暗闇の中、呻き声だけが反響している。 「天国さん」 俺が彼女の名前を呼べば、呻き声は止まる。飼い主のような心地に一瞬だけなってしまうのは俺の頭がおかしいからか。彼女のヒレのように広がったワンピースの裾は、地面の埃をかき集めていた。それを見て、自分の顔が歪むのが分かる。見るに堪えない。 「汚れますよ。それ、一張羅なんでしょう」 「わたしより、ワンピースのしんぱい?」 彼女は涙をそのままにして、陳腐な台詞を吐く。俺はそんな台詞にも分かりやすく動揺を示して、しまう。彼女はそれに気づいたのか、こちらを見もせずに空笑いをした。あはは。ベタベタと床に頬を擦り付けている。 「うそだよ」 「……天国さん、部屋に行きましょう」 「いや、です」 いやです、ともう一度彼女は繰り返して体を丸めた。俺は、それを見て、ダンゴムシのようだと感想を得る。石裏に蠢く虫に、今の彼女はよく似ていた。 「なにか、嫌なことでもありましたか」 この様子だと、彼女は直ぐに立ち上がってはくれないだろう。ただでさえ、日頃から腰の重いひとだ。うん、今行くとぽつねんとこぼしてから動くまでにどれだけ時間のかかることか。簡単なことであればあるほど、彼女は出来ないらしくて、俺は心底それが理解できない。 俺は彼女の近くに座り込んだ。なんとはなしに覗き込んだ女の瞳は黒々としている。潤んだ瞳はどこまでも冷ややかだった。 ────それなのに、この人は、泣いている時が一番生気がある。生きているという気がする。頬が火照っているからそう思うのだろうか。表情が良くも悪くも豊かだからというのもあるのだろうが。 「生きていることは、いやだけどね」 希死念慮。自殺願望。死にたいと思うこと。 そして、彼女にまつわる感情で、最も大きいもの。どんな幸福も彼女をこの井戸からは出してくれない。のだと思う。少なくとも俺自身はこの不定形の理由にはなれない。 「嫌だけど?」 「いや、うーん、続きはないよう。ないの、あのねえ、だけどねはだけどねって意味」 やわい彼女の言葉は要領を得ない。呂律が上手く回っていないのか、言葉を区切りながらゆっくりと話す。俺は彼女が〝こういう〟人間であるということを知っている。ただ、知っていることと許容できるかどうかは全く別問題だ。俺は頷くことが出来ない。 「じゃあ、新しく嫌なことは無かったんですね」 なるべく、良いことだけを指摘してみる。 「うー」 ただ、そんな俺の考えを見抜いたのか、不満げな顔をされた。そうして今どき子供でもしないような拗ね方をしている。 「やっぱり何かありました?」 「うううー……ない。ない、けど、けどさあ。ないのに、さあ。なんでこんなになっちゃうのかなあ」 多分、俺の顔は今、笑っているんだろうな。笑ってるというか、まあ、微笑んでいるんだろう。そうでないとこのひとは泣くから。けどなあ、このひとを見ていると、俺の心まで歪んでいくような気がするんだよ。俺の頭がおかしいからか? ──どちらにせよ、何度見たって、この光景は耐えられない。そして俺は彼女が次に何を言い出すのか、嫌という程知ってるってわけだ。 「──わたし、あたまがおかしいのかなあ」 奥歯を噛みしめて、自分の感情を押し殺す。 「おかしくないですよ。ただ、ちょっと、変なふうに考えてしまうだけですよ」 おかしい。あんたの頭はおかしい。 ……なんて言ったら、泣くからなあ。 「ちょっとってさあ、どんくらい?」 「そうですね、小さじぐらいじゃないですか?」 「小さじって何グラムだっけ」 「5グラムですね」 「料理できんくせに…………」 それはそうなので俺は黙る。天国さんはようやく起き上がってくれるかと思いきや、うーだのあーだの呻きながら手足をばたばたと動かした。それはまるで水に打ち上げられた魚のように醜態で、なんなら埃も舞っている。掃除もしなきゃなあ。 「死…………なんでもない」 もうそこまで口に出したら言ったも同然だと思うのだが、彼女は俺の顔を見て急カーブした。なんでもなくはないだろうに。彼女の希死念慮はどんな悪癖よりも常習だった。同じ悪癖なら唇の皮を剥がす方が余程マシなのにな。 「少年、おやすみー」 「急に雑な会話の切り方をせんでくださいよ」 「おやすみ」 すやすや、とわざわざ声に出して彼女は目を閉じる。