多分、その日は運が悪かったんだと思う。 私の範囲外じゃないことを言われて怒られて、それを上の人に行ったら通じなかったこととか、社長がいなかったから上司にききながら社長の代わりにやったことが、なんか全部間違ってダメだったこととか、そのことで上司が庇ってくれなかったこととか。
「う゛……う゛うっ゛……」
おかしくなる。頭が。頭が変になる。涙が出てくる。鼻水も。頭がおかしい。キチガイだ。ああわたしってキチガイ。キチガイ、気狂い、病気。アルプラゾラムを一錠飲んでトイレに駆け込む。呻く。壁にもたれて呻く。マスクを取って鼻をすする。大丈夫、薬は一時間前にも飲んだ。そう言い聞かせる。あまり長居は出来ない。すぐに戻らないと。泣いてるって思われたくないのに。 席に戻る。でも涙が止まらない。鼻水なんかもっと酷い。マスクの下がべしゃべしゃで、悲しくて、何が何だか分からなくなる。アルプラゾラムが飲みたくなる。違う、今のわたしにあるのはアルプラゾラムを飲みたい気持ちじゃなくて、自己破壊願望だ。あのとき、屋上から落ちてバラバラになった時みたいに、全部自分のことをめちゃくちゃにしたい、そしてわかってほしい。もうわたしがダメなんだって。わたしの心がぐちゃぐちゃの、バラバラの、ミンチになってるって。
────だってそうしないと、分かってくれないもんね。
高校生のわたしが囁く声を、わたしはその時確かに聞いた。気がつくとわたしは机においてあるくじらのポシェットからあるだけのアルプラゾラムを取り出す。二錠。それを飲む。そのままロッカーに向かって、今度は私のリュックに入ってるアルプラゾラムのシートを持ってきて、またデスクで飲んだ。五錠。 当てつけのように上司にわたしは薬を規定量以上飲んだので早退したらすみません、と送る。寒気がする。昔のことを思い出す。高校一年生の頃、あまりにも辛くて、辛かったことを沢山書いて担任に手紙を渡した。返事は来なかった。次の年からわたしはもう、その先生のクラスにはならなかった。ああ、この話もう何回目?わたしはいつも同じ話をしちゃってるな、色んなところで何度も何度も何度も何度も、それってなんだか惨めだし、わたしの亡霊が成仏できてない証拠なんだと思う。あの頃のわたしが永遠に成仏してくれない、ずっとここにいるんだね。
上司がわたしのメッセージに気づいて呼び出される。結局、わたしはわたしの病気のことを話す。今の今まで上司の中で健常者だったわたしは、あっという間に何をするか分からない要注意人物になる。 そこからの記憶はあまりない。終業時間までいたけど、電話を取ったら呂律が回らなくなって、隣の席の先輩と上司に止められて、次には電車に乗っていて先輩と別れて、その次にはテーブルの上にあるファストフードの袋とベッドの上のわたしと夜中の十一時を指すスマホの画面。わたしはもう一度目を瞑った。この世の全てから目を背けるみたいに。アルプラゾラムの眠気はあっけなくわたしを眠らせてくれた。
目が覚めて、午前六時から顔面蒼白。午前だけ休んで会社に行こうとしたけれど、先輩から心配半分お叱り半分のニュアンスでお前は今日来るな、と遠回りに言われて、わたしは暇になってしまった。 「暇だ……」 いや、やることはあるんだけど。部屋の掃除とか。 わたしは溜まっていた皿を洗ったり、洗濯物を回しながら、少年に「今日どっかで昼食べん?」とメッセージを送る。少年は簡単にオッケーしてくれたし、車で迎えを寄越そうかと言ったけど、勿論それは断った。自分で乗るとかじゃなくて、寄越す、だもん。 ファミレスで一緒に少し遅めのご飯を食べる。少年は会議だとかなんだとかがあって、ちゃんとしたスーツを着ていた。一方わたしは安っぽいてらてらよワンピースに、黒いリュックに、厚底のサンダル。