1

「あ」 地下鉄に乗っている最中、そう女が零したものだから、男は──吸血鬼Y談おじさんなどとふざけた呼び名で呼ばれている男は、女の視線の先を見る。するとそこには不妊治療の広告があったものだから、彼はげんなりとした顔を見せた。とかく目の前の女と……性に関する話題というものは相性が悪いと、男は一番知っていたものだから。

その日、彼はいつものようにビームを破ァ、の声と共に放出した。その行動に人間をおちょくるだとか癖だとかそういう意味はあっても、彼女個人がターゲットになったことに大した理由はない。たまたまそこにいたから、彼女はそのビームに引っかかった。 そしてたまたま────彼女は『反出生的な考えの持ち主であり自分が生まれてきたことも許容出来ず異性愛及び性愛をこよなく憎んでいる』人間だった。重ね重ねにはなるが、本当にたまたまなのだ、男と同じように彼女がそこにいたことになんら理由は無い。 ビームを受けた女がどうなったか。それはもう惨憺たる有様だったとしか男は形容出来ない。強制的に猥談を話させる催眠術が、女の強固な怨嗟及び思想とぶつかりあった結果、彼女は途端にバグり始めた。猥談を話すでもなく、下ネタに走るでもなく、まず一言「子宮」と言った。下ネタにしては尖りすぎている。そしてそこからは堰を切ったように「子宮……子宮があるからこんなことに……全員死ね……死ね……!くたばれ……!」「どうしてどうしてどうしてどうして私が!私に子宮があるの!?」「異性愛規範の異常者が……殺してやる……」「…………誰か殺して……!」と頭を掻きむしりながら、そんな放送倫理も真っ青なことを叫び始めたのである。 これには流石の男も、ドン引きだった。思想の内容自体はともかく、そんなことを往来で喚き散らかすその様はどう考えてもアウトだった。 そんなわけで、数百年の最中で、生まれて初めて彼は自分から催眠を解いた。元々彼は猥談を語って恥ずかしがる人間が見たいだけで、こんな自傷じみた光景が見たいわけでは無かったからだ。破ァ、の声をかける暇もなく慌てて催眠を解いてやれば、きょとんとした女と目が合う。いやー、良かった良かった。そう額に出た汗を拭ってその場から去ろうとする男の頭を、より正確に言うと頭蓋骨をカチ割らん勢いで掴んだ手。 「……何も見てませんよね」 「えっ」 「ちなみにこれはこれからすることと一切関係がない話なんですが、吸血鬼でも脳味噌を潰されたら死んだも同然ですよね」 「ふふふ何も見てないなあ!?全然全く!?」 とまあ、それからの縁なのである。 ……縁か?と男は思っているが、それはさておき。

そんな彼女が不妊治療の広告を目にしたらどんなことになるか、男はこの車両の中で真っ先に察した。ので外聞も何も気にせず女の目を自身の手でさっと覆い隠す。けれど女から文句の一つも出ないということは、最早手遅れかもしれないと男は冷や汗をかいた。 「…………」 「…………おーい、今何が見えてる?」 「ひひゃひゃのほへ(百万の星)」 「!?」 何が起こったと男が女を真正面から見つめ直せば(手は勿論覆ったままだが)、女は自身の指を丸ごと口に突っ込んで無理やり封じている姿が目に入る。男は思わず反射的に「ぺっしなさい!ぺっ!」と叫んだ。 「うひ(無理)」 「流石にそれは……無理があるだろう。色んな意味で」 「ひゃひふへへ、おひゃひんほへほほほーん(外したら、おじさんのこと殴っちゃう)」 「分かった一生入れててくれ」 凄まじい勢いで前言撤回をした男は、そのまま女の目を塞いで二駅ほど揺られたし、途中甲斐甲斐しく女の口からダバダバ零れてくる涎を拭いてやっていたが、シンヨコの人間達は総スカンだった。このぐらい別に、よくあることだったので。 「ふう、ようやく一息つけた……」 「ねえ、パンフレット買ってきてもいい?」 