「最近さあ、三津木くんの現国見る機会があったんだけど」  レモネードを音を立てて啜りながら、天国さんは言った。彼女が文芸部に所属していたという話は聞いたことがあったし(本人から聞いたことはないが)、浅桐が理系なのもあって、文系を表明していることからもこの人選は正しいんじゃないだろうか。 「へえ、今の一年はなにやってるんですか」 「夏目漱石のこころ」 「定番ですね」 「分かる。わたしもやったもん。あとは羅生門とか、高瀬舟とか……ああ、山月記も」 「舞姫とかやりませんでした?」 「うわー! やったやった! 主人公の行動の是非を問うテンプレ問題にテンプレ回答しか集まって来なくてめちゃくちゃイライラしたことがあったもん」 「……怖いこと言いますね」 「そう? 浅桐もキレてたからてっきり……」  言い方はともかく、天国さんは普段の同じ時間よりも、状態は落ち着いているようだった。躁でも、抑鬱的でもない。落ち着いて椅子に座っているし、希死念慮を口には出さないで、言動も不安定じゃない。そのことに、思っていたよりも安堵した自分がいる。この安堵は、心配というよりも、むしろ、 「それで、少年に頼みたいことがあって」 「……え? ああ、すみません、なんですか?」  思考を遮られて返事がおろそかになる。彼女はきょとんとした顔で、 「ねむい?」  と端的に問う。俺がいや、と答える前に、首を傾げられた。 「コーヒー牛乳飲む?」  コーヒーじゃないんですかと返す暇もなく俺は噴き出してしまって、天国さんは困惑しているようだった。  そんなに面白いかなあ。君は本当に沸点が浅いなあ。  いつの日かと逆だなと思いながらもそれを指摘する余裕はない。彼女は釈然としない顔のまま、話を戻すけど、と呟いた。 「少年、文系だし頭も良いでしょう。だからわたしの代わりに三津木くんに教えてあげてくれないかなって」  珍しく褒められているような、気がする、が皮肉の可能性も否定できないので困る。それはともかく、 「俺は構いませんけど、何か用事でもできましたか?」 「いや、そうじゃないんだけど。わたし、現文の構造的説明が苦手というか、端的に言って、本文に答え書いてあるじゃん! 以外の説明ができないの」 「ああ……」 彼女の言わんとすることは分かった。こう言っては失礼かもしれないが、かなり〝納得〟できる。 「範囲は確か、先生の回想の下りだったかな。自殺したKの遺書を見るところまで」 「結構端折られましたね」 「そうなんだよねえ、わたしの好きなところも入ってなかったし」 「へえ、天国さんはどこが好きなんですか?」 軽い質問のつもりだった。  うん? と俺を一瞥した彼女は、コップを傾けて息を吐く。 「しかし君、恋とは罪悪ですよ。解っていますか」  一瞬の間を、俺は埋めようとする。 「……恋は罪悪ですか」 「それ、わたしに聞くの?」  彼女はそう言って苦笑した。この態度からするに、皮肉ではないのだと思う。底意地が悪いのは確かにそうだが。 「わたしは彼の意見に賛同したから、この箇所が好きなわけじゃないよ。定義が好きなんだ。感情の定義という行為。誰にも侵害されない行い」 定義。定義の余地があるという感情は、明文化されない余地をはらんでいるということで。

「大体、先生とKみたいな案件は特殊すぎるでしょう。先生自身が〝恋〟というものを、彼自身の回顧としてなのか、一般論として言っているのかは知らないけれど、どちらにせよ同意出来るひとは少ないんじゃないかな。同意したとしても、そこに至るまでの過程を見ていない」 「天国さんは、同意するひとが嫌いなんですね。恋敵が自殺するなんて経験をしたひとでないと、恋が罪悪であると言いきれないと。でもそれは、少し厳しすぎませんかね」 「そりゃあわたしは恋が分からないからね。意味も分からなければ重要性も分からない。理解出来ない。でもわたしはそれで困らない───困るのは君の方だ。そして、厳しいと感じているのも君でしょうが」

