするし。ピースでもした方がいい?いやでもなー。そんなことを考えているうちに私の意識は、まるでテレビの電源を切るみたいに、ぶちりと落ちてしまったのだった。
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