「なんで今日、外に出てたんですか?」 「んあ」 俺がそう問えば、歯ブラシを口に突っ込んだまま、天国さんは目を瞬かせた。口の端から歯磨き粉が零れているのは、指摘した方が良いのだろうか。 夜遅くの洗面台には俺達しかいない。というか、この時間帯でも彼女の服装は変わっていなかった。 「いや、今日皆がチョコレート作ってたじゃないですか。その時に急にふらっと外出て、帰ってこなかったので。どうしたのかと思って」 「ひみたちさあ、ひょこれーとがげんざひひょーならなんしてもひーと思ってなひ?」  微妙に言ってることが分かるので困る。 「……それはすみません。あと歯ブラシ突っ込んだまま喋るのは危ないので止めてください」 「んむー」 彼女は存外素直に歯ブラシを口から引っこ抜いて、うがいをした。あらためてこちらを向き直った彼女の眼鏡は少し下がっていて、その光景は妙に微笑ましい。鼻あてが微妙に合っていないのだろう。 「こんなこと言うと、スカしてると思われそうで嫌なんだけど」 そう前置きしながら、交代を示すかのようにして、手を洗面台に向けた。俺は歯磨きしながら話を聞くのか? 「なんかね、急に、うわーってなるのね?分かる?」 いや全く。歯を磨きながら首を横にふれば、それがツボに入ったのか、突然笑い声を上げた天国さんはいつものように引きつった笑い方をしながら膝から崩れ落ちた。感情が忙しい人だ。こうなると俺も慣れたもので、彼女がひーひーと声を上げて震えている間に歯を磨き終わらせる。天国さんの笑い声の方がなんなら長かった。 「んひひひ……で、なんの話だっけ……」 「天国さんの放浪癖です」 「放浪、放浪ねえ」 壁にもたれ掛かる彼女の背丈は当然俺より低い。視線を向ければ、上目遣いのそれと目が合う……すぐに逸らされたが。人の顔を見るのが得意ではないというのは、俺じゃなくても知っていることだ。 「放浪というよりも、なんだろうね。流刑癖? 」 小さい口から飛び出た言葉は、存外物騒だった。 「自分と他人の境界線が、昔から曖昧なんだよね。これでも」 これでも、という言葉は俺の顔を見て付け加えられた言葉だったように思える。 「例えばほら、他人の傷口を見ただけで、自分の痛みだと錯覚すること、あるでしょう」 痛み。傷。どれも耳が痛い言葉だった。 「……ありますね、確かに」 「その錯覚が、感情で起こっちゃうんだよね、わたし。それも中途半端な形で。つまり、感情の判別はされないで、どんな感情も苦痛として伝播される。こう言うと仰々しいけど、めちゃくちゃ過敏ってだけ。だからひとが多いところにいると耐えられなくなる」 「それは、その集団にですか」 「ううん。自分に。自分で自分に耐えられなくなって、自滅しちゃうんだよね。ゼリーを上から押しつぶすみたいに、ぐちゃって」 まるでその光景を見たかのように天国さんは語った。本人の体験談という意味では、間違いでは無いのだろうが。その口調はあっけらかんとしていた。 「みんなのことはすきだよ。程度の違いはあるけど、普通にいいひとだなーって思う。優しいなって思う。わたしはわたしのことがすきなひとたちがすきだから」 天国さんは唇の皮を無意識に剥がしていた。割れた皮膚からは血が膨らんでいて、爪には乾いた血が付着している。

「でも、嫌になる。理由はないけど、みんなから逃げたくなる。落ち着かないの。わたしが酸素の中に溶けて消えちゃう想像をして気分が悪くなる。ひとが多ければ多いほど、酸素が薄くなるような気がして呼吸が浅くなる。……くらくらする。肌を掻きむしる。唇の皮を剥がす。死にたくなる。耐えられない。加重を感じる。精神的な重力の負荷を感じる。そんなものないけど。でもわたしは感じてる。外に出ると誰もいなくて……音楽を聴く。音楽を聴いてる時だけはひとりだから、それで今日もみんなを窓から見てた……。みんな楽しそうで。殺してやりたいと思った。いいひとだなあと思った。……殺してやりたいと思った。別に、なんでもないよ。なんでもなくて……うん。見てたんだよね、聴いてた曲があって。風が気持ちよくて呼吸がしやすいから」