「その汚い手でよりにもよって紙製品を触るんじゃない」 本来の目的地である映画館にやって来た女は、平然と口から手を引き抜きそのままショップに向かおうとする。ので、慌てて男は懐から取り出したウエットティッシュを引き抜いて彼女の手を擦りまくった。女は性的なことには限りなく反応するくせに、その他のことは随分適当な性格らしく、こうして男が見たくもない面倒を見てやることが多い。だって、耐えられないだろう。今から隣で映画を見る人間の手が唾液でベロベロだったら。普通に無理。 「君といると、」 赤子の世話をしているような気分になる、と思わず言いかけそうになった男は、軌道修正をして「犬の世話をしているような気分になる」と言った。最もそんなに可愛げのあるものではないのだが。 「えっ……そんな年金暮らしのおじいちゃんみたいなこと言い出したらいよいよ終わりでは」 「これ全部口にぶち込むぞ」 怒りに任せてアルミ製のゴミ箱にウエットティッシュを全部ぶち込んだら、蓋がグルグルと意味もなく回転する。そんな光の反射を見ながら、女はぼんやりとこんなことを呟いた。 「…………年金暮らし、か」 「毎度毎度情緒が忙しすぎるな。もう慣れたけども」 「老後も嫌だけどその前にこの人生が長らく続くことに耐えられない。私の時間が続くことも……お金を使うことも……アリを踏みつぶして生きていくことも……」 「おい見たまえ、君が見たがっていた映画の予告映像が流れてるぞ」 「えっ!?どこどこ!?」 女はパッと顔を上げて、チケット売り場近くの巨大なモニターに釘付けになる。その様子を見てますます子供だな、と内心だけで男は思った。既に女は予告編だけでニコニコとしている。ここだけ見ると幸福の値が低くて生きやすそうな女にしか見えないのだが、と失礼なことを思いながらその横顔を眺めていれば、ぐるりとその朗らかな顔が突然男の方を向いた。 「どうした、急に」 「ね、これおじさんも一緒に見に行こうよ。絶対ね。どうせ暇なんだし予定空けておいてよ」 そのあどけない、それこそ子供のような微笑みを真正面から食らった男は、一瞬の後にこう叫んだ。 「──────────────くらえ!」 「な、なんで今!?」 突然のビームに女は一瞬狼狽したが、直ぐにいつもの如く「子宮が全部悪い」「私だったら私を殺してる」「セックスを法律で禁止しろ!」と叫び始める。 その様子を見て、男は「……いやー、危ない危ない」と呟いた。それから直ぐに催眠を解いてやれば、女が真っ先に頭蓋骨を掴んでくる。これも最早慣れきった動作であり、最適化された動きだった。 「ちょっと!今の行間にビームって必要あった!?」 「いや……君がこういう人間だったということを早急に思い出す必要があった」 「逆に忘れないでよそんな大事なこと」 「…………嫌だなー」 突然そう声を上げた男に、女はしかめっ面を解いて、「何が?」と笑う。それを見た男の顔はさらにくしゃくしゃになった。 「やっぱりおじさんも生まれてきたこと嫌だって思ってる?」 「君と一緒にするな。……ただまあ、君が生まれて来なければよかった、と思っていることには同意するね」 それは聞きようによっては酷い台詞でしか無かったけれど、女はやはり破顔してこう呟くばかりだ。 「─────それなら嬉しい」と。

2

