朝、起きる意味を見い出せない。 夜、眠る理由を作れない。 所謂精神疾患、というやつだ。病名は与えられないのに、薬が無いと生活出来ない。コンビニで買い物をするだけでも劣等感が湧き出てくる。通院歴は一年にも満たないが、病院に行くのが億劫になってきた。だって医者と話すことと言えば近況ぐらいで(カウンセリングは別料金だし)、具体的な治療方法を与えられる訳では無い。ストレスの根源をどうにかしろと言ったって、死ぬことしか思いつかない。最早処方箋を貰うためだけに通っているようなものだ。憂鬱。バスに揺られながら街中を見ていたら就活生だろうか、スーツを着た若い子達が横断歩道を渡る姿を目にする。 気が付くと、よく分からない涙が頬を伝っていて、いよいよ死にたくなった。
「このカフェ、行きたいんだけど」 突然現れた彼女は、SNSの画面を突きつけてくる。近すぎて焦点が合わないが、どうもケーキとかそういう感じの、若い子に人気の場所らしい。 「はあ」 「甘いもの、嫌いじゃないわよね」 桐絵さんはそう言うので、頷く。別に嫌いじゃない。特段好きというわけでもないけど。 「今週の土曜日、どうかしら」 「土曜日……」 頷こうとして、一瞬病院のことが頭をよぎった。予約制ではないものの、担当の医師がいる曜日は限られている。 (……でもまあ、どうせ、変わらないだろうし) 変わらないだろうし、という言葉が自分に返ってくるのを自覚しながら、「いいよ」となんでもないように返した。
「桐絵さん、ごめん、待った?」 「数分ね」 誤差よ、と零した彼女は可愛らしいワンピースを身にまとっているので「その服、可愛いね」と言うと「アンタもなかなかいい感じよ」と返ってくる。ありがとう、と言う口は何故か重い。 「それで、カフェが空くにはまだ時間があるけど、どうするの?」 「病院」 「……えっ?」 「アンタの病院。今日でしょう。カフェはその後」 確かに桐絵さんに通院のことは話していたし、病状(というには朧気だけど)もぼかしながら話すことがあったけど、この言い方だと病院に着いてくるらしい。彼女にこんなことを言われるのは初めてで、戸惑ってしまう。 「病院……着いてくるの?」 「ええ。でも外で待ってるつもり。流石にそこまで踏み入られたくはないでしょうし」 「い、いや。それはその、全然大丈夫だから……多分待合室もそこまで混んでないし……。ただ、時間すごくかかるけど、いいの?一時間は絶対経つよ……」 「そのぐらい分かってる。……じゃあ、アンタが不快じゃないのなら、着いていくわ」 保険証は持ってるわね、と尋ねる彼女にこくこくと頷きながら、どうしてこんなことになったのかと考えるものの、出てくるのは事前に予習したケーキのメニューばかりだった。 待合室は、基本的に隣同士で座る人はいない。ただ桐絵さんは一応自分の知り合いということで、隣に座っている。 白い廊下の白い椅子に座っていると、遠くからお爺さんががなる声がハウリングしてくるし、目の前のドアからはお婆さんがサタン信仰とレッドブルの話をしているのが聞こえてくる。色々と雑多だった。 桐絵さんが萎縮しないといいけど、とは思ったものの、彼女はただこちらの手をずっと握っているだけで何も言わなかった。スマホすら見ない。なんでだろう、と思って病院だからか、と当たり前のことに気がついた。いや、流石に通話はしないけど、画面を見るぐらいのことはしていたから、少し恥ずかしい。 「ねえ」 彼女が小さな声で囁いた。だからこちらも、思わず小さな声で「なに?」と返す。 「普段どんなこと話してるのか、聞いてもいい?」 「え、ああ、うん。でも別に大したことじゃないよ。最近どうですか、とか寝れてますか、とか嫌なことあったら言う感じで」 「……そうなのね」 彼女は興味深そうに頷いて、それからまた床をじっと見つめた。それを見て自分も同じように床を見る。 数拍してから、気を遣われているのかな、ということに思い至る。どうだろうか。でも、こうなった時からありとあらゆる人間に気は遣われていて、平常すらも曖昧だった。自分が病気なのか病気じゃないのか、頭がおかしいのかおかしくないのか、その境界線は思っていた何倍も曖昧で、毎日の占いより残酷だった。 (桐絵さんは、なんで手を握っているんだろう) そんなことも分からなくなってしまった自分が、少し悲しかった。