絶対に寝ていないのが目に見えて分かる辺りが若干腹立たしい。さて、どうしたもんだろうか。浅桐あたりならどうにかなるような気もするが、まあ、あれだ。一生そのままというのも困る。彼女にとっても、俺にしても。浅桐はいつも困っているらしいので省くが。 「天国さん、怖い話しましょうか」 「……クソガキが」 浅い考えにしては一番効果があったらしい。ありすぎたとも言える。沸点の浅い彼女の口は一瞬にして悪くなった。睨まれると、あの冬の日を思い出して背筋が凍る。俺が怖くなってどうするんだ。 「ホントうっとおしい……」 歪んだ顔からは熱が引いていて、それに安堵すればいいのか、向けられた刃物のような視線に怒ればいいのかよく分からなかった。ただ天国さんは今までの億劫さが嘘のように立ち上がって、ワンピースを手でぱたぱた叩く。ぐしゃぐしゃになった髪の毛をもっとぐしゃぐしゃにするようにして、頭をかいた。 「で? なんでここに居るの? 明日早いんじゃないの?」 人が変わったようにハキハキと彼女は喋る。ぼんやりとしていた瞳はいつもの様に気難しげなものに戻っていて、俺は未だにそれが恐ろしい。こうして人が変わったようになるたびに、俺が好きになったのはどっちなんだろうと考えたりもする。その答えを得るのが恐ろしい。 それはきっと、正しくないことだろうから。 「少年。浸るな。答えたくないなら無理にとは言わないけど」 「え、ああ、いや。心配だったので、その……」 「ふうん」 思わず彼女の顔色を伺うのは、例の件が確実にトラウマになっているのだと思う。あの時の彼女の顔は、一生夢に見るだろう。そして俺はこの先ずっとあの悪い夢に追いかけられるのだと思う。 「別に、大丈夫だよ。こんなのいつものことだし。迷惑かけるし」 大丈夫な訳が無い。だって彼女はこんなにもおかしい。どうかしている。 そんな俺の感情が顔に出ていたのか、それとも元来の過敏さで察したのか、補足説明のような口調で、彼女は俺に淡々と語った。
「大丈夫っていうのは、もういいですってこと。平気じゃなくて、結構ですってこと。君がどうにか出来るものじゃないってこと。そしてどうにか出来るものではなくて、世界を救うよりも優先度が低くて、そんなことに君が時間を割く必要はないってこと。ちなみにわたしは君がヒーローではなくて、ただの朝練がある男子高校生だとしても同じことを言うからね」
彼女の言葉は、あまりにも淡々とし過ぎていて、俺は彼女の腫れた唇をぼんやりと眺めながらそれを聞き流してしまう。いや、聞いてはいたが、どうにも我がことのようにして考えられなかった。 「……わたしの顔、なんかついてる? 涎とか出てたら早く言って欲しいんだけど」 「唇、痛そうだなと思ってました」 「……話聞いてた?」 「はい。聞いてました。俺の心配は無用の長物ってことですよね。あとは、天国さんが珍しく大人みたいなことを言うなあと思ってましたけど」 「うん、それはちょっとわたしも思ったよね。珍しくまともっぽいこと言ったなと思って。で、分かってくれた?」 「嫌です」 俺がそう言うと彼女は露骨に嫌そうな顔をするので、それが少し嬉しい。彼女が母親の次に愛しているのが浅桐で、浅桐に何よりも嫌そうな顔をするのを、俺はよく知っている。 「分かるなんて言葉は嘘なんですよね」 「うわ鬱陶しい───」 ほんとクソガキで困るわあ、と零した彼女の顔は相も変わらず歪んでいるけれど、そこに可愛げを見いだせるようになったのは俺にも余裕が出来たからだろうか──そういう癖なら少し困るが。 「言っておくけど、今日はまだマシな方だからね。わたしの情緒とか、そういうの。自分で言うのもあれだけど」 廊下を歩きながら呟かれた言葉は、どこまでもしんとしていた。他人事のように、彼女は自らの状況を俯瞰している。天気予報みたいだな、と俺なんかは陳腐な例えしか出来ないわけなんだが。浅桐はどう思うんだろうな。 「あと、ひどいこと言ってごめんね」 ……これは予想外。 「わたし、あたまがおかしいから仕方が無いんだ」 この自己弁護は想定内。 なので自分としては、 「────絶対許さないので大丈夫です」 彼女の舌打ちが俺たちしかいない廊下に響く。なんでこのひとはこんなにガラが悪いのか。笑ったら悪いかとも思って、俺は必死に口唇を噛むしか出来ない。