「今ヒマ?」 「はい、暇ですよ」 「出落ち!」 男が何かを言う前に、女はサッとトンビに油揚げをさらわれるがごとくかのご真祖様に攫われていってしまう。男はその様子を呆然と眺めることしか出来ない。 これが今日の夕方近くの出来事である。 そして今は夜。 「……帰ってこられたのか」 「うわ不審者死ね!!……ハッ、この頭蓋骨の形は……おじさん!?」 頭蓋骨を掴んだまま、女はそう叫ぶ。この女さては頭蓋骨で個人を判断してるな?とは思ったものの、割られることは無かったので男は寛大な心で許してやった。不審者扱いされたことも含め。 「いや不審者なのは変わらないよ。集合住宅の自分の家の前に立たれてたら、たとえそれが所ジョージでも嬉しさより怖さが勝つし。止めてね」 「内心を読むな」 男はじっと女を見たが、そこにかつての自分のように疲弊した様子は見られない。強いて言うのなら身だしなみに気を使わない彼女のジャケットのポケットが裏返しになって、これでもかというように飛び出ている。溜息を吐きつつポケットを元の位置に押し込んでやりながら、男は「それで?」と問いかけた。 「それで?って?私何かおじさんに借りパクしてたっけ」 「カタンの拡張パックはまだ返ってきてないがそうじゃない。よくもまあ君みたいな人間があんな化物のような男から逃げ出せたものだと思ってね」 「人のこと化物とか、そんな言い方しないの。失礼でしょ」 「…………」 赤子と同レベルだと思っている女にそんなまともなことを言われて、男の頬は盛大に引きつった。それに気づいているのいないのか、女はバックの中から鍵を探しながら言葉を続ける。 「それに別に、逃げ出したわけじゃないよ。普通に明日は仕事あるしそろそろ帰りますって言って帰ってきた」 「まさか!あの吸血鬼がそんな言葉を聞くものか!」 「逆にそれ以外にどうやって帰ってくるの……?」 心底不思議そうな目でこちらを見る女の顔は、どう見ても嘘をついているようには見えない。男はますます頬を引き攣らせた。 「そうかそうか!つまり君はそんなやつだったんだな!」 「……エーミール、君ってば一体何がそんなに気に食わないのかな?」 「そのおぞましいまでの心の広さと、八方美人さに恐れをなしているところだよ。この私を怯えさせるとは、誇るがいいさ」 「違うよ、おじさん。そんな大したことじゃないんだってば」 女は鞄をまさぐる手を止めて、男に向き直る。それから彼女は少し視線を下げて「……私は、優しくしたいの」とぽつりと零した。彼女の視線は、いつも男が持つ杖に向いている。 「私は……私が優しくないことを、嫌ってほど知ってるんだもん。大事な友達が結婚しても、子供を産んでも、おめでとうって言ってあげられない。誕生日を迎えた人にプレゼントもあげられないし、親の事も基本的には嫌いだし。だから……だからこそ、優しくしたいの。優しくなくていいから、優しくしたいよ」 男はその言葉があんまりにも腹立たしく、彼にしては珍しく感情任せに杖を振り上げたが、それでもそこからビームは出なかった。女の眉を下げたような顔が、彼の杖の先をじっと見つめている。 「いやはや、全く。君は全くもって救いようのない人間だな」 「私は生まれた時から救われないって思ってる。だって生まれてきたくなかったから。それは君も知ってるでしょう」 「………………」 「都合が悪くなったからってビームを出そうとしないの」 「別に出そうとはしてない。この杖の先で忌々しい君をそのまま殴ってやろうと思っただけで」 やめなね、と言いながら女はドアに鍵を差し込む。よどみなくささったそれはぐるりと一回転。 「…………一応。言っておくけど」 「何かな」 「カタン拡張パック六人分を一人三役でやるのはいい加減無理があるし、」 「なんだ、そんなことか」 「私はおじさんに優しくしようなんて思ったこと、一度も無いよ」 一瞬、男の動作が止まる。女はそれを見て薄く笑った。薄氷のような、微笑みだった。 「今度は私たちがおじさまも誘ってあげようよ。そうしたら、一人二役で済むだろうから」 その言葉を最後にドアが閉まる。エレベーターの駆動音が遠くでうっすらと聞こえる。男は夜の廊下で一人、何も言えないまま、立ち尽くしていた。

3