彼女の言葉は、徐々に歪んでいった。言動は徐々に事実の説明から心象風景のような覚束無いものに変わり、同じようなことを繰り返し口ずさみ始める。俺は呆然として、彼女がペラペラと発する中身のない言葉の羅列を右から左へと聞き流した。全部を手に取って思考するほどの余裕は無かった。 「あ」 突然、声を上げて、言葉の羅列が止まる。彼女は向かいの壁に向けていた視線を、ぐるりと俺の方に向けた。 「ごめん、眠たいとめちゃくちゃ脊髄反射で喋っちゃうんだよね。気にしないで。適当なことしか言ってないから」 「眠たい、んですか」 「めちゃくちゃねむたーい」 ぐらりと首を傾けたので、そのまま倒れるとのかと焦れば、足を伸ばして止まっている。息を吐く俺を見て、彼女はうすら笑みを浮かべた。 「浅桐のとこのチョコがやっぱ一番面白かったな。飛んでたし」 「ああ、俺のところですね」 少し、大人気ない言い方をしてみた。 「あれ、君、浅桐と同じ班だっけ? ごめん、わたし基本的に浅桐のことしか覚えられないからさあ」 ……もっと大人気ないというか、酷い答えが返ってきたので、閉口する。悪気が無いのが尚更悪い。悪気があっても悪いのは変わらないが。 「君とは違って、頭悪いんだよね。結構忘れっぽくて。教師に言われたこととかやられたこととかはずっと覚えてるんだけど……」 「その話はもうしなくていいです」 彼女のことだ、そのまま感情が悪い方向へ転がり落ちるのは目に見えている。そうなる前に止めれば、ええ、と不満げな声をこぼされた。 「話さないと忘れちゃうんだよ」 「そんな嫌なこと、忘れたら良いじゃないですか」 「────あー、いや、うん。そーなんだけど」 そうなんだけどさあ。 その言葉を最後に、俺達の間は沈黙で満たされてしまった。間違いを悟った俺が横目で盗み見た彼女は、目を瞑っている。怒っていないのなら、良かったと言えるのだろうか。怒ってもらった方がまだマシだっただろうか。彼女のルールは特殊で、浅桐以外には基本的に判定が厳しい。それを俺は嫌という程知っている。そうして身構えていても、彼女はずっと立ったまま目を瞑っていた。数十秒。数分経っても目が開かないので、俺は少し焦る。本当に寝てるんじゃないか、このひとは。 「て、天国さん」 「おきてるおきてる」 恐る恐るそう呼べば、青みがかった瞳と目が合った。 「寝るなら部屋で寝てくださいよ」 「寝てないよ? 瞑想してただけ」 「瞑想も部屋でしてください」 「あー言えばこー言う……」 どっちがだ、と言いかけて止まる。天国さんは、ぼたぼたと泣いていて、俺はまたか、と思った。そして数秒後に、またか、と思った自分に気づいて、背筋が凍る。 違和感が、無くなってきていた。彼女が泣くことも、苦しむことも、いつものことだと、そう思いかけた。そんなことがあっていいはずが無いのに、でも、俺は何も出来ないことが分かっていて、それは俺が悪いのか? 思考が歪んでいくのを感じる。気分が悪い。悪い夢を見ているようだった。彼女といると、自分の足元が揺らぐ感覚に襲われる。いろんな感情が、彼女の空洞に吸い込まれそうな感覚がある。 天国さんは俺が気づいていることに気づいていないのか、そのまま適当な返事をして、廊下を素足のまま歩いて行く。部屋まで送るだとか、そういうことをする余裕は無かった。ふらふらと歩いて行く彼女は、まるで夢遊病患者のようで、しばらく歩いて、遠くから俺の事を振り返り見る。 静かな顔だった。そして青白い。ただぼんやりと、遠くの空を見るような顔で、俺の事を見ていた。その細っこい手が上がって、俺に向けて振られる。 「ばいばーい」 小さな声は廊下に反響して、脳を直接揺らされたように気分が悪くなった。俺は何も言えずに、廊下に座り込む。そうしたらもう、天国さんは消えていた。