何処にも行けない女がいた。女はいつも窓の外から空を眺めるのが日課だった。そしてそんな窓の外からいつの日か、無邪気な少年が顔を出すようになった。 「あなた、神様?」 「……………なんでそう思ったの?」 「神様はいつも私たちの上にいると教わったから」 「やだな、それだったら何もボクだけじゃない。窓も、空も、鳥も、雲も、雨も、皆そうじゃないか」 「ええ、そうよ。皆、神様。誰かのね」 女がそう言うと、少年は黙りこくった。そして溜息を吐いて、「君は何も知らないんだね」と言った。その通りだったので、女は反論せず空を眺めた。少年のいる、空を。
少年はそれから時たま女に色んな話を聞かせた。特に興味深かったのは、星の話だ。女はちっとも動けないものだから、星の動きで日々を判断していた。どれだけの日数が経ったのか、今は一年後なのか半年後なのか。 「あの星にも皆名前があるのね」 「うん。どこかの誰かが付けたものだけれど」 「なら、会ってみたい」 「それはどうかな。もう死んでしまっているよ」 あっけらかんと言った少年に、女は少しだけ目を瞬かせて、それから笑う。表情に乏しい女だったので、少年はそれを珍しく思った。 「どうしたのさ、急に」 「いえ……でも、そういうことって普通、言わないものよ」 女はひとしきりくすくすと笑ったあと、「なら貴方が決めて」と言った。少年の方を指さして。 「そうしたら私、毎日会えるわ」 「わあ……なんてそれは、賢い考えなんだろうね?」 女は意趣返しとばかりに少年の膝小僧をぺちりと叩いた。実に力のない攻撃だった。
少年の演奏に合わせて、女が歌を口ずさむことがあった。それはいつも即興で、それなりに詩を嗜んできた少年がいいな、と思うのもあれば、シンプルにもう黙ってくれというものもあった。 「君さ、その詩、どこかにメモしてないの?即興?」 「ええ。適当に」 「どうりで酷い時はずっと生肉の繊維の話をしてると思った!まあそれはともかく、書き留めた方がいいんじゃないかな。あれだったら、ボクが知り合いに紹介して────」 そこまで言った少年は、女の顔を見て口を閉ざした。 「ありがとう。でも、大したものじゃないから」 女は静かにそう言った。
女に足が出来た。 両親がわざわざフォンテーヌまで行って、特殊な義足を持ってきてくれたのだ。それを使いこなすには酷く長い時間がかかったけれど、女は歩けるようになった。そしてその頃から少年は姿を見せなくなった。なんとなくそんな気はしていたので、女は気にしなかった。外に出る理由ができた、とは思ったけれど。 そうして生まれて初めて外に出て、色んなことを知った。人には人の神様がいること、星の名前には限りがあること、詩と音楽は風に乗って届くということ。 初めて一人で来たモンドの城下町には大きな像があった。それを地上から見上げた彼女は静かに「かみさま」と呟いた。神様はいつも、私たちの上にいる。
「やあ」 その夜、久しぶりに少年が顔を見せた。星の輝く夜だった。女はバックにランプを詰め込んでから、ようやく上を見上げた。 「君、モンドを出て行くんだって」 「誰に聞いたの?」 「風が教えてくれた」 「そう」 女はパンと、ノートとペンをバックに詰め込んだ。それから片手で弄べるほどのモラを。 「……どうして人は、自由であればあるほどもがくんだろう。今の君は、まるで羽をもがれた鳥みたいだ」 「自由?ベットで動けなかった私が?」 「でもボクがいた」 少年は顔をしかめていた。そこで彼女はようやく、本気で彼がそう言っているのだと気づいて、怒る気もなくなった。 彼女はバックを斜めにかけて外に出た。少年は着いてきた。向かい風が強くなって、女の髪の毛を酷く揺らす。それでも女は歩みをとめなかった。義足がギシギシと軋んだ音を立てる。 「ウェンティ」 振り返った女が、風立ちの地でそう呟く。 「私、行かないと。自分の足で、神様と星と、意味を見つけないと」 「……………そう。だったら、行けばいい」 「いままでありがとう。あなたがいたから、私は孤独じゃなかった」 「どこへなりとも行けばいい……どこにだって行ってしまえばいい……」 「愛してるよ。君も、この国も」 「もう二度と……戻ってこないで。いなくなってしまえ……飛んでいってしまえ……」 寂しいひと、女はそう思ったけど、なにも言わなかった。少年はこの10年ずっと、変わらない姿だった。義足を着けたこともあり、女はもうとっくに、彼の背丈を超えてしまった。 「さようなら。風が吹く時、私は貴方を思い出すよ」 女はもう振り返らなかった。ウェンティだって何も言わなかった。ただその日のモンドの風は、軋んだ音をずっと立てていた。まるで扉の隙間から子供が吹き込むように、ヒュウヒュウと、今にも枯れてしまいそうな、そんな音がずっと、ずっと響いていた。