その年の暮れ、胡桃に馴染み深い女が死んだ。死因は溺死。ヒルチャールに襲われ、逃げた先の川で溺れた子供を助けようとして流された。二十齢の若さだった。往生堂の人員を動員して胡桃は彼女の死体を探そうとしたが、結局何処にも見つからない。仮に見つかったとしても、酷い有様だろうと、人々は胡桃に聞こえないように話していた。見つからない方が幸せなのだろうと。 そして女の霊ですら、一度たりとも、最後まで、胡桃の前に姿を見せなかった。

「頭が痛い……」 「もう、寝すぎたからだよ。そんだけ寝たら夜も眠れないんじゃない?」 「いや、それはそれでいいけどさ」 さかしまになった胡桃の顔を見て、女は苦笑気味に笑う。ぶつからないように、横から体を起き上がらせて、立てかけておいたシャベルと弓とランプを持った。体を伸ばしながら出た外は、星が瞬いている。 「姐姐、なんか食べてかない?せっかく用意したものが───────っておーい!せめて見るだけ見てよ!?」 「いやいい」 女は笑ってそのまま夜道を歩いていく。それを胡桃は、頬を膨らませたまま見送った。

女は墓守だった。悪い人間はどこにでもいるもので、特に金持ちの墓を暴こうとする人間は時たまいる。それと、ヒルチャール達が掘り返してしまうことも。そういったことから墓を守るのが女の仕事だった。 仕事自体は基本的に夜行われるが、女は胡桃に負けず劣らずの変わり者だったので、昼間にも墓にいた。なんなら朝にもいて、一日中そこでぼんやりとしていることがあった。 往生堂に来る時は大抵、死んだ人間と一緒にいた。彼女は胡桃の言う『生と死の境界を維持する』ということにはさっぱり興味がなかったけれど、かといって馬鹿にするでもなかった。ただ単に幽霊じみたものが見えないものだから、は実感として理解できなかっただけで。 一度、胡桃が彼女に『姐姐の背後には〜……色んなものが憑いてるよぉ〜!?』と脅かしまじりで言ってみても、返ってきたのは『あっ、そうなんだ……』と少々困ったような返事だけだった。

「姐姐のそれは一周回って才能だよ。こんだけ境界線でフラフラしてる仕事をしてたら、何かしら感じてもいいはずなのに」 「いらない才能だね」 「姐姐は鈍感すぎ。このっ〜浮気者!」 「あ、今脊髄反射で喋ってる?」 「その通り!」 せいか〜い、とあはあは笑う胡桃に、女も笑った。 「でもそれで言ったら私、最近視線は感じてるんだ」 「えっ、本当に!?変質者なんじゃないのそれ!」 「話を最後まで聞いて。それで様子を見に行ったら、ヒルチャールだったの。でも人を襲うような感じでもなくて……ただじっと見つめてたんだ」 「ふうん……」 「ねえ胡桃、ヒルチャールにもお墓、作ったほうがいいかな?」 ───結局そのヒルチャール、殺しちゃったから。 そう呟く女の顔は、ランプの光に塗れて、どこまでも暖かだった。胡桃はその横顔を見ながら「姐姐の好きにしたらいいよ。お墓っていうものは、残された人のための導みたいなものだし」と言う。 「それもそうね」 そう呟いた女が結局どうしたのかを、胡桃は知らない。知らないけれど、きっとなにもしなかったんじゃないかと、今でも思っている。

「今日もヒルチャールがいたの」 「え?」 女が再びそんなことを言ったのは、それから何日かした頃だった。胡桃の濡れた髪を手慰みに触りながら、女はこんなことを言う。 「ヒルチャール。私が近寄ったら逃げていって……今思うと私を案内していたのかもしれないけれど。そしたら他にもヒルチャールがいて。皆人間の真似っ子みたいに踊っていたわ。そして逃げていった、川にね、入っていったの。ざぶ、ざぶ、ざぶって」 「………………」 「そしたらそのヒルチャール、死んでしまったわ」 「…………それで?」 「死体があれば、埋めて上げればよかったんだけど。何も残らなかったから。だから何も必要なかった。ねえ胡桃、これってとても、美しい事ね」 「…………ちょっと姐姐、変なこと考えてないよね?」 「変なって……また私が初めて会った時みたいに、死体のフリをすると思ってるの?」 女はくすくす笑ったけれど、胡桃は笑えなかった。そんな胡桃の頬に手を滑らせて、女は呟いた。 「しないよ、そんなこと。だって胡桃はあれが私だって、見破ったじゃない」 「……だってなんだか、あつかったからさ」 「変な胡桃。暖かい、じゃないんだ」 女は笑って、それが最後の夜だった。

女が死んで何年か経った後、久しぶりに胡桃は墓場を訪れた。墓守を失ったこの場所は、以前よりずっと荒れ果てていて、でもそれが正しいように胡桃には思えた。 「…………あ」 ふと、視線を感じて、そこにいたのは一匹のヒルチャールだった。ヒルチャールはじっと胡桃を見つめて、それからどこかへ去っていってしまう。胡桃は少し考えて、その背中を追った。丘を越えて、竹林を通って、その奥深くの川辺に彼らはいた。何匹かのヒルチャールは踊っていて、胡桃は昔女が言っていた話を思い出す。弔いだ、と思った。 胡桃が追いかけてきたヒルチャールが、川辺にぽつりと立っている。 「……………本当はさ、知ってたの」 不思議と、胡桃はそんなことを口走っていた。 「知ってた。知ってたんだ。だって私だってあの場にいたから。本当はあのヒルチャールは追いかけてきたんじゃない。川に飛び込もうとしてたんだ。子供はそれを襲われると勘違いして、川に落ちてしまった。姐姐が子供を助けて、私に預けて、私は次に姐姐に手を伸ばそうとした。でも手を取ってくれなかった……」 ヒルチャール達は何も言わない。踊りはまだ続いている。虫の羽音、星の光、風のさざめき。 「姐姐は本当は死んでたんだ。あの時から、最初から死んでた。結局さ、元に戻っただけなんだよね…………」 胡桃は笑った。悪戯を母親に叱られた子供のような、笑い方だった。 「…………ありがとう、姐姐。もういいの。私は、大丈夫。これでも毎日、楽しいんだよ。本当に。寂しくないっていったら嘘になるけど……でも、生々流転って言うでしょう。川は上から下へ。あるべき場所で。流れ着いた先で、きっとまた……会えるよね?」 一匹のヒルチャールは何も言わず川に足を進めた。喉の奥がじりじりと焼けるような感覚が胡桃を襲って、けれど彼女はその場から動かなかった。 ヒルチャールの体の半分が水に浸かった時、パチリとその身が弾けて、光るのを胡桃は確かに見た。その閃光を、胡桃はあの川でも見たのだ。女の体が川に沈んで、もう這い上がって来なかった時。そこが痛いぐらいに光るのを、胡桃は見た。それがただの乱反射だったのか、それともこれだったのか、胡桃にはもう、どちらでもいい。 「………………痛いよ、姐姐」 そう呟いて、胡桃はその場にくずおれた。体を土まみれにして、顔を覆って、それからずっと、動けないでいた。 ヒルチャールは踊っている。踊りの意味もしらないで。何の意味も、しらないで。