1
荒船くんはまず私に『チャーリーとチョコレート工場』を見るように言いました。話が順序だっていて分かりやすくて、画面の情報量が多いから飽きないのだと。ですから、私はその通りにしました。つまり、それは『チャーリーとチョコレート工場』を見ることに他なりません。でも私は、それを見ませんでした。その代わりに、『ファイ・クラブ』を見ました。面白い映画で、私は満足しました。そしてさもチョコレート工場に足を踏み入れたかのように荒船くんに嘘の感想を話しました。彼は何も言いませんでした。私にとってその通りにする、ということはその通りにしないということでした。 昔から、荒船くんの言うことを私は聞きませんでした。右を歩け、そこに登るな、ボーダーには入るな。私は右を歩き塀を登りボーダーに入りました。別に、彼のことが嫌いでそうしているわけではありません。反抗心なんて疲れるものも、持っていません。ただ、頭の中でずっとそうすべきだと言う考えがあるのです。荒船くんにはそうしてあげたい、と思ってしまうのです。 ちなみに、なんで嘘の感想が言えたのかと言うと、私は『チャーリーとチョコレート工場』の映画こそ見ませんでしたが、小説の方は読んでいたからです。そして、それを買ってくれたひとこそ荒船くんでした。中学生の時に彼はこれをくれました。読め、とは言われ無かったので私は読みました。面白いなと思いました。私にとって物語と映画は同義だったというのも、あるのかもしれません。 「お前は素直過ぎる」とは荒船くんの常のお小言でした。そんなことを言う割に、荒船くんは私の(彼いわく)悪癖を治そうとはしませんでした。他人だからでしょうか。そして私はその日、おじいさんがIKEAの社長を誘拐する映画を見ました。 荒船くんは、もう随分と前から私のことが好きなようでした。何となく、それが分かりました。本人にも確認したので、間違いありません。だから、私は彼のことを好きじゃないと思うようにしました。彼のことは嫌いでは無いので、これが精一杯でした。それが彼のためになると思いました。彼は呆れ返って、どうしてそんなことをするのかと言いました。私は答えられませんでした。 「おまえは、すなおすぎる」 昔、それよりもっと昔。荒船くんは私にそう言いました。すごく昔の私は荒船くんの言う通りにしていました。右を歩けと言われたら右を歩き、上に登れと言われたら上に登り、そして登ったジャングルジムのてっぺんから滑り落ちて頭を打ちました。 頭に包帯を巻いた私を見て、彼はそう言いました。すなお、の意味がまだ幼い私にはよく分かりました。私はとりあえず笑っておきました。彼は「笑うな!」と悲鳴のように叫んだので、私は眉をしかめました。大きい声は、単純に不快です。 お母さんが、後でそっと教えてくれました。荒船くんは、セキニンというものを感じているのだそうです。つまり彼にとって私はラジコンで、自分のコントローラーさばきが悪いせいでラジコンが壊れたので悲しんでいるということなのでした。 新しいラジコンを買えば良いのにと思いましたが、ラジコンなんてお誕生日にしか買えない代物ですし、私はそもそも人間です。人間の方が、よっぽど買えません。だから私は、セキニンを取り払うことにしました。コントローラーさばきではなく、そもそもコントローラーというものを存在させないようにしました。私は彼の言うことを聞かなくなりました。 にも関わらず、彼は未だに「素直過ぎる」と呆れたように呟きます。私にはそれが不思議でなりませんでした。 「そんなに素直過ぎるかな」 「じゃあ付き合うなって言ったらどうする?」 「付き合う」 「結婚するな」 「する」 「……ほら」 彼はそう言って笑います。そして私の額に未だ残る傷跡をなぞりました。その顔はどこか悲しみに満ち溢れていますが、私にはどうすることも出来ませんでした。そしてこの顔を、私はあの行ったこともないチョコレート工場で見たことがあるのを思い出しました。
