「……こんな夜中にどこ行くんですか」 黒いワンピース、黒いコート、黒い髪。 三拍子揃った天国さんは、玄関前で振り返って、類まれなる笑顔で俺にピース。そして、 「うーん、死にに!」 軽やかに、そう言うのだった。
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「ラ、ラ、シードシラーシラソードシラーラードシーソーラーシーラーシー」 「………… もう突っ込む気力も無い。背筋を曲げて、ポケットに手を突っ込みながら、天国さんはずっと同じフレーズの歌を音階で繰り返していた。 死に行く、なんて言うから慌てて着いてきたものの、釈然としない心地がある。財布を持ってきていることだし。 「で、何処に行ってるんですかね、今は」 「んー、コンビニ。おやつ買おうと思って」 「コンビニ……」 その言葉を聞いた瞬間、脱力した。脳裏に心中未遂の件が過ぎって、慌てて着いてきた意味がまるで無いじゃないかと思った。いつもそうだ。死にたいなんて言って、へらへら笑って、俺ばかりが困って。普段は安堵だけで済むが、浅桐の言葉が呼び起こされて────言葉が、思ってもいない方向へ滑る。
「それなら、死にたいなんて、嘘だったんですね」
ひゅう、と息を吸いこむ音がした。それから、「ぁ」という言葉未満の震えた音が、空気を震わせた。俺じゃない。天国さんだ。天国さんは、はたと、その歩みを止めて立ち竦んで、一瞬迷った俺はその横を通り過ぎてしまう。 ────泣く、と思った。俺はいつもそうだ。泣くタイミングは分かっても、それ以上のことは何も出来ない。それに多分、俺は物凄く酷い気分になっていて、彼女が泣いたとしても、可哀想だなんてのは到底思えなかっただろうな。ざまあみろとすら思ってしまうのかもしれない。それでも、小走りで後ろから追いついてきた彼女は、泣かなかった。ただ、いつもより目を瞬かせていたから、堪えていたという方が正しいのかもしれない。 こんな時に限って泣かないこのひとが、俺はどうにも憎らしかった。泣けば、いつものことだと思えるのに、唇を噛んで、いつもより背筋を曲げて歩くだけだった。 静かな夜道に、彼女の鼻を啜る音だけが響く。コンビニの光が見えてくる頃には、俺の弱い意志では、到底この罪悪感に打ち勝つことが出来ないのが分かって、謝罪の言葉を考え始めていた。結局、彼女は最期まで怒りもしなければ、嫌味ひとつも言わない。こういうときだけ愁傷な態度をして、俺の心をズタズタにするのが上手い。 店に入って、天国さんはふらふらとお菓子のコーナーに入っていく。横目で見れば、ぼんやりとしていながらも、ポテトチップスを手に取っていた。心配したものの、取り敢えず何かを買う余裕はあるらしい。そう判断した俺はなんとなくそれに着いていくことが出来なくて、買う必要も無い紙パックのジュースを物色することにした。成分表を見て時間を潰す。 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。 そこまで手に取って、彼女から声がかからないことに気がつく。 嫌な予感がして、彼女が最初に居た棚を覗き込む。いない。全部の棚を探しても、彼女はいない。トイレの中にははなから誰もいなかった。 血の気が引いた。外に出ても彼女の姿は無い。怒って俺を置いて帰ったのなら、それで良かった。そうであって欲しかった。でももし、そうじゃなかったら。 今の天国さんの傍には、浅桐がいない。俺しかいないのに。 震える手で、彼女の端末に電話をかける。出ない。無機質な案内のアナウンスが流れる前に切った。もう一度かける。メッセージの方がいいかもしれないが、音という点では電話の方が確実だった。出ない。警察に連絡するべきだろうかと考え始めた三回目で、接続音が聞こえた。 「今どこにいるんですか!」 返事はない。ただ、浅い呼吸の音だけが電話口を通して聞こえてくる。彼女が生きていると分かっただけで、心の底から安堵した。 「ごめ、」 天国さんの声だ。ぽつりと零されたその言葉に、俺は到底いいですよだなんてことは言えなかった。言えるはずがなかった。彼女の声の後ろからは、車が通り過ぎていく音がしている。 「ご、めん。わたし、ちゃんと、死のうと、お、思って。でも、で、でき、な、くて。ごめん、なさ、い」 また軽い過呼吸を引き起こしているのか、言葉が途切れ途切れになっている。声は震えていて、どこまでも覚束無い。 「天国さん」 「ほ、ほんとう、なの。ちゃんと、死のうと、思って、いつも。でも、怖、くて、できなくて、ごめ、ごめんなさ、い。」 このひとは、こういうときだけ謝る。卑怯だ。どれだけ他人に酷いことをしても、最終的には自分で自分に一番酷いことをしてしまう。 「……そんなこと、出来なくたっていいんですよ。死ぬなんて、そんな」 「でも、でも、さあ。嘘つきに、なっちゃう、から。みんな、に、嘘つきだって、思、われ、ちゃう。な、なんで、まだ、死んで、ないんだ、ろうって」 「──────」 違う、と言い切れたら、どれだけ良かっただろう。ずっと、このひとはそう思ってきたんだろうか。生きていてよかったとは思えなくて、生き延びてしまったとしか思えずに。 「わたし、びょうきじゃ、ないんだよ。いしゃの、ひとが、いってた、から。あたまも、なにも、へんじゃ、なくて。ちょっと、ふあんな、だけ、だから、だから、ね、きみが、しんぱいして、くれるか、ち、とかなく、て」