さて、今日も今日とて男がビームをハンター達に浴びせ、愉快な高笑いをしていた夜のことである。 「あれ、おじさん?」 その一言で男はビャッ、っと音がせんばかりに垂直で飛び上がった。おそるおそる振り返れば、仕事帰りらしき女が、トートバッグを引っさげて立っている。男はハンター達を置き去りに、真っ先に女へと頬を引き攣らせながら向かっていった。 「……どうしてここにいるんだね?君は今日確か夜勤だったはずだろう」 「なんでシフト把握してるか訳わかんなくて怖いけど、普通に他の人と変わってあげただけだよ。変則的だし」 そう言い切った女は、「それより」と前置きして男の後ろに視線をやりながらクスクスと笑う。 「おじさん、私といない時はそんな感じなんだね」 「……ちょっと待ってくれ、なんだ?そんな感じとは」 「だって、凄いテンション高いから。仲良いんだね。お友達の人?」 「か、観葉植物……」 ニコニコしながら女が零した言葉に謎に焦った男は、そんな言葉を口走る。背後で観葉植物呼ばわりされたハンター達は「観葉植物の枝に頬ずりされたい!」「観葉植物に取り合いされたい!」「観葉植物の葉によしよしされたい!」と積極的な否定の言葉をあげるのだが、なんせビームを浴びている最中なので妙な言葉になっている。 「……性的に観葉植物を見てる人たち?いいと思うよ、観葉植物相手だったら子供も出来ないし!」 「君も君でギリギリな発言をするんじゃないよ」 色んな意味でここにいるのはマズいと、男は女の手首を掴んでその場から離れようとする。そんな男の背中をぼんやり眺めた後、女は握られた手首を見ながら唐突に口を開く。 「……ねえおじさん」 「今度はなんだ!」 「もしかして、嫌だった?私と仲良くしてるって思われるの」 「……はあ?」 男は足を止めて振り返る。そして何を馬鹿馬鹿しいことをと一笑に付そうとしたが、女の顔が存外静かなものだったから、男の足は次の一歩を踏み出さない。 「……なんだね、その如何にもそうじゃないと言ってほしげなその面は」 「そう見えてたらごめん。でも本当に、嫌だったらそれでいいの。私、こんな性格、って言うか性質?だし……あんまり……その、社会的な感覚も普通じゃないし」 「別に何も言っちゃいないが」 「でもおじさん、私といる時よりさっきみたく人間に嫌がらせしてる方が楽しそうなんだもん。こう……初めて会った時みたいに、下ネタ言わせてる時の方が、生き生きしてる」 「ふうん、そう見えるのか」 その言葉を聞いて、男は自分の頬が釣り上がるのを感じた。今までこの目の前の女には煮え湯を飲まされてばかりだったので(少なくとも男はそう思っている)、こうやって自分が上手に立てていることは珍しかったのだ。なので彼はいつもの調子を、つまりはハンター達に接するような不敵さを取り戻して「ははは!それはそうかもしれないね!」と言った。「君といると忘れていたが、元々私は性癖をぶちまけている人間が好きでねえ……君ときたら全然そんな話をしないものだから」とも。 「そっか」 そんなことを男が話していると、女は不思議とほっとしたような顔でそんなことを言う。男はもっと自分の好きな嫌そうな顔だとか呆れた顔が見られると思っていたので、拍子抜けだった。 「それなら─────やっぱり私、生まれて来なきゃよかったな」 「……は?」 そう言った彼女は、泣いていた。声を上げるでもなく、薄くなされた化粧が落ちるほどの量でもない。まるで閉め忘れた水道管からこぼれ落ちる水滴のごとく、一滴だけが頬を伝って落ちていく。 「ごめんね。私がもっとまともだったら……人を好きになれたりセックスが出来たりしたら、皆に隠させなくてすんだのかな」 男は何も言えなくなって、まるで石のように体が動いてくれない。そしてそれを良いことに、女は手を無理やりほどいて、男から離れた。 「ごめんなさい、生まれてきて……」 それが男へ向けた言葉ではないことが、逆に男には痛かった。まだ顔を見て、面と向かってお前のせいだと言われた方がマシだったような気がした。そうして女は走るでもなく、ゆっくりと背を向けたけれど、やはり男は追いかけることが出来ず、その背中を眺めることしか出来なかった。