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私は荒船くんのあまり好きではない(あるいは苦手な)映画監督が好きでした。例えば、園子温であるとか。私は『愛のむきだし』がいっとう好きで、とどのつまりこのタイトルの意味は性に捕らわれない精神的勃起だということを彼に話したのですが、彼は困ったような顔をして、「女子がそんなことを言うな」と言うばかりです。性に捕らわれない、という部分をきちんと聞いてくれていたのでしょうか?ともかく、このような部分は私から彼に対する愛でもなんでもなく、ただ単に相性が悪いということにほかなりませんでした。私も私で、『コンテイジョン』はあまり好きではなかったのですから、間違いないでしょう。 岩井俊二も彼の好きではない、そして私の好きである監督の一人でしたが、私は彼に無理を言って、『リップヴァンウィンクルの花嫁』を見てもらいました。なぜ見てもらいたかったかと言うと、私は彼とこれになりたいと強く思ったからです。だから、彼にこの映画を見てもらいました。 「……この、どれになりたいんだ」 「このね、二人になりたいの。この二人になれたら素敵だと思うよ」 彼は私のその発言に関して、何も言いませんでした。今考えると、きっと彼はどちらのことを言っているのか分からなかったのだと思います。そして私にとって、それは悲しいことでした。私からすれば明白であったことは、彼にとっては成分表をじっくりと見るようなことだったのです。 「お前は本当に、何でも鵜呑みにするな」 そうでしょうか。でも、荒船くんがそう言うのなら私にそれを翻すことは出来ません。主観を覆すことほど、難しいものはないと、私はよく知っています。 「鵜呑みにしないよ」 「またそうやって……」 荒船くんは笑いました。 「円盤、欲しいなら買うぞ」 「ううん、いらない」 そしてこの私の返答もまた、愛ゆえではなく、ただの事実でした。ストリーミングサービスの充実した現代において、そして私の性格からも円盤という点は重視できるものではありませんでした。 「お前はいつも欲しいものを言わないな」 「そうかな」 「お前が最後に言ったのは、チャーリーとチョコレート工場の本だよ」 「……そうだっけ」 私は彼に貰ったことこそ覚えていても、私が強請ったことはすっかり忘れていました。驚きで目を瞬かせる私に、彼は苦笑をしました。 「欲しいもの、思い浮かぶか?」 「ううん、本当に思い浮かばないよ」 嘘です。本当は、傷のない額が欲しいです。でもそれを言えば、彼がどうにかなってしまうのは、簡単に気が付きました。彼を愛している気持ちと、傷を厭う気持ちはもう何年も前から同居していましたが、私はそれを誰にも言ったことはありません。 私の返事を聞いた荒船くんが、実に可哀想なものを見るような目で私を見ているのが、私にはよく分かりました。
3
「その……不快だったら答えてもらわなくていいんだけど……荒船とは、付き合ってる?」 「ううん」 村上くんにそう聞かれて、私は首を横に振りました。村上くんは少しほっとしたような様子を見せましたが、私の視線を感じると慌てて首を横に振りました。 「あ……変な意味じゃなくて、二人の邪魔にならないなら良かったと思って」 「付き合ってないから、大丈夫だよ。村上くんは邪魔じゃないよ」 「なら良かった」 「荒船くんは私のことが好きだけど、私はそうじゃないよ」 「…………え?」 村上くんはびゃ、と体の周囲を逆立ているような素振りをして、その時丁度荒船くんが戻ってきました。 「……あっ、あっあっ、荒船」 「溺れた奴の真似か?」 「不謹慎だよ、荒船くん」 「それもそうか」 彼は私の隣に座って、それから村上くんの方を怪訝な顔をして見やりました。村上くんは、とても困った顔をしていたので、私は何かフォローをいれるべきかしらんと思いました。 「村上くん、こんど私と一緒に『ソナチネ』を見ない?」 「えらく急だな」 「いや、申し出はありがたいんだけど……」 村上くんは、もっと困った様子です。 「んな乾燥した話こいつに見せても仕方ないだろ。せめて『ファイト・クラブ』とかにしたらどうだ?」 「荒船くん、ファイト・クラブについて口にしてはいけないんだよ」 「そんなルールもあったな……」 「……あの、本当に、大丈夫だから。申し出はありがたいんだけど。一人で見るよ」 村上くんは、私に対してはいつも優しい口調です。性格からしてそうなのでしょうが、どうにもおくるみで包まれるような、緊張感を彼からはいつも感じたものでした。 そういう視線を、私は人生でずっと感じてきました。あまねくひとが、私をおくるみで包むような視線を向けました。それはこの歪な額のせいなのか、荒船くんのせいなのかは判別がつきませんでしたが、きっと両方なのだろうと私は思いました。 私の中で荒船くんはもう既に、この額の裂傷と同じようなものでした。そしてそれがどれだけ残酷なことかを、私は知っています。私は心を今この場所から引き離そうとして、南国の海を思い浮かべました。なんてことのない、穏やかな海。白い砂浜と、透き通った波。そしてそれが容易く破壊される砂糖のお城であることも、私は知っていました。 「荒船くん」 「……ん、どうした」 村上くんと話し込んでいた彼がこちらを見て、私は少し申し訳ない気持ちになりました。荒船くんではなく、村上くんの方に。 「荒船くんも、見ようよ。『ソナチネ』」 「見ない。俺は、あの映画を見ない」 彼は静かにそう言いました。
