その隠れ家に唯一入り浸る少女は、心海の幼馴染だった。彼女は心海と違っていつもぐうたらとしていて、きちんと椅子に座って本を読む心海と違い、彼女は体に土が付くのも構わず、地面に横になって本を読む。 「……またそんな読み方をして。貴女が汚れてしまうのはもういいですけど、本だけは汚さないでくださいね」 「へーい」 「まったく。貴女のご両親も、心配しておられましたよ。先日も私のところにいらっしゃって……」 「げ、また来たの?無視しときゃあいいじゃん。あの人達、珊瑚宮様の信者なんだから」 確かに少女の両親は、珊瑚宮という存在に酷く傾倒しているふしがあった。我が子のことよりも先に、珊瑚宮の名前を出すぐらいには。けれど悪事を働くような人間でもなく、またお陰で心海と少女は仲良くなれたのだから、心海は両親の肩を持つことが多かった。 「ご両親をそんなふうに言ってはいけません。それに彼らは貴女のその弓の腕前を、誇りに思っていらっしゃいます」 少女は島の、下手をすれば稲妻一の弓の名手と言われている。昔から両親に教えこまれたその手腕は、隣の島の神の目まで届くとも言われたほどだ。けれど最近はこうしてうだうだと隠れ家で寝そべるばかりで、仕事の一つもしようとしない。 「無理にとは言いません。ですが今この状況下で貴女が軍の方に加わってくれれば……」 「───昔さ、鳥を撃ち落としたでしょう」 「………いえあの、何の話ですか?」 心海の話をちっとも聞いていないらしい少女は、「だから、鳥。心海が泣いちゃったやつ」と、背を向けながら言い続けた。 「ああ……確かに、ありましたね、そんなことが。私が無邪気に、あの鳥を触ってみたいとそんなことを言ったから……」
心海はあの時のことを、今でも覚えている。青い空の下で、白い鳥が一羽飛んでいた。それがあんまりにも綺麗で、美しくて、手を伸ばした。でも当然届かなくて、触ってみたいだなんてことを呟いて。次の瞬間には、鳥は羽を舞い散らしながら落ちてきた。 『ほら、心海。これで触れるよ』 そんな無邪気な言葉に、少女が何をしたのか心海にはすぐ理解が出来た。鳥は最早その軽やかさと美しさを失い、ただの肉塊と化している。垂れ流れる血の赤さに、心海は悲鳴を微かに上げた。 『心海?どうしたの、触らないの?』 『っ貴方は!どうしてこんな酷いことが……!』 『………な、泣かないでよ。心海、ごめん。君に泣かれると、私はどうしたらいいか分からなくなる……』 オロオロとする少女はそう言いながら心海の背中を擦る。その何が悪いのか分からない、と言わんばかりの態度が尚更、心海の心を凍りつかせた。 『…………約束してください。もう二度と、こんなことはしないって』 『分かった、心海がそう言うのなら………』
そんなことを言って、と回想していた心海は、ふと思い当たって顔を上げる。 「その……貴女が弓を持たなくなった理由は、あの時私があんなことを言ってしまったからですか……?」 少女の背中は微動だにしなかった。何度か彼女がページを捲る音が聞こえて、それからようやく「違うよ」と端的な返事が聞こえる。 それに安堵すればいいのか、それとも落胆すればいいのか、心海にはよく分からなかった。
▽
「なら、逃げようよ」
そんなことを、一度だけ心海は言われたことがある。あの隠れ家の中で、いつもみたいに少女は本を寝転がって読みながら、なんてことないように言った。 「あの、今……なんて」 「逃げようって言ったの」 「そんな、無責任なこと……」 「無責任なのは、心海を使おうとする、周囲の人間でしょう。誰も彼も珊瑚宮様珊瑚宮様って、本当に馬鹿みたい」 「そんな言い方…………」 思わず声が震える自分を、心海は恥じた。 本当は、心海は昔から少女のことが羨ましかった。弓の腕前だけではない。