4

「あれ」 おかしい。自分は確か……。 そこまで考えて、前後の記憶が朦朧としていることに『少女』は気づく。 「おや、こんな夜更けにお嬢さんが一人かい」 確かに時刻は夜だった。普段この時間なら、家に帰ってクイズ番組を見ている頃なのに、なぜだか自分は外にいる。そして目の前には、露骨に怪しげな男が一人。学校で習った「いかのおすし」がパッと頭に浮かぶけれど、何故だか少女はその場から動けない。それは恐怖というよりも、どこか懐かしく感じられた。彼は自分のことを知っているような気がするのだ。 「……もしかして、しんせきのおじさんですか?」 「誰が君みたいな万年赤ちゃんにお年玉をやるか」 そう言い放った男は、少女のじとりとした視線に気づき、露骨に咳払いをする。そしてまたしても胡散臭いばかりの笑みを浮かべて「いやなに、ここら辺に少しばかり吸血鬼が出たらしくてね。危ないから君はこの安心安全おじさんと一緒にいるといい」 確かに、少女が周囲を見渡すと少しモヤがかかっているように思う。それでも完全に気を許すことは出来なくて、彼女の口からは刺々しい言葉が出た。 「おじさん、しょうかきが『あんしんあんぜん』ってめいうたれてるのみたことあります?」 「あるかもしれないだろ……!」 可愛くない子供だな、と男が呆れたように呟けば、少女の顔が夜でも分かるほどさっと暗くなる。そしてそれを今度こそ見逃すほど、男は馬鹿では無かった。 「……何か言いたいことがあるのなら、言ったらどうかね」 「べつに。ないです」 「ほう。じゃあその如何にも決壊しそうな瞳はどうしたことかな」 男の指が、その口調とは裏腹に優しく少女の眼を撫ぜてゆく。人差し指に薄く乗せられた雫を見せられて、そこで少女は初めて自分が泣いていたことに気がついた。 「私に可愛いって思われたかったのかい」 少女は黙って首を横に振る。男はその返事を知っていたかのように、愉快げに笑った。 「そうだね。君はそんなこと思わない。出会った時からそうだった。それならこれは、どうしたことかな」 「…………かなしいの。ずっと。うまれてきたときから、ずっと」 「永遠に?」 「そう。えいえんに」 男に促されると、不思議と少女の口から言葉がするすると出てくる。 「わたしは、わたしがうまれてきたことがはずかしくてかなしい」 「…………」 「でもね、べつに、わかってもらえなくていいの。わたしのことなんてわかってもらえなくていいから……」 少女の言葉が不自然に途切れる。まるで言葉を探しているように、少女の視線が動いた。男はそんな様子を、何も言わず黙って見守っている。 「…………ゆるして、ほしい。わたしは、ゆるしてほしかった。いっしょにいることも、ゆるされたかった」 「成程。私は結構な数の人間を見てきた自負があるけれど、そこまで自分を罰している人間は見た事がないね」 「そう?でもわたし、じぶんのこと……きずつけてないよ。うでとかきれない。こわいもん」 「……前にね、私は知人に怒られたことがある」 突然話の流れが変わったものだから、少女は涙を引っ込めて、男の顔をじっと見つめた。男はどこか楽しげに、軽やかな口振りでこんなことを話す。 「私が別の知り合いを化け物と呼んだんだ。そうしたら知人がそんな呼び方をするなと怒ってね。私は知人が良い子ちゃんぶっているように見えて気に食わなかった」 「…………」 「でもそうじゃないんだろうな、と今になって気づいたよ。