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それは、数年前のバレンタインでした。世の中はチョコレートで溢れかえって、甘い匂いが街中に漂っているようでしたが、それよりも私はこの冬の空が気になりました。曇りの湿気た天気は、私の額の傷を痛めつけるのです。私はジクジクとした頭を不快に思いながら、荒船くんの家に向かいました。私達は家族ぐるみの付き合いで、毎年この時期になると、私はクラスの女の子達に配るチョコレートを彼と一緒に作るのでした。彼がそんな興味のない催事を手伝ってくれる理由が分からないわけではありませんでした。ただ、応える義務もないのでした。 キッチンには荒船くんただ一人がいました。丁寧に、家族のものらしき少し明るい色をしたエプロンを付けていました。 彼は私に手を洗うように言いました。キッチンは彼が占領していたので、私は頷いて洗面台を借りることにしました。私の家とは違って、清潔感の保たれたそこは、どこか違和感がありました。手を洗って顔をあげた私は、正面を見て、その違和感に気が付きました。鏡がひび割れているのです。こんなに美しい場にそんな傷があることが信じられなくて、私は濡れそぼった手でその鏡をなぞります。指は、なにものにも阻害されませんでした。 ひび割れた傷は、なんてことありません、私の額の傷であったのです。 キッチンに戻ると、彼は湯煎でチョコレートを溶かしているようでした。丁寧に、丹念に。それは実に彼らしい動作でした。私はそれを横目で見遣りながら、地面に置いた学校用のカバンからハサミを取り出しました。折りたたみ用の小さい、ハサミでした。キャップを外せば、バネがその刃をつまびらかにします。私はそれを持って、荒船くんの所に行きました。荒船くんはまだ私に気がついて居ないようです。私はしばらく、何も言わず彼の後ろに立ち尽くしていました。彼の背越しには茹だった水蒸気が見えて、また額の傷が痛むように思われました。私はぼんやりと、包丁の在処を思い出そうとしましたが、ここは私の家では無いので分かりませんでした。そこでようやく、彼がこちらを振り向きました。目を瞬かせて、私の手にある鋏を見ました。彼は何も言いませんでした。駄目だ、とも構わない、とも言いませんでした。ただ、「どうした」と私に聞きました。卑怯者だと思いました。 「あの映画、何だっけ」 「……さあ」 「男の子が、チョコレート工場に行く映画」 「『チャーリーとチョコレート工場』?」 「そう、それ。私、今年の誕生日にその……本の方が欲しい。それなら、学校でも読めるから」 「……それだけか」 「うん」 そうか、と彼は言いました。私はもう一度手を洗いに行きました。切れた手で、チョコレートを触る訳には行かなかったからです。
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「荒船くん、どうしてチャーリーがガラスのエレベーターに乗るって教えてくれなかったの?」 「だから見ろって言っただろ。映画は原作小説約二本分なんだよ。チョコレート工場に行く話と、ガラスのエレベーターに乗る話……」 どうりで、彼が執拗にこの映画を勧めてきたのか、得心がいきました。私の持っている本には、チャーリーがチョコレート工場の譲渡を提案されるところまでしか描かれていなかったのです。 「何だか結局人間くさいところに落ち着いたね、この話」 「まあ、お前ならそう言うと思ったよ」 生きたお化けのようだった彼、ウィリーウォンカはただの人間になったようでした。父親からの愛を自覚したのです。なんてありふれた話なんでしょう。なんて、なんて都合のいい話なんでしょう。苛立ちすら覚えるほど。 「なんて都合のいい……」 気が付くと私は泣いていました。何故だか、涙が止まりませんでした。これが失望なのか侮蔑なのか軽蔑なのか分かりませんでした。そんな私を見て、荒船くんまで泣きそうな顔をしました。その顔を、私は昔逆光の中で確かに見た事があるのでした。 チャーリー達が乗ったガラスのエレベーターが落ちなくて良かったと、私は心の底から思いました。彼等が怖い思いをしなくて良かったと、そう思って泣きました。 「お前は素直すぎる」 彼はそう言って、何処からともなく一冊の本を出して、渡してくれました。それは私が強請ったあの本の続きに、他なりませんでした。