「新しい彼氏出来たんだって?」 そんな同回生の言葉に、反応がワンテンポ遅れるけど、私は最終的に「うん!」と元気よく返すことが出来る。セーフ、と私の中の審判が白旗を上げた。 私の人生において、彼氏という存在がいたことはない。彼女という存在もいたことがない。ただまあ、社会という第三の視点から見た時の彼氏と呼ばれるであろう存在はいたかもしれない。それこそ今一番付き合いのある、パッと頭に浮かんだ男の子とか。 「どんな子なの?」 そう聞かれて、私はルーズリーフの上の消しカスを払いながら、少し考える。 「……年下でー、美形でー、バイトめっちゃしてる」 「イケメンいいなー。羨ましい」 「あはは。いいでしょう」 そんなことを言いながら、私は頭の中で予約していた歯医者のことを思った。もう私は既に歯の矯正の予約を数回飛んでいる。でも今行ったら絶対怒られる。殺される。受付のお姉さんがカードを見て(日付書いてくれるやつ)、うわこいつ予約飛んでやがるぜって顔をするのが目に見えている。医者も医者で「久しぶりだね〜」みたいな嫌味を言ってくるに違いない。いやまあ、この場合は嫌味じゃないか。事実だし。 「……おーい、聞いてる?」 同級生の言葉で、私はどうやって歯医者を回避する言い訳を作ろうかという思考を無理やりシャットダウンさせた。 「うん聞いてる。教授のレポートお題が回ってきてないかって話でしょ?うちのゼミ生は誰も取ってないから無理だと思う」 「ありゃ残念。ごめんねー、確認してもらって」 「いいよ。気にしないで」 物事は等価交換だからねー、とは言わない。そのぐらいの良識はある。

授業を終えて端末の電源を入れると、その噂の年下で美形でバイトめっちゃしてる男からチャットアプリの方で連絡が来ていた。当然の如くこの時間もバイトだと思ったんだけど、と内心で首を傾げて通知を見ると、『迎えに来ました』との文言が見える。私は慌ててアプリを開いて、階段の踊り場の隅で文字を打ち込んだ。 『何が?今日なんかあったっけ』 既読は当然のように速攻で付いた。その速度に私は言いようのない不安を覚える。これは彼が、ではなくこの速度自体という意味で。 『歯医者』 『あははご冗談を』 『この前会った時言ってました』 この前。最後に会った時は三日前で、確かいつも通りコンビニ前集合でお菓子を買って、ラブホ行ってセックスして午前五時解散だった気がする。帰り道にジョギングしてる老夫婦とすれ違って「すげー私らの対義語じゃんあれ」「どっちかと言うと類義語では?」「あー、運動という意味でね」みたいなクソみたいな会話をしたんだった。首相、この国は終わりらしいです。まあ子供に戦争させてる時点でかなり終わってるけど。 とにもかくにも、私は歯医者という言葉を言った覚えはない。 『セックスしてる時の言葉は全部信用するなって言ってたじゃん』 『セックスしてる時じゃなくてエレベーターに乗ってる時に言ってました』 言ってるらしい。私の精神は基本的にまあ……言ってしまえば不安定だから言動が不確かになるタイミングがある。特に夜。つまりは私がラブホに行ってセックスしている間ってことだ。彼の方は私と違ってずっとまともだから彼の証言の方が全然信用に値する。なんなら夜だけじゃなくて昼間も含めて、私なんかよりずっと。 そんなことを考えていたらいつの間にか呼吸を忘れていて、少し蒸せた。息を意識的に吸って、吐く。ハイネックを着ているのが仇になった。もう春も終わりなんだからいい加減蒸し暑いし。若干の震えが残る指先で、何度も変換ミスを繰り返しながら文字を打ち込んでいく。 『なんて言ってた?』 『絶対絶対って百回ぐらい繰り返したあと』 ここでメッセージが一旦区切られる。そんなドラムロールシステムいらないんですけど。 『歯医者ぜってーサボるから一緒に来てって言ってました』 『やべーーーー完全に忘れてました』 『私は完全に忘れてるって言うけど怒んないでねとも言われました』 『マジ?ありえないなそいつ。殺そうぜ』 『ねー』 ねー、じゃねえよと思ったけどお前だよ!みたいなツッコミが返って来なかっただけマシなんだろうか。 歯医者に実際行くかはともかく(死んでも行きたくない)、とりあえず彼を迎えに行かないといけないので、私はせかせかと階段を降りて有象無象の群れを突っ切る。この時期は授業のサボり方を知らない新入生がまだまだ多くて、キャンパスは人でいっぱいだ。