彼女が言いたかったのは、きっと自分に返ってくるということだったんだ。自分で言った言葉が、きっといつかの自分を傷つける。だから止めろと、そういうことだったんだろうね」 「…………それは、」 「本当は、分かってるんだろう。なにより一番君をゆるしていないのは、君自身なんだよ」 少女は何も言えなくなった。男が困ったような顔でこちらを見ていて、それを何故か「珍しい」と思ってしまう自分に内心で首を傾げると、男は突然少女の頬を撫ぜて「そろそろお別れの時間だね」と言う。 「……まって。おじさんはどこにいくの。いかないで。このまま、わたしといっしょにいてよ」 「ふふ、彼女に聞かせてやりたい台詞だが、それは出来ない。私にはやらなければいけない事が残っているからね」 「なに、それ」 「秘密」 もうそろそろかな、と零した男は少女の頬に口付けをする。触れるだけのそれは、酷くあたたかい。だからまた泣きそうになる。そうしてその感情の意味を悟る前に、少女の視界は暗闇に溶けていった。

昔から、誕生日が苦手だった。 自分の誕生日もそうだけれど、他人の誕生日の方が、女はもっと苦手だった。 だって、お祝いをしなくてはいけない。生まれた日を。どうして?というその疑問を持っているのは昔から彼女だけで、誰も答えてはくれない。 「─────ちゃんっていつも誕プレくれないよね」 「誕生日会も来ないし」 「私らはあげてるのに、ケチすぎ」 女がまだ少女と呼ばれる齢だった頃、そんな言葉を個室トイレの中で聞いたことがあった。少女は泣かなかった。だって、とは思ったけれど、外に出ていく勇気も無かった。ひたすらにそうなんだな、と思った。そうなんだ。生まれてきておめでとうって、当たり前なんだ。人が生まれることは尊くて、素晴らしくて、誰もが等しく生きていていいんだ。そこにどうしてだとか条件とかないんだ。私は私が生まれてきたことを祝ってほしいって一度も頼んだことがないのに、それって当たり前なんだ。 少女はそれが永遠に理解出来なかった。自分も他人も生まれて来ない方がいいと思ったし、毎日蟻を踏まないように歩いた。蚊は殺せなくて肉や魚を食べることもあまり気が進まなくてスーパーに行くと気分が悪くなる。 「いいよ別に!────ちゃんには、そういうの期待してないから」 大人になってから、昔の言葉はそんな言い回しになった。あの頃と違って騒がしい居酒屋の席で直接そんなことを言われた女は、困ったみたいに「あはは」と笑う。その内心でそういうのってなんだよ、とささくれだった気持ちになる。期待してないってなんだよ。全部が全部、なんなんだよ。言われないと分かんないよ。生まれてくることが悪じゃないことも分かんない。なんで皆地球温暖化が人間のせいだって納得するくせに、そこは納得出来ないの? 悲しかった。結局そういうの期待してないから、と言った友人すら女の元からいつの間にか離れていった。結局期待してたんじゃん、そういうの、と女は思って少し泣いた。 そんな夜に、女は彼に出会ったのだ。 ▽ 「あれ」 女が目を開くと、足を組んだ男が一人。知らない間に意識を失っていたらしいことは分かるが、その経緯はさっぱりだった。 「おじさん、どうしてここに」 「少々厄介な吸血鬼が現れてね。その効果が切れる前にこの私が危機管理能力が赤ちゃんレベルの君をガードしてあげたというわけだ。泣いて感謝してほしいね」 「え?そんなことわざわざしなくても、普通に吸対呼んでくれたら良かったのに」 思わず男が反射的に杖を出せば、女は苦笑しながら「ごめんごめん、ありがとうとは思ってるよ」と言う。男は溜息をわざとらしくついて、杖を下ろした。 「…………君、よくそんな平然としていられるね」 「?何かあった?また子宮が!