「今日はめちゃくちゃ元気がある! とても! すごく! わーい!」 そう俺に向けて言った彼女は、まるでスキップするように廊下の端から端をばたばたと走る。 ここは子供たちが遊ぶ公園なんかじゃなく、いつもの施設で、丑三つ時だった。それなのに、彼女の表情は、日中よりも明るかった。 ────不自然なほどに。異常なほどに。 付けていたイヤホンの片割れが外れても、そんなことは知らぬというように今度はその場で跳び始めた。いわゆる、ジャンプ。垂直跳びとも言う。飛ぶたびに、彼女のワンピースの裾がひらひらと舞った。 「て、んごくさん」 名前を呼べば、少しの距離なのにも関わらず、物凄い勢いで走ってくる。避ける間もなく、彼女は俺の腹に勢いよくぶつかって、それからぴたりと動きを止めた。  青みがかった目がこちらを見ている。身長差がいつもより酷くて、首が痛い。 「──わたし、あたまおかしいね?」 ……また答えにくいことを。 わはは。そう零して、俺から離れる。 ぜひぜひと喘いでいる彼女は、椅子に座り込んで呼吸を整えていた。電気の消された食堂には俺達以外誰もいない。 どこかで水が落ちる音がして、それが気になったのか、ぎゃあ(本当にそう言った)と声を上げたかと思えば、また走って蛇口を止めに行った。 俺がそれを呆然と眺めている間に、彼女のイヤホンからは俺が知らない音楽が、静かなこの場に逆らうようにちゃかちゃかと流れている。 「め、っ、はー、めちゃく、ちゃ疲れた」 戻ってきたかと思えば、ぐったりと机に伏せてしまう。それはそうだろう。一気にあれだけ動けば短距離走と同等の負荷がかかっているはずだ。長距離を走る前、体を温める方法としてその場で足を膝まで上げ走る、なんて心拍数を無理やり引き上げるやり方があったと思うが、そもそも彼女は長距離走者ではない。昔、長距離走を体育で課せられた時、彼女は限界ギリギリまではゆるやかに走り、最後の一周で全力疾走をしたという話を聞いたことがあった(又聞きなのが納得いかない)。それもまた心臓に負荷をかける方法で──いや、だからこういうことが出来るのか? 順序を知らないので逆かもしれないが。まあ、そんなことを考えても仕方が無い。 「めちゃくちゃ心臓がバクバクしてる。触る?」 「心臓はちょっと……」 位置が位置だ。 「血もめちゃくちゃバクバクしてる。いや、神経だこれ。血脈? なんか違うな……触る?」 「じゃあ血液……? 神経? を」 曖昧なまま、彼女の手首に触れて脈を測る。当たり前のように青白くて、当たり前のように細くて、当たり前のようにひんやりとしている。それなのに、脈があるのはどうにも当たり前だと思えなかった。俺はこのひとをなんだと思っているのだろう。 「……脈がありますね」 「そりゃああるよ! 人間だもん!」 今度はきゃらきゃらと笑った天国さんは、つぼに嵌ったのかそれからしばらくずっと笑っていた。ただ、その笑い方は少し過剰だ。少し変な、引きつり気味の笑い方は、いつの間にか過呼吸に変わって俺は慌てて彼女の背をさする。そんな俺を見て天国さんはまた笑うものだから、過呼吸の連鎖が止まらない。 ようやく笑い終わったのか、彼女の呼吸はゆっくりと収まる。最後の笑い声を引っ込めた彼女は、大きく息を吸って、吐いた。その時の彼女の顔は、どこまでも静かで。 「……死にたいなあ」 脈絡もなく、こんなことを言う────だから悪い夢みたいだな、と思った。さっきまで笑っていてばたばたと走っていた人間が、今度はぼんやりとした顔をして希死念慮を引き起こしている。たった十数分の出来事だった。思わず目を逸らしてしまいたくなるような、歪さ。ただこの歪さは、恐らく俺が目にしたことがないだけで、彼女唯一のものではないのだろう。たまたま、俺は彼女が初めてだったというだけで。そう考えると歪だと考えた自分が浅ましいような気がして、俺は黙りこくるしかない。

「……わたしね、昔からああやって飛び跳ねちゃうんだよね。家だけだよ。学校とか、なんか、やっちゃいけない時はわかるし抑えられるんだけど。感情がめちゃくちゃになると、うわあって走り出したくなって、飛びたくなって、バタバタしちゃう。母さんも昔は何も言わなかったんだけど、まだわたしがこれやってるって知って『あんた頭おかしいんじゃないの? 病院で見てもらえば?』って」 「……それは、」

