「……そうだ、君に一つ聞きたいことがある」 「なんすか。答えられることだったら、答えますけど」 合宿中の夜、鉢合わすつもりのなかった風呂場という場所で鉢合わせた二人は、熱い湯の湯気の中でそんな会話をした。創真は今じゃなきゃ駄目なんかな、と思ったが、一応目上の人間なので黙っておく。そのぐらいの分別はあった。まあ、面倒くさくなければ、という注釈がつくのだが。 「かん……いや、三沢は普段、どんなふうに寮で過ごしている?」 「三沢……カンちゃん先輩のことっすか」 「カンちゃん先輩……?」 珍しく怪訝そうな声が聞こえてきたその後すぐに、態とらしい咳払いが聞こえる。 「そうだ、そのカンちゃん先輩だ」 そこ言うんだ、と思いながらも、創真は素直に「どんなって……まあ普通っすよ。なんかニコニコしてるし、後輩にも慕われてるっぽいし……」と呟く。 「…………そうか」 予想に反して、銀の声色は明るくない。彼らがどういう関係か知らないが、そこまで自分はおかしなことを言ったつもりはないのに、と創真は内心で首を傾げた。 「知り合いっすか?娘さんとか……いや、でも苗字が違うか」 「はは……知り合い、か。そうだな。知り合いみたいなものだよ。元気にしているのなら、良かった」 銀のその自嘲じみた言葉は、湯気を微かに揺らすだけだった。 「…………仲良くしてやってくれ」 「はあ……」 創真は曖昧に頷くことしかできない。

銀が彼女と出会ったのは、彼女の両親の葬式だった。突然の訃報に驚いた銀だったが、彼はまずなにより、彼等の一人娘である寒太郎の元に向かう。ただでさえショッキングな出来事が起こったというのに、周囲の大人達は可哀想にまだあんなに幼いのにね、と嘯きながら彼女が持った焼け焦げた本に目を向けている。あれが、三沢の家にずっと伝わってきたいわば秘伝の書であることを、旧家の人間は知っている。だからこそそれをどうにか奪い取れないかと狙っているのだろう。 そんな大人達に酷く腹が立って、銀はその体躯を活かし、彼らを押しのけるようにして前に出る。そうして少女の前にやってきたかと思うと、膝を着いてこう言った。 「君が、寒太郎くんか?」 「……はい」 静かな声だった。火傷をしたのだろう。顔や細い手足に貼られたガーゼが酷く痛々しい。彼女はかの本をまるで盾のように抱きしめた。 「驚かせたならすまない。俺の名前は、堂島銀。君のご両親とは高校時代の同級生でね。名前ぐらいなら、もしかしたら聞いた事があるかも────」 「知ってます。何かあったとき、この人に頼れって父が言っていましたから」 「そ、そうか。それなら話が早い」 まだ現実を受け入れられないのだろう、と銀は少女を哀れんだ目で見つめた。涙こそ出ていないが、その目はずっと前髪に隠れて見えない。どこまでも淡々とした声色も、身を守るための鎧のようなものなのだと、銀はそう思っていた。 「……なあ、寒太郎くん。俺と来てくれないか。俺なら、君を守ってやれる。そして三沢の名も含めて、だ。君の親代わりには……なれないかもしれないけれど。衣食住は保証する。そしてまた、料理が出来る場もだ」 料理。その言葉に、少女の体が僅かに揺れたのを、銀は肯定的な意味に捉えた。 そしてそのまま、寒太郎は銀の元に引き取られたのだ。

「……今日もお腹は空かないか?」 「…………」 銀の元に来てから、寒太郎は一言も喋らない。それどころかほとんどなにも口に入れようとしない。最初はショックでものが食べられないのだろうと思っていたが、こうも続くと流石に心配になってくる。あの葬式の日から二ヶ月近くが経つのだから。 青い皿の上に鎮座した白パンをじっと見つめていた彼女は、ふと銀の方を見る。あの時と同じ、薄暗くて、何の感情も無い目。 「堂島さんは……私がご飯食べたら嬉しいですか」 「、ああ、勿論だ。食事は生きていくために欠かせないものだからな。食べてくれたのなら、こんなに嬉しいことは無いよ」 「……そうですか」 そう言った少女は結局何も手をつけず、その日は自分の部屋に戻っていった。

───けれど、次の日から彼女の態度は一変した。 「ねえねえ、堂島さん!私お腹すいちゃった」 そうニコニコと、まだ寝ている銀を揺り起こして朝ごはんを作らせて、「おいしい!」と食べる。昼も夜も、食べるようになっただけではなく、目まぐるしく表情が動いた。ころころと笑い、子供らしくぶすくれて、夜は一人で眠れないのだとめそめそと泣く。 そのあまりの変わりようを、素直に喜べるほど銀は愚かでは無かった。ただそれを指摘することもなく、なるべく刺激しないように、見守ることしかその時の彼には出来なかったのだ。 だから───だから。 ある夜。部屋から一筋漏れた光を追って──その少女が自分の喉に手を押し込め、食べたものを掻き出している光景を見た時、銀は、一瞬だけ彼女を引き取ってしまったことを後悔した。自分では彼女を更に傷つけるだけだったと──そんな逃避の仕方をして、彼女を遠月学園に送り込むことに決めたのだ。

「堂島さん、今までありがとうございました」 遠月学園に向かうその日に、微笑んだ少女はそう言った。あどけない、陽だまりのような微笑み。それを見るだけで銀は、頭が軋むような感覚を覚えるのだった。 「……今生の別れのようなことを言うんだな。別に、いつでも戻ってきていいさ」 「本当に?」 「ああ、本当だ」 彼女の手の中には遺骨があった。彼女の小さな腕の中では、有り余るほどの箱。そこから目を逸らして、銀はそう言った。 「じゃあ、年に一度は戻ってきますね」

────そう言った彼女が、戻って来たことは今まで一度も無いのだった。