とか叫び回ってたりした?」 「それは比較的いつも通りだろう。……そうじゃなくて、」 「……ああ、この前私が変なこと言ったから?あー……あはは。いやあれは私が悪いよ。あのあと頓服薬も飲んだし!私、別に怒ってなんかないよ!あ、それかおじさんの方が怒ってるの?だとしたら謝る……けど…………」 女が慌てて弁明しても、男の顔は不快げに歪んでいくばかりだ。その意味が女には分からなくて、困ってしまって、だからおずおずと口を開く。 「セッ……クス」 「は?」 「かっこいい、ええと、男の人、とか……」 「…………」 「胸が、大きい?とか……」 「…………君」 「キスしたいなー、とか……な、中出し、さ、されたい……とか」 「あのねえ、だから」 「……結婚したい!……こ、ど、こどもが、ほしい……」 「っ……もういい!」 「───────良くない!」 叫んだ男に、女も即座に叫び返す。女の顔は青白んでいて、冷や汗も浮かんでいる。誰がどう見ても、具合が悪いと書かれているような顔だった。 「良くないよ……全然、良くない……もう嫌なの……もういいって言われるのは……嫌なの……」 「……その結果がその杜撰な性癖とも言えない言葉達か?」 「だって……生まれちゃったんだもん!生まれたくなかったけど、生まれちゃったの!仕方ないじゃん!仕方ないから……しかたないなりに、愛したいよ……」 「…………」 「生まれちゃったから……それならせめて、一個でもいいから、たくさんのことを、ものを、愛したいの……」 女は、先日とは違い、ぼろぼろとたくさんの涙を零しながらそう呻く。何度も擦られた目元は赤く、鼻を何度も啜っている。その様子は美しさとはかけ離れた、見苦しいものだっただろう。 「…………頑張るから、一緒にいて……」 その零れ落ちた言葉に、男はこれまでで一番大きな溜息を漏らす。そうして自分の方に振り上げられた彼の杖を見て、ビームを浴びせられると思った女は思わず目を閉じた。 「………あれ」 けれどいつまで経っても、自分の口からいつもの言葉が出てこない。不思議に思って目を開けば、杖の先で軽く頭を叩かれる。きょとんとしていると、不満げな男の顔と目が合った。 「君の馬鹿さ加減にもほとほと呆れるな」 「あ、え……」 「私を誰だと思ってるのかな。古より生きた吸血鬼、あまたの人間達の性癖を聞き及んで来た存在だよ」 そこ誇らしげなんだ、と女が思わず零すと、男はにんまりと笑った。それは彼のいつもの、吸血鬼としての傲慢な微笑みだ。 「そんな私が今更君の杜撰な性癖を聞きたいと思うわけがないだろう。そんなもの、何の価値もない」 男は女の手を取った。女の体は手を引かれて、勝手に立ち上がる。 「今はそれより、君の話が聞きたい。君の話が、だ。この意味が分からないほど、赤子では無いだろう」 「───────」 女は一瞬、その瞳を瞬かせてそれから笑った。子供のように、楽しげに声を上げて、笑った。 「…………なんだそのバカみた」 いな笑い方は、と続けようとした男の口は閉口する。女に抱きしめられたからだった。シワひとつないスーツがぐしゃぐしゃになって、彼女の一回り小さい腕が背中に回るのを感じると、何も言えなくなった。 「…………おじさん、生まれてきてくれてありがとう」 「………吸血鬼相手にそんなことを言うのは君ぐらいのものだろうね」 「私、生まれてこなければよかった。でも同じくらい、生きててよかったって思ってる。これって変かな」 「………さあ」 男はどうにもならなくなって、それこそ本当にビームを放とうとしたのだけれど、女が自分の腹辺りに顔を押し付けているのを見て、杖を手から離す。そうしておずおずと、本当におずおずと、彼女の背中に自分も手を回した。 そんな二人を、杖は地面に横たわって見つめているだけだ。