1

「王子、おはよう」 私がそう声をかけても、彼はこちらを見なかった。窓をぼんやりと眺めているばかりで。だから私は少し考えて、彼の方を人差し指でつつく。そうしたら彼がこっちを向いた。少しだけ驚いた顔をしていた。私は口パクでおはよう、と繰り返す。そしたら案の定、彼は耳に付けていたイヤホンを外してくれる。 「ワイヤレスにしたらいいのに」 「でもほら、ワイヤレスだと本当に繋がってるかどうか分からなくて、怖くないかな?」 「言いたいことは分かるけど、私は別に怖くない」 「なるほどね」 彼はまたイヤホンを耳につけようとして、それからまた私に向き直った。 「ごめん、聞こえてなかったんだ」 ワンテンポ遅い謝罪は彼の常だったから、私の方も「王子じゃなかったらぶっ殺してたところだったよ」と返す。 「なんだか、やけに物騒だね」 「でも本当にあったんだよ。たまたま挨拶を返して助かった話。自分の後にやってきて、挨拶しなかった人が殺されたって昔芸能人が言ってた」 「芸能人」 まるで初めてその単語を聞きましたよ、と言わんばかりの表情だった。 「タモさんとか?」 「渋いね。まあ括りとしてはそうだけど」 「また増刊号、やってくれないかな」 「分かるけど」 他愛のない話をして席につく。私の机には酷い凹凸があって、私はそれをぼんやりなぞってみる。この、絶対に弁償しないと許してもらえなさそうな傷を私は知らない。それはどうにもぐちゃぐちゃで、でも小学校の時に通っていた塾も割とこんな感じだったじゃん、と現実逃避をしてみる。出来ない。 「ねえ王子、これ誰がやった?」 王子は答えない。またイヤホンを付けっぱなしにしているのか、窓を見て鼻歌なんか歌っている。呑気だった。 「また私がやったんだよね」 返事は無い。私は彼のイヤホンを引っこ抜いて自分の耳に突っ込んだ。 「ふふ、流れてないと思った?残念だったね。本当に曲を聞いていたんだよ」 「流れてないと思ったし曲聞いてないと思ってた」 「そんな変な気の遣い方はしないよ」 なんなら少し恥ずかしい。まあでも、聞くことは聞かないといけない。 「私がこれ、やった?」 「うん、やってた。一昨日あたりだったかな」 端的な返事。片耳からはまだちゃかちゃかと知らない音楽が流れている。 「じゃあ今日は水曜日じゃないのか」 「木曜日だね」 「あー……」 唸る。私は渋々彼にイヤホンを返した。そしてその時、彼の頬に小さな傷跡があるのを認めた。 「それも私?」 「うん、まあね。でも不可抗力かな」 我ながら通り魔すぎる。おはようって返しても返さなくても、ちょっと間違えてたら王子は本当にぶっ殺されてたんだろう。いや、分からないけど。少なくともこっちの私は小心者だから、向こうの私もそうかもしれない。やってる事が一々小物臭いし。 「死にたーい…………」 「それ言うぐらいならごめんって言ってくれたらいいのに」 「ごめんで済むなら警察はいらない」 「こっちの台詞じゃない?」 王子の言うことは確かに最もだった。かと言ってごめんというのもおかしな話で、どうしたものかと窓を見て私は気づく。窓に反射して王子の太腿あたりの上にプレイヤー本体が置かれているのが見える。その再生および一時停止ボタンには人差し指が添えられていた。王子は今もなお、素知らぬ顔をしている。 変な気を遣っている自覚はあったのか、と私はこのクラスメイトのことを少し知った気になった。 「ごめんね、王子」 「だいじょう……ぶ」 「だいじょうぶい、って言おうとすんな」