私は人間全般がそんなに得意じゃないから、今の状況が結構厳しい。あー、だのうー、だの声を漏らしながらなんとか裏門の方まで行くと、学生服姿の男が一人立っているもんだから変な汗が出た。 「倫理!」 「……誰?」 「ごめん感情が先走った」 当然彼は倫理なんて名前ではなく、烏丸京介という普通の名前がある。私は普通って言葉が大嫌いだから、今こう考えてしまったことをかなーり後悔した。普通じゃなくて……なんだろう、覚えやすい名前?烏丸って確か京都の地名だったはずだから、京介って後の名前に繋がりやすい、と思う。 「……先輩?聞いてます?」 「え、あー、ごめん。考え事してた」 普段から一人で行動することが多いから、私はこんな風に思考を上手く制御できない。物事に集中し過ぎたり、人の話を聞いてなかったり。後者はかなり改善してきたけど、烏丸くんとか仲のいい友達とかの前ではここら辺がどうしても緩くなる。気を許しているというよりかは、怒られるか怒られないかで判断しているんだろう。 「…………先輩」 「あ、ごめん。またなってた」 「今日はやけに上の空ですね」 「そうかな。そうかなー」 「じゃあ歯医者に行きましょうか」 なんとか話を逸らそうと苦心した(一秒)ものの、速攻で釘を打たれてしまった。烏丸くんは基本的にしっかりしてるから。私以外の全人類私よりしっかりしてると思うけど。 「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」 「何でそんなに嫌なんですか?別に矯正の治療なら痛くなさそうですけど」 「怒られるのが嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」 「多分向こうもいちいちそんな気にしませんよ。珍しくもなんともありませんって」 「それはそれで嫌だ!」 「はあ」 烏丸くんはそんな気の抜けた返事をして、それから「じゃあ行きましょうか」と言った。こんな話聞いてくれない事ってあるんだ。びっくりした。 「あのね烏丸くん、別に矯正ってやんなくていいことなのよ。やらなくていい事をやりたくないわけよ」 「でも矯正って、調べたら結構お金かかってますよね。それなら尚更ちゃんと行った方が良いですよ」 「正論!」 そんな会話をしながら烏丸くんは当然のように私と手を繋ごうとするので、私はそれを当然のように外した。烏丸くんは一瞬こっちを見るけれど、何も言わない。こういう時、私は無性に目の前の男の子を殴り飛ばしたくて仕方なくなる。そうして数秒後には、そんな自分への嫌悪感と浅ましさで死にたくなるのだ。 だからではないけど、私は反射的に首元のハイネックを緩めた。今日は暖かすぎる。 「大体矯正だって母さんがやれって言ったんだよ。私じゃないんだよ」 「でもお金を出してるのは先輩のお母さんでしょう。尚更行った方がいいんじゃないですか」 「いぎょぎょがぎー!!」 「壊れた……」 あんまりにも正論しか出てこないので私は奇声を上げることにした。周囲の人間がチラチラこっちを見てくる気がするけど、知ったこっちゃない。文句は私を産んだ母さんに言ってくれ。私だって生きたくて生きてるわけじゃないんだから。 「先輩、ほら、行きましょう。遅刻したら印象悪いですよ」 「どうせもう既に印象最悪だもん……」 「今日夜でよかったら付き合えますから」 私はその言葉を聞いた瞬間、眉に力が籠るのが分かった。 「セックスしてくれるってこと?」 「それでもいいですけど、他にもしたいことがあるなら……」 「どうせセックスしかしないじゃん。そういう言い方気持ち悪くてムカつくんだよ。そういう、性欲を性愛で誤魔化そうみたいな…………」 頭が捻れていくような感覚。「ごめん」と零しても烏丸くんの顔はちっとも変わらない。ただただ静かな顔で「……どこかで休みますか」と言う。 「それこそ、ホテルでもいいですけど」 「いい。歯医者行く」 「……顔色、すごく悪いですよ」 「今セックスしたら絶対吐くから歯医者で良い」 私はセックスするのが好きだ。でも、性愛は嫌いで、苦手だった。だから本当は烏丸くんのことも苦手。 烏丸くんは───────私のことが好きだから。 結局私の方から烏丸くんの手を掴んで、彼を半ば引きずるようにして地下鉄に乗り込む。私が掴んだ彼の手は手汗でぬかるんでいて、彼は彼なりに思うところがあるのだと知った。