(黙ったなあ)  脳裏で繰り返してレモネードをもう一度啜る。水の量が多かったのか、粉が少なかったのか味が薄い。目分量というシステムは苦手だ。自分の中で怯えが生まれるから。  少年は相も変わらず何も言わない。ただ、何か言おうとして、口を動かしては噤むことを繰り返している。わたしは彼のカウンセラーでもなんでもないから、それを死んだ目で見ているのだと思う。自分の内心は客観視できるけれど、外見はそうもいかない。この間なんて、なんか怒ってます? って聞かれたけどあれ結局眠かっただけだからなあ。わたしはわたしが思ってるよりも怖い顔をしているのかもしれない────でも、そのぐらいでわたしのことを諦めて欲しくないと思ってしまうのは、傲慢なんだろうか。わたしはこの歳になっても、子供みたいに色んなものを欲しがってしまうからよく分からない。傲慢だと神様に罰を与えられたとしても、きっと小首を傾げている自信がある。理解出来ない。なんで全部欲しがらないんだろう。欲しいものは全部持っていくべきだ。例え最後に残るのはひとつだとしても、手に取ることを諦める理由にはならない。  少年だってそうだ。わたしは本当は、君の恋だって諦めてほしくないって思ってるんだぜー。まあすごく他人事で言ってみたけど。というか今でも他人事なんだけど。もしも君がわたし以外のひとを好きになっていたら、わたしはそう言い含めていたと思う。このいい子ちゃんに、地面を這うことを崖から突き落としてでも教えこんでいただろう。叩き込んでいただろう。ここら辺、浅桐と被っていて困っちゃうな。キャラ被りは致命的だ。  ……今日は思考がやけに冴えている。冴えすぎている。薬が良い方向に効いているのか悪い方向に効いているのか分からない。バタバタしたくはならないけど、思考が濁流のように流れ込んでぐるぐるする。こうして頭の中だけでも喋り続けていないと気が狂いそうだ。喋って、整理して、淀みなく言葉を流し込んでいく。本当は今すぐにでも目の前の彼に捲し立ててしまいたいけれど、そんなことしたらいよいよ虐めだから。 多分、多分だけど。彼の恋とやらはものすごく浅いのだと思う。愛情の深さとかどれくらい好きかとかそんなクソみたいな物差しじゃなくて、解像度として。新種のウイルスみたいなもの。理由も、構造も、感情がどんなふうに組み立てられて、原初の場所も分からない。わたしはそんな彼の恋を、感情を解剖したい。解体したい。あの時からずっと、そう思っている。けれど残念なことにこれは興味と言うよりも、わたしのいつもの自己防衛としての機構だ。分からないものは恐ろしい。触れれば痛い。その高度差による耳鳴りみたいなものを、わたしはどうにかして埋めたいのだ。理解すれば理解するほどこちらに毒が回る可能性はあるけれど、分からないことへの恐怖の方が上回る。だから問うているのに、返事が来ない。だから多分、下手をすれば彼とわたしの解像度は同じところにある────そんな馬鹿な話があるか、と思うけど。 欲が無いのだ。致命的なほど。謙虚さと欲の無さを履き違えている。……まあ、わたしの苦痛を押しのけてあんなことを言ってのけたんだから、無かったのだ、と過去形に言い替えた方が良いのかもしれない。どちらにせよ、下手なのには変わらない。わたしは恋が分からないし頭もちょっとへんだけど(だからこそ、かもしれない)、欲に関しては地獄に堕ちるほどある。だってわたしなんかは、浅桐の全部が欲しいわけだし。浅桐の運命も未来も過去も人生も全部が欲しい。食べちゃいたいぐらい好きで、食べちゃいたいぐらい憎い。だから彼の全部を取り込んでしまいたい。同じになりたい。そういうの、無いのかな。正義は勝つとかよく言うけれど、正義じゃなかったら勝ちたいとすら思わないのかな。 「俺、は」 ようやく、彼がその口を開いた。わたしは相も変わらず彼の目を見るのが恐ろしくて、濡れそぼったコップの縁を見ている。 「多分分かってもらわなくて、も、困らないんじゃ、ないかな、と……?」 疑問形。自分で自分が何を言ってるか、少年本人も分かっていないようだった。困ったように眉が下がって、わたしを見ている。そんな顔をされても、わたしは君のことなんか何も分かんないよ。ただまあ、雑な翻訳をしてみれば。 「へえ、そうなんだ。じゃあ君はわたしにしてほしいことも無くて、されたいことも無くて、望むものも無くて」 ……言ったら怒るかなあ。怒れないだろうな。だって、その理由がないんだから。 「────じゃあ君は、何をしてるの?」

「何をって、それは……」 「恋をしてるって? それなら恋って何? 恋の定義は何? それは罪悪だと思う? そう?違う? それとも部分的にそうだったり違ったりする? 恋をするということはどういうこと?」 天国さんにそう捲し立てられて、俺は頭が真っ白になった。俺は出来た人間じゃないが、それでもどんな会合でもこんなことにはならないのに、このひとと、あとはそう、浅桐の前だと思考が止まってしまう。身動きが取れなくなる。彼女が俺の目を見ていなくて、心底良かったと思うしか出来ない。 「恋は罪悪なんて台詞が有名だけど、わたしはその後の台詞の方が好きなんだ。『とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ』」 その引用の仕方は、彼女が忌み嫌う教師のようだった。言い含めるように、噛み砕くように、俺に向けてバラバラと言葉を撒いていく。 「ね、あんなことをしでかした先生が、それでもまだ恋を神聖だと呼ぶ理由の方が、ずっと興味深いと思わない? 彼の恋の定義とやらを、わたしは聞いてみたいと思うよ」 「聞いて、どうするんですか」 「逆張りをする。恋は神聖なものでは無いと言うよ。この世に本当に神聖なものなんて何一つないんだ。どこもかしこも手垢だらけ。恋は罪悪なんて台詞も、触れられ過ぎてきっと薄汚れているだろうから」 「……俺も、そこだけは、恋は神聖なものでは無いという点に関してだけは、同意できるかも、しれません」 「しれませんって何?」 「……同意します」 怒っている、のだと思う。相変わらず俺の目を見ないのに、目を細めて頬杖をついていた。それでもこのひとが、浅桐じゃなく俺なんかを怒るのは、多分そんなに無いことで。 この形だけの行いで、俺は、こんなにも。

────どうして、これだけじゃ駄目なんだろうか。