パパ活に見えてなきゃいいんだけど、と思っていたら「援交というよりかは、離婚してから久しぶりに会った親子じゃないですか」と言われた。内心を読まないで欲しい。 「今日はなんて言って会社を休んだんですか」 「え、まあ、体調不良」 「そうですか」 なんか、ちゃんとしてるこの男にそうですか、と言われるとムカつく。私の当てつけに他ならないんだけど。でもやっぱ、ムカつく。 そう思って周囲を見たら、なんか、全員、わたしよりちゃんとしてるみたいに見えてきた。スーツの人、多分どっかの制服を着てる人、老人、このファミレスで働いてる人。みんなちゃんとしてる。みんな普通の顔をしてる。店内の囁きが全部耳に入ってくる。社会性のある会話たち。普通の営みの会話たち。
あ、帰りたいな。帰りたい。死にたい。今すごく。
「少年」 「はい?」 「ごめんわたし、もう帰る。帰りたい」 「……え、ちょっと!」 わたしは少年に1000円を叩きつけて、店を出た。少年はきちんとしてるから、追いかけるにせよ支払いを済ませないと出てこれない。わたしはそれを時間稼ぎに地下鉄の駅に飛び込んで、路線も分からず乗り込んだ。意味もなく次の次の駅で降りて、そこから家に帰る道を探す。とにかく帰りたい。帰りたいけど、どこに帰りたいのか分からない。 家に戻ったら涙が出て、わたしはまたアルプラゾラムを一錠飲んだ。それから寝た。少年からは、なんのメッセージもなかった。
次と次の次の日はお休みで、出社したわたしはいつも通りだ。えへへこの前はすみませんでした、もう全然元気ですよ、だいじょうぶ……です多分、みたいなことを言う。この会社に来てから、もう何度「大丈夫?」って聞かれたんだっけ。私は大丈夫?って質問が本当に嫌いで、そんなことを聞かれると咄嗟に大声で大丈夫だった時なんてないです!死ね全員死ね!と口走りそうになるわけなんだけど、今の私は健常者だからそんな事は言わない。 「昨日の天国さん、凄かったよ」 「え?」 「もうふらふらーってなって、そこのカウンターにもぶつかって、蹲って。電話取ろうとしたら横の2人に止められてたし……普段から目眩あんなふうなの?大変だね」 「………あはは。そうなんだ。全然記憶なくてヤバいね。ごめんね、迷惑かけて」 いや、違うか。もう健常者じゃなくなったんだった。そうだ、少なくとも上司のなかでわたしは『ちょっぴり』不安定な子になっちゃったし、同僚の中では『ちょっぴり』体調がバグってる子になった。記憶を失ってることもショックだったし、それで明らかな異常行動を撮ってることもすごくショックだ。ドラマや漫画で酒を飲みすぎて記憶がない、とか言ってる場面に共感出来なかったけど、その気持ちが今ならよく分かる。まあ、わたしが飲んだのは酒じゃなくて、頓服薬だけど。酒の方がまだ良かった。 家に帰ったら少年がいて、そうだろうなと思った。少年は合鍵を持ってるし、昨日の私は変だったし。でも今目の前に来られると、おかしくなる。 わたしは玄関でリュックを下ろして、スニーカーを脱ぐ。すぐ近くにあった、母親が勝手に買った真四角のフライパンを手に取るけど、重くてやっぱりやめた。同じく母親が勝手に買った小鍋を持つ。素麺を茹でてから洗ってないそれには、薄く乾いたゆで汁があって、でもそれはさしたる問題じゃない。わたしは無言で部屋に入ると、床に座ってこちらに背中を向けていた少年に向かってそれを振り下ろす。 ───ばごん、となんともまあわたしの人生みたいな中途半端な音がして、でもそれは少年の頭が凹んだ音ではなく、むしろ逆に少年の腕がわたしの鍋を凹ませた音だった。ああ。わたしの家ってこの鍋しかないのに。あーあ。 「………ばっかじゃないの」 「かやさんの方が馬鹿だと思いますけど」 「違う。これは今のわたしがわたしに言ってる」 そう言うと少年は悲しそうな顔をして、「なにがあったんですか」という。