「いきてて、ごめん、なさい……」
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ああ、浅桐、お前の言うことはやっぱり正しいんだろうな。 損害にして負債。彼女は間違っていた。俺が彼女を選んだのが間違いなんじゃなくて、選ばれた彼女が間違っていた。 俺の恋は、今この瞬間、確実に破綻した。負債と得た感情が逆転した。それほどまでに彼女の感情は重かった。見積もりを間違えたんだ。 だが、この場合の逆転とは何だろうか。恋の正逆。恋における負債。恋における損害。恋が破綻するとはどういうことか。 ────そして、正しい俺が、間違った彼女を選ぶのなら、それは正しいと言えるだろうか。間違っていると言えるだろうか。 間違っていると言うのなら、俺は間違っていたっていい。正しくなくたっていい。世界が正しさの定義に俺を使うのなら、俺は彼女の間違いの定義でありたい。 間違いだったと言って欲しい。俺の手を取って、間違ってしまったと、困ったように笑ってほしい。生きていたいだなんて、思ってもいないことなんて言わなくていいから、間違って欲しい。浅桐じゃなくて、俺の手をとって欲しい。間違っている彼女が間違ったことは、きっと一番正解に近い。本当は正解じゃないが、それはどこまでも正解のように見えるだろうから。正しさも間違いも、所詮その程度のものだ。その程度の価値しかない。
迎えに行こう、と思った。冬の日の出は早い。しばらくすれば、夜が明ける。そうすれば、彼女の夜のように真っ暗な心は見えなくなってしまうだろうから。また、なんでもないような顔をするだろうから。 俺は手遅れだった。手遅れだったから、あとはもう、手を取れたら勝ちなんじゃないか。そう開き直れるようには、なっている。
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天国さんは、公園のベンチに、ぽつんと座っていた。もう泣いてはいない。それどころか、こちらに手を上げる余裕もあった。 「あ、少年」 うすら笑みを浮かべて、なんでもないような顔をしている。それでも頬と鼻が赤かった。やっぱりこのひとは、泣いている時が一番、生気があると思う。 「……ね、気持ち悪いって思った?」 俺は少しだけ、考えて、頷く。 「思いました。すみません」 「いいよ。わたしも思ってるし」 彼女の心のほの暗さは、薄い朝の光に呑み込まれることがなく、まだ残っていた。 「わたし、今、なんとも思わないの。さっきまであれだけパニックになって、上手く呼吸が出来なくて、死なないといけないと思ってて、それなのに、今は何も思わないの。それが、すごく、怖いよ。感情も、気分も、ずっと定まらなくて上手く固まらなくて、ころころ変わって、それがすごく怖い…………」 手に爪がくい込むほど握りこんで、そう言う彼女は、懺悔しているようだった。無神論者だと言っていた彼女に、こんなことを思うのは、失礼かもしれないが。 「俺も、怖いです」 思ってもいない返答だったのだろうか、彼女が不思議そうな顔をした。前髪が目にかかるほど伸びているだなんて、どうでもいいことを思考してしまう。 「……わたしが?」 「いや。俺も、俺が怖いんです」
少年は、わたしの隣に座った。そうして、深く深呼吸をする。 「────浅桐に言われました。俺の恋とやらは、直ぐに破綻するって。それで、そうなりました。あれだけ俺は啖呵を切ったくせに、天国さんが、気持ちが悪いと思って、怖いと思って」 浅桐。出た名前に眉を潜める自分がいる。彼はどうにも浅桐と自分を比較したがるようだった。浅桐の代わりには誰もなれないんだから、比較するだけ無駄なのに、どうして分かってくれないんだろう。酷い言い方をしているのは分かっているけれど、わたしなんかのために無駄な足掻きをして欲しくはないのに。 「俺は────そんなふうに考えてしまう俺が、怖かった」 「そんな、怖くないよ。だって、わたし本人が気持ち悪いと思ってるんだよ? それなら、」 「そうですね。そうかもしれない。ただ、そうだとしても、どちらにせよ、俺が天国さんを利用して、恋をしているのは変わらない」 利用。言い方を、わざと悪くしていると思う。利用も取捨選択も、変わらないのに。確かに彼のそれを、綺麗なものだとは思わない。美しいものだとは思わない。そうだとしても、罰を受けるとすればわたしだ。そこまで考えて、ああ、と納得を得た。 彼は、きっと。
「わたしを好きなの、やめたい?」