2

「王子、おはよう」 「うん。おはよう」 と、彼は言うので私は笑う。手には購買でさっき買ってきたカッター。当然、私は刃物を取り上げられている類の人間で、元来はそれ相応の場所に送られるべきだから、刃物の類は持ち歩けない。私の数百円はこんなカッターに消えてしまう。ボーダーの稼ぎがあったら何本のカッターを買えるんだろうか。 王子は私が手に持っているものを見て、目を瞬かせた。 「今日は君かあ」 「うん」 もう一人の方が良かった?とはあんまり聞けない。私は小心者なのだ。小心者だから、先に傷をつけないと落ち着かない。ほら、もしスマホを落として画面が割れたら悲しいでしょう。だからそうならないように、予めスマホの画面を割っておく。そしたらもう二度と壊れることはないから、落ち着く。私はそうだった。でも王子はそうじゃないから、私が机にカッターで今日暗誦しないといけない英文を彫り始めると、止めようとする。 「それ、カンニングじゃない?」 「んー、ん。確かに。どうしようね」 「紙に書くのはどうかな?」 「やだな、紙に書いたら破けちゃうよ」 王子は格好がいいし頭も良いけど、時たま抜けていることがある。そういう所に愛嬌を感じているのは、きっと私だけじゃない。皆だろう。 「……あら?」 気が付くと王子は私の手首を抑えている。困った、これじゃあ書けないな。耐えられないな。こうしていると耐えられないのだ。ありとあらゆるものが整合的であるこたに、隙間風の寒さを感じるのだ。 あ、あそこの黒板の端っこ、歪んでる。やだなあ。やだなやだな。手を離してくれないかな。 私は彼の手を振り払うようにして、X軸に自分の腕を動かしてみる。びゃっ、と変な音がして、気が付くと王子の頬が切れてた。なんなら手も切れていた。 でも、王子は冷静だった。 「ほら、危ないよ」 と言って私の力の抜けた手からカッターを取り上げてしまう。私はぼんやりと、このクラスメイトを見た。殺してやる、とぼんやり思ったけれどそれは私の頭がおかしいからでとどのつまりは誤変換なのだ。だから私が言うべきは、 「……ありがとう?」 「うん。全然だいじょうぶ……ぶい」 「照れるのが一番ダサいって知ってる?」 「手厳しいなあ」 王子は笑って席につく。優しいなあ、と私は思った。王子はいつも優しいけれど、もう一人の私に対してはどうなんかな、とそんなことを思ったりする。多分優しいんだろう。私は嬉しい。彼女が嬉しいと私も嬉しいし。 「王子さ、」 「うん?」 「なんか、聞いてない?」 王子はちょっと悲しげな顔して、首を横に振る。ですよねえ、と零せばそんなことはないよ、となんの意味もない励ましが返ってきた。 「ねえ王子、王子は私達のどっちが好き?」 「どっちも好きだよ」 「え、凄いね。じゃあどっちがいいか決めておいてよ」 「じゃあ、の繋がりおかしくないかな」 王子は笑った。私はあの子が用意しておいた絆創膏を渡す。机の傷にも絆創膏を貼ったら治らないかな、と思ったけどそんなに都合のいいことは起こらない。そんな都合のいいことは王子一彰以外存在しない。