わたしはろくに話す気力もなくて「当てつけみたいに中途半端なODして中途半端に職場でラリって健常者じゃなくなった」と簡潔に伝え、ベッドに滑り込んだ。 「良かったね、わたしはまだ君の好きなわたしのままだよ」 「良くは無いでしょう。かやさんが苦しんでるのに」 「だからそれが、良かったじゃんって」 「……あのですね。気づいてないので言いますけど、その言い方だと、俺がかやさんの助けになってるみたいな感じになっちゃってますよ」 「………嘘。なっとらんよ」 「なっとりますよ」 思わず訛った言葉をパクられて腹立たしい。咄嗟に否定することが、事実そのものではなく言った言ってないのことなのも、腹立たしい。 「なんだか遠いとこにきちゃったな」 「遠い?」 「わたし、前はもっとビョーキだったもん。それなのにマシになったから、今度はビョーキとまともの狭間で悶えてる。変だよ。症状は改善されてるのに、高校から遠いところまで来たのに、なんでまた苦しんでるの?」 「それこそかやさんがよく言う、人には人の苦しみがってやつでしょう。他人だけじゃなくて、自分にも適用されてるんです。過去のかやさんが辛かったことと、現在のかやさんが辛いことに貴賎はないんです。かやさんはいつだって、今が一番苦しいって人でしょう。健常者とか、精神障害者とか、関係なくね」 「おい、いい事言ったふうに悪口言うなや」 「かやさんの方が口悪いので、バランスとってます」 わたしは布団に潜ってそこから暫くTwitterのタイムラインを眺めた。溢れる情報で脳味噌の濁流を何とかおしのけると、顔を出す。少年はまだいて「まだいるの?」とそのまま思ったことが口から出る。 「いますよ。ここにずっと」 「どこにも行けないじゃん」 「電車とかって別に自分は動いてないけど、移動はしてるじゃないですか。それも同じですよ」 「わたしのせいで正義くんが屁理屈野郎になっちゃった」 その言葉で少年が、いや、『正義くん』が振り返る。 「…………それでいくんですか」 「うん。なんか、もうやめたの」 「何を?」 「君の名前を憎むこと。だってそれって負けてるじゃん、なんか。だから百万回その名前を呼んで、噛み砕いてバラバラにする。なんの意味もない、無価値なものにする」 「また急ですね」 「そんでさっきはごめん」 「あーもう、本当に順番がめちゃくちゃだな」 彼は楽しげに笑って、「よっこいしょ」と呟きながら立った。べこっとした小鍋も一緒に。 「まあ、嫌になったら変えたらいいですし。そもそも俺は、お母さん呼びでもいいぐらいですし」 「まだ続いてたの、その設定」 「設定じゃなくて、目標です。俺の。かやさんの次のお母さんになるってのが」 「えーん正義くんがキモいよお……」 「泣き真似はいいですから。ほら、新しい鍋買いに行きますよ」 やだ、と言いたいけど、どうせ家には食べ物がなくてなにか買わないといけないので、仕方がない。わたしはのろのろと体を起こし、あたりまえのようにスニーカーの踵を踏んで、正義くんと一緒に外に出る。 「ちょっと、スニーカーの踵を踏まないでください。何度言わせるんですか」 「だって人間ってむずいもん」 「またそんなことを言う。かやさんは最初っから人間だったでしょう」 そりゃまあそうなんだけど、でもよく考えたらそうか?そうか。わたしって人間なのか。 「そう言われたらそうだったな」 健常者にも精神障害者にも中途半端なわたしだけど、それでも一応、人間だった。人間。わたしは踵を踏んだままのスニーカーでも立てている。おお、まうごとなき、人間。人間がうまい。 「なに急にニヤニヤしてるんですか……」 「いや、思い出し笑い」 嘘だけど。内心でそう呟いて、彼と同じエレベーターに入る。ずっと同じところにいて、移動していく。