その、何の重みも感じさせない振る舞いが、あの日見た鳥のようで、美しく、羨ましく思われた。自分には無い羽が、彼女には見えたような気がした。 「……気持ちは、嬉しいです。私のことを慮ってくれる貴女の気持ちは。最早この島で私のことを友人だと認めてくれるのは……貴女だけかかもしれない」 「だったら、」 「だから、私は貴女がいてくれさえすれば、いいのです。それで…………」 「…………」 心海は心配をかけさせまいと笑った。けれど少女は笑わなかった。 それが心海には何故だか恐ろしかった。 どうして返事をしてくれないのかと、そう思った。
その日、夜の帳の中を心海は必死に走っていた。日頃様々な策を講じる彼女がこんなふうに走り回る姿など、きっと島の人間は見た事がないだろう。実際、心海の方だってそんなに走り慣れてはいない。けれど今日ばかりは息を切らしてでも走る必要があった。 「…………っ待って!」 「…………」 少女は海の上に、より正確には小舟の上に立っていた。まだ船は遠くはないが、それでも心の距離は酷く遠ざかっていると心海には感ぜられた。 「逃げるんですか!?」 恥も外聞もなく、心海は叫んだ。そこにいるのは珊瑚宮様なんかではなく、一人の少女だった。聡明で、まだ幼い、少女だった。 「…………心海」 「私を置いて、逃げるんですか!?私は……貴女さえいれば……それで……」 「……ねえ心海、違うんだよ。あの時私が鳥を撃ち落としたのは、きっかけこそ君の言葉だったかもしれないけれど、それよりもずっと、憎くて仕方が無かったんだ。自由に飛んでいくあの鳥が、憎かった。だから殺した」 「どうして今、そんな話を……」 言葉を失う心海に対して、少女は背中に背負っていた弓矢を、心海に向かって放り投げた。浅瀬に放り投げられたそれは、まるで死体のように浮いている。 「どうしても行かせたくないのなら、心海、君が私を射殺しなさい。昔、使い方なら私が教えてあげたでしょう。私は避けない。貴女になら当てられる」 「何を言うの!?私に……そんな酷いことが出来るわけないじゃない……!」 声を荒らげる心海の言葉にも、女の表情は変わらない。ただその腕が、櫂をゆっくりと動かし始める。気がつくと、心海は駆けだして弓矢を取り、少女に向けて構えてみせた。皮肉なことに、体は今でも動きを覚えていた。 「…………お願い、行かないで…………」 「心海」 「行かないでください……私にこんなことさせないで……」 「────心海!」 そう少女が叫ぶと同時に、心海の指先から矢が放たれた。それが自分の意思だったのか、それとも衝動だったのか、もう彼女本人には分からない。ただ一つ、確かなことがあるとすれば。 「……あ、ああ…………」 その矢が、少女の右目を貫いたということだけだ。けれど、激しく狼狽する心海とは反対に、少女は痛みと流れ出す血に顔をしかめるだけで、無言で矢を引き抜いて、海に捨てて見せた。 「ごめ、ごめんなさい……私……」 「…………別にいいよ。心海は昔から、優しい子だったから。こんな事になる気はしてた。卑怯なのは、私の方だ」 少女は皮肉げに笑って、それからもう一度大きく、櫂を動かした。行ってしまう、と頭では分かっているのに、心海はそこから動けずにいる。彼女の瞳から流れる血は、島の海に流れ落ちて、ゆっくりと溶けていく。 「さよなら、心海。どうか君の心が、この海と同じぐらい、凪いでしまう日が来ますように」 「………………」 そうして彼女は、海の果てへと消えていった。
それからの少女の行方を、誰もしらない。心海は、探すことすらしなかった。そんな暇は彼女には無かった。 ただ今でも、時折心海は海に出ると、その水面を掬って、口に運ぶ。彼女の血が混じった海を口に運んで、確かに飲み込む。それにまるで意味があるかのように、見せかけるために。