3

私たちはいつも一緒だった。でも、別人かと言われるとそうでもない。私は彼女で、彼女は私だった。それ以上でもそれ以下でもない。そして私たちは私のことが大好きだった。愛していた。ひどいナルシストだなと思うけれど、それで良かった。 そんな話はともかくとして。 「ねえ王子。王子的に、どっちが本物っぽい?」 「ええと、何が?」 王子は頬杖をついたまま、隣の席の私に顔だけ向けて、当然の疑問を放ってくる。私は未だに残る机の傷跡をなぞりながら言葉を選ぶ。第三者に対して自分のことを話すのはみんな難しいだろうけど、私たちのこととなるとその難易度が二倍になる。 「ええと……火曜日と水曜日の私」 「……主人格がどっちかってこと?」 「そうでもないんだけど、王子が分かりやすいならそれでいいよ」 「適当だなあ。どっちも本物じゃ駄目なの?」 「駄目らしいよ」 「らしいって」 「私が許しても、世界はそれを許さないんだよ」 言ってみて、少しきざな言い方だったと思って頬が赤くなるのを感じた。たはー、という誤魔化しの溜息を吐いてみる。そこまでしても王子の返事がないので、ちらと顔を見る。王子は黙っていた。そして何とも言えない顔で私のことを見ているので、私は少し驚いた。この付き合いの短い友人が何を考えているか分かったことはないのだけれど、今回ばかりは少し分かってしまいそうなのが、怖かった。 「……ともかく。もういい加減統合しようかって考えてて。色々と困るし。この前の英語のテストも散々だったから」 「それは……お医者さんとか、専門的なひとがそう言っているの?」 「いや、自己判断」 「そっか……」 王子はそれだけを言うと、一度目を閉じた。私はすることもないので、ぼんやりと王子の顔を眺める。彼の顔は整っているけれど、あまり顔に関しての好き嫌いがないので整っているなあ、ぐらいしか言うことがない。モデルさんみたいだな、と思ってもそれが素敵なのかは分からない、みたいな、そんな感じだ。そうしていると、彼はぱちりと目を覚ましてこちらを見るので、私はなんとなく手を振った。こんなに近距離なのに、まるで観客席に座ったファンみたいに手を振った。彼の方は振り返さなかった。 「これは……まあ、素人の意見だから無視して欲しいんだけど」 「うん」 「やっぱり、ぼくは二人……便宜上二人って言わせてもらうけど、良い?」 「うん」 「うん。まあぼくは二人のことが好きだから、」 「えっ?」 「え、あれ?言ってなかったっけ?」 「こっちの私は聞いてないよ。初耳…………初耳学認定」 「微妙に伝わりにくいよ」 王子は「参ったなあ」と言って頬をかいた。それがまるで海外小説の青少年がするような仕草だったので、私はおかしかったけれど、かと言って笑うところでもないかと、やめておくことにした。代わりに重箱の隅をつつくことにする。 「ほら、王子区別付いてないじゃん。やっぱり統合すべきだよ」 「区別なんて付くわけないじゃないか。だってどっちも好きなんだもの」 「おお、脅威のリカバリー力だ」 「あと普通に似てるから分からないよね」 「でも継続力はないらしいね」 「だから、」 「だからでもなくない?」 「そんな寂しいこと言わないで欲しいなあ、とは思うよ」 「………………うーん」 うん、うん、と私は相槌を何回か打った。打つわりには咀嚼出来ていないんだけど。ただ、これを録音して、私にもう一回聞かせてあげたいな、とぼんやりと思ったもほだった。

