悪い夢のようだ、と思った。彼女の感情がぐちゃぐちゃにない混ぜになっていく様は、どんな映画よりもグロテスクで、気分が悪くなる。 水をかけられたことよりも、そこに至るまでの彼女の挙動が、何ひとつとして理解出来なくて、それがまた恐ろしかった。1+1の答えが2以外存在しない世界で生きてきた俺にとって、彼女はまるで宇宙人だった。人の形をしているのに、どこまでも理解が及ばない。意味がわからない。正直なことを、言ってしまえば、なんておぞましいんだろうな、と考えていた。考えてしまった。それなのに俺は、何も怖くないですよというふうに、平然とした顔をしてしまう。泣かれるのが怖かった。気づかれてしまうのが怖かった。そんなことがあれば、この脆いひとは本当に死んでしまうんじゃないかと思うとゾッとした。 好きという言葉はこうも簡単に揺らいでいる。傷をつけてまで、押し通そうとした癖に、俺は彼女に刺した刃をわざわざ抜こうとしているのだ。それがどれだけ滑稽なことか。そして、正しくないことか。 頭を掻きむしりながら椅子を蹴った彼女を見て、後ずさる。無理だ、という言葉が脳裏を駆け巡った。寒気がする。どうにも出来ないということではなくて、生理的嫌悪。そのまま、俺は浅桐を探した。浅桐なら、どうにかしてくれるだろうという考えが根底にあったことを自覚して、また胸が軋む。それを無視して屋上に足を踏み入れれば、見慣れた長髪が見えた。 「浅桐」 「オレはお前に用は無いね」 振り返りもせず、返答だけが返ってくる。 「浅桐、頼む、聞いてくれ。天国さんが、」 「死んだか? 自殺でもしたか? 飛び降りたか?」 「……いや、ただ、」 「へえ。またどうせ喚き散らしてるんだろ。放っておけよ。朝になれば治る。時間経過でどうにかなるのが人間の数少ない長所だからなァ」 「朝になれば治るって、それは元に戻っただけだろう。天国さんの苦しみが、根治するわけじゃないんだろう」 「ああ!?」 浅桐はようやく手を止め、こちらを向く。怪訝な顔には、これ見よがしに不快だという紙が貼られているようだった。 「おい、お前はさっきから何を勘違いしてる。あいつのガタを治すのはお前の仕事じゃない。医者の仕事だ。薬の仕事だ。お優しい励ましの言葉とやらで風邪が治るのか? 骨折が治るのか?」 「……いいや、治らないな」 正論だった。俺には何も出来ない。彼女に有効なのは、薬、そして適切な医者の診断。素人の言葉でどうにか出来る問題じゃないのは、誰だって分かる。

「ああ──オレは天才だから良くわかったよ。志藤、お前────天国をどうにか肯定しようとしてるな? いや、肯定どころじゃない。お前は、あの女を〝使って〟自分の恋とやらを継続させようとしてやがる。だからこその、肯定だ」 「浅桐。俺を怒らせたいのか」 「いいや? そんな無駄なことに時間を使いたいとは欠片も思わないね。だからこれはオレが気に食わねえから飛ばしてる野次だよ。ヒーロー様のお前なら慣れてるだろ」 「浅桐」 「結局、お前はラブソングの歌詞みたく恋に恋してるんだよ。相手はあの愚図女じゃなくても良かった。だから愚図女でも良かった。理由があればそれで充分だった。だから今、ボロが出てる。理由だけで、補填が効かなくなった。あの女の錯乱を、お前は損害だと見なしたんだ。好意の損害。恋の損害」 「……損害とは、随分酷い言い草さね」 「酷いのはお前じゃなくてあの女の方だろ。お前が気にすることじゃない。お前は間違ってなんかいない。お前は正しい。あの女は間違ってる。それだけの話だ。順序が逆なんだよ。お前が正しいからあの女が間違うんじゃない、あの女が間違っているからお前が正しくなる。ただでさえ正しいお前が、もっと白くなる。それだけの話だ」

こいつはそんな惨い台詞を平然と吐き捨てた。作業をしながら、暇を弄ぶようにそれだけ言い放つ。俺は浅桐の言ったことが何一つとして許容できなかった。けれど、反論する術も思い浮かばなかった。