4

「はい」 「?」 数日ぶりに登校した私に(体自体は毎日登校してるけど)、王子はプレーヤーを渡してくれる。それと、そこそこ絡まったイヤホンも。聞けということらしかった。 「カッターで切っちゃダメだよ」 「そんな変なことしないよ。というか、ワイヤレスにしたらいいのに」 「ワイヤレスだと本当に繋がってるかどうか分からなくて、怖いからね」 「うわー、ほんとだ。変な呪いかけられちゃったな」 そんなことを言いながらイヤホンを耳にはめて、再生。なんというか……チャカチャカとした小刻みなスクラッチ、って言うのかな。軽快なメロディと壊れたレコードみたいな誰かの言葉が永遠とループしている。歪なパズルみたいだったけど、聞き心地は悪くない。EDM、ってこういうのを言うんだろうか。 「どう?」 「いやなんか……ささささみしっ、さみしいことととと、さみさみしししって壊れたレコードみたいにずっと繰り返して言ってる」 「耳がいいね!」 王子はにっこりと笑って、拍手をした。どうもどうも、と私は言いながらイヤホンを彼に返す。ところでこれは一体なんだろう。 「これ、ぼくの声なんだよ」 「王子がささささみしっって言ってるの?」 「違う違う。ぼくが言った言葉を聞かせてあげたいなって君が言って、じゃあもう一回聞かせてあげるよってぼくが録音してあげたんだ。そしたら、これが返ってきた」 「はー、サンプリングか。変な照れ隠しだねえ」 「……照れ隠しなの?」 「うん。私には分かる。あと最近二人でベイビードライバーを見たから、それもあるのかな……」 「そこの比重、結構大事じゃないかな」 「いや、全然」 そんな分かりきったことを言っても仕方がないと、私はもう一度最初からこの音楽を聞く。私が作っただけあって、私の好きな音楽だ。おまけに王子が壊れたレコードみたいにずっとなにかを言っている。私は今すぐにでも体をばたばたとゆらして、机をぐちゃぐちゃにして、そのまま窓から飛び降りてしまいたくなったけど、机の裏側を自分の爪で引っ掻くことで堪えた。飛び出た木の破片で指がちょっと切れたけど、そんなこともどうでもよかった。 「あのさ、私、前にどっちがいいって聞いたけど」 「うん」 「答え出た?」 「一生出ないよ」 「私たちね、決めてたの。私たちだと絶対に決まらないから、他の人に決めてもらおうって。だから王子に頼んだの」 「えっ、それってぼくのことが好きってこと?」 「いや、普通に友達が王子しかいないからだよ。傷ついてたらごめんね」 「……全然だいじょうぶい」 「やけくそだねえ」 「だって君が勢いよくやれって言うんだもの」 「そうだっけ?」 「そうだよ」 そこで私はふと、なんの話をしていたんだっけという思いにかられた。……そうだそうだ、私たちはきっとこのままじゃ生きて行けなくて、社会とか世界とかそういうものは私たちのことを許さなくて、どうにもならなくって、今も私は王子の後ろの窓に落下する私を百万回ぐらい夢想しているんだった。 「ねえ王子、もう一回だいじょうぶいって言ってよ」 彼から見えないように机の中に手を伸ばす。 「良いけど、なんで?」 「王子のそれ、私が好きだから」 中にはカッターがあった。私は心底ほっとした。今日の私じゃない、昨日の私が入れてくれておいたもの。ほっとした。ビックリするぐらい今の私は落ち着いていて、なんなら……なんなら、なんだろう。相対的にまともなのかもしれない。 「そうなの?じゃあ言おうかな」 ごほんと彼が咳払いする。私はぐるぐるとカッターの刃をむき出しにする。自分のお腹に当たるようにさかむきに持って、躊躇いなく押し込んだ。 でも、全然痛みは来なかった。私は目を瞬かせてお腹を見る。刺さっていた。私のお腹じゃなくて、王子の手のひらに刺さっていた。 「ほら、だいじょうぶい」 空いた手で王子はピースをしている。私は呆然として、彼の顔と手のひらを交互に見やる。 「…………ぜんぜん、だいじょばないじゃん」 「いやいや、実はこんなこともあろうかとトリオン体に」 「トリオン体って何?」 「え?そこからかあ。うーんとね、とりあえず全然だいじょうぶいってこと」 「ムカつく…………」 心の底から声が出た私を見て、また王子は笑った。子供みたいな笑い方だと思った。私たちはまだ子供なんだな、とふと思い出した。 「大丈夫だよ」 「何が」 「全部。大丈夫だから」 瞬時にありとあらゆる暴言だとか、罵詈雑言が頭に浮かんで、私は一体どれを彼にぶつけてやろうかと脳内で吟味する。で、結果はこれだった。 「また、明日もやって」 「うん」 「また、同じこと、言ってあげて」 「うん」 王子はもうカッターを奪い取ることはしなかった。ただ手を離して、なんてことないように私の隣に座るから、私はちょっとだけ泣いた。