「結局、理由があれば誰でも良いんだよ。これは悪口じゃねえぞ。人間ってのはそう出来てる。理由があれば誰でも良いし、理由を見い出せば何だって出来る。それが面白い所だ。だがまあ、お前の理由はお前の恋を支えきれない。天国かやという人間の負荷を支えきれない。ゼリーを上から潰すみたいなもんだ。だから志藤、やめたいならやめろ。お前、そのうち破綻するぞ」 「……破綻? 天国さんじゃなくて俺が?」 「お前は天国を選んだ。天国は選ばれた。だからあの女も、お前じゃなくたって良かったんだよ。志藤正義じゃなくたって良かった。だから破綻するのはお前の方だ。先に選んだ、お前の方だ。だからやめる権利があるのもお前だよ。お前じゃなかったって話で済む。なんならオレがあの愚図女に言い聞かせてやったっていい。『志藤じゃなかったんだとよ。お前を選んだのは志藤じゃなかった』それで済む話だ。そう言えばあの女は、納得する」 浅桐はふと手を止め、俺の顔を見た。鼻で笑われた俺の顔は、今どうなっているんだろうな。 「お前、あの愚図女がなんて言ったか知ってるか?」 「……いいや」 「『好きって言ってもらえるのは、うれしい』だとよ────ほらな、誰でも良かったんだ。自分なんかを好きになってくれる人間なら、誰でも」

「誰でも良くて、でもお前しか来なかった。待ち合わせ場所には、お前しか来なかった」

「────だから最初から言ってるだろ。それだけの話だ。それだけの」

天国さんは、戻ってきた俺を見て、少しだけ嬉しそうな顔をした。それを見て俺は、嬉しいなんてことは、到底思えなかった。ただ、絞首台の上に立ったような心地で、口だけで怒ってみせた。顔もしかめてみせた。

どうして、このひとは、こんなにも。

俺じゃなくてもいいのに、俺しか来なかったなんて、どこまでも矛盾している。そして浅桐の言った通り、今まさに、俺の恋とやらは彼女の顔を見た瞬間に、破綻しそうになった。罪悪感と、責任と、彼女への寒気は、恋なんかで支えきれるわけがない。どうかしている。彼女の在り方は、本当にどうかしている。 普通の人間は、そんなことしないんですよ。正しい人間は、あんなひどいことを言わないんですよ。まともな人間は、飛び跳ねたり、急に水をかけたりもしないんですよ。なんて、そんなことは彼女が一番分かっているはずだった。 ────正しさも、普通も、全部勝手に決められたことなのに。俺達が知らない間に、彼女が産まれる前から、DNAにでも染み込んでいたのだろうか。だから俺の肌はこんなに粟立つんだろうか。 なんで俺なんだろう、とふと思って、笑った。それは散々彼女から投げかけられた問いで、それに俺は正しい答えが出せたことがあっただろうか。なんで俺は天国さんが好きなんだろうか。なんで嫌いなところがあっても、許容できるんだろうか。なんで許容できても、彼女の心の在り方を見ると恐ろしくなるんだろうか。本当に、本当に彼女が好きな人間なら────そうは、ならないんじゃないだろうか。さっきからそんな疑問ばかりだ。疑問で盾を作って、俺はなんとか立ってはいるが、こうまでしてこのひとの前で立つ必要があるのかと、それすらも疑問だった。 今、あの日に戻って、俺は同じことが出来るのか自信が無い。数ヶ月かけて出した結論も、傷つけてまで出した答えも、あっという間に脆くなった。腐食してしまった。 ────それも全部天国さんが悪いのだと、浅桐は言う。浅桐が言うのなら正しいんだろう。浅桐は俺を正しいと罵ったが、俺からすれば浅桐だって正しい。天国かやという人物に関して言えば、俺よりもずっと、浅桐真大は正しい。彼女が問いなら、答えは浅桐だ。俺じゃない。浅桐じゃない俺が、どれだけ正当化しようが、天国さんが悪いのだという事実は変わらない。変わらない。変わらない。変わらない。何回俺が唱えても変わらない。 ごめん、と彼女は零す。適当で粗末な謝罪だった。それでも、眉を下げた笑みで、俺にそう言った。 例えば、俺がこのひとに水をかけたとして、すぐに泣くのは目に見えていて、そういう所が狡いと思う。ひどいと思う。でも、そんな想像は簡単に付くのに、俺は彼女が頭を掻きむしる理由も、呻き声を出す理由も、何ひとつとして想像が付かない。不公平だ。そしてこの不公平さで、困る人間はきっと誰もいない。天国さん本人ですら困らない。俺も多分、困らなくなるんだろうな。困るのは今だけで、見慣れてしまえばなんてこともなくて、何も出来ないことは分かり切っているから、だから不公平さなんて無かったみたいに。

…………でも、それは、無かったことにはならないだろ。無かったことになって、全員が忘れたとしても、どこかの地面で、天国さんはまた蹲って泣くんだろう。無かったことには、ならないんだろう。無かったことにならないから、俺はこんなに、首が絞められる心地になってるんだろう。

それが分かったとしても、結局、俺は何も言えなかった。彼女の目は、見られなかった。