彼女はなんてことないような顔で、爪の間の皮脂をほじくり返しながら、そう言った。実際、彼女にとってはなんてことがないのかもしれない。理解されなくて当然。理解されないのなら切り捨てる。ずっとそうしてきた彼女の人生は幸か不幸かという議論を、俺がする権利は持たない────けれど。けれどそれは、あまりにも。 「で、まあ。カウンセリングのついでに言ったんだ。説明した。そしたらその病院の先生も困ってた。一応、こうかもしれないですねってのはあったんだけど。でも学校とかそういう場で自制できるってところが当てはまらなくて。そのままになってる」

天国さんはそのまま涙を垂れ流し始めたが、それでも顔を歪めることはなく、それどころかぼんやりとしたままだった。陳列された自分の感情を手に取って眺めるような、そんな他人行儀な言い方をしているように見えた。ここまで生々しい感情の変遷を、俺は見たことが無い。     正直なところ、気分が悪かった。風邪を引き始めた時のように薄ら寒い感覚だけがする。 勝手に、感化されているのは俺の方なのに。

「なんか、結構さあ、ショックだったんだよね。ほんと飛び跳ねたりバタバタするのって昔からのことで母さんは何も言わなくて、だからなんか、勝手にゆるされた気になってたんだよ。そしたら急に頭がおかしいって言われたから、ああ、それは初耳だなあって」 彼女が眼鏡を外せば、少し目にかかった前髪の中の瞳と目が合う。それは直ぐに彼女の指で見えなくなった。目を擦って、浅い呼吸をする。 「……一番、こわいのは。やめようと思っても、やめられない自分がこわい。楽しくて、やめられなくて、そのまま冷蔵庫に向かってバーンってやるんだよ。でね、なんかセンサーが反応して音が鳴って母さんに怒られる。馬鹿みたいでしょ。……馬鹿みたいだけど、本当の話なんだよ。楽しいのも、ほんと。こわいのも、ほんと」

きっと、彼女に対して頭がおかしいと言うのも、頭がおかしくないですと言うのも、どちらも正しくないのだろう。おかしさも、正しさも、俺の尺度で、つまりそれは世界の尺度だ。俺は世界から見て正しいと判定される側に居る自覚がある。傲慢だとかそれ以前に、そうであるように育ってきたという自覚が存在している。だから、それなら、彼女はおかしいのかもしれない。この世界は、たったそれだけのことで、彼女が苦しみを反芻するに足る理由になる。そういうふうに出来ていて、俺はそれが酷く哀しかった。どうにもならないことが横たわっているだけなら、まだ自分を哀れむだけでいい。ただ、それが彼女のことになれば、それこそ簡単に哀しむ理由にもなるのだ。俺は都合よく出来ている。天国さんに都合のいいように出来ている。彼女の都合の悪い世界に居る俺が、彼女の都合のいいように出来ているのは皮肉でしかない。 「本当は少年の前で、というか皆の前でやんないようにしてたんだけど。もうやっちゃったからなあ。もうずっとやっちゃお。死ぬまでやっちゃお」 彼女はそう言って、薄ら笑みを浮かべる。申し訳程度の、安いラッピングのような笑みはどこまでも乾き切っている。 俺が言葉を探しあぐねている間、天国さんは先程のけたたましさが嘘みたいに黙っていた。たまに水を飲むけれど、あくまで暇潰しといった様子で、ちみちみと飲む。今日も唇が赤い。そうしたかと思えば、今度はイヤホンをぶら下げたままのミュージックプレイヤーをスクロールさせていた。俺は彼女がどんな音楽を聴くのか知らない。そもそも自分はあまり世間の流行に詳しい方ではないのだ。 「……天国さん、何聴くんですか?」 「んん?」 それは、あまりに陳腐な質問だった。彼女の顔にもどうしてそんなつまらなくて普遍的で陳腐なことを聴くのかとかいてある────こういうところは浅桐と似ている気がするが、言っても喜ばせるだけなので黙っておくことにする。ああそれで、なんの話だったか。天国さんは俺に対する判定が厳しいって話だったか? 「跳びはねてしまうぐらいの曲なら俺も聴きたいです」 「おやまあ、君にしては珍しく良いことを言うね」 ……珍しく、本当に珍しく通った。浅桐に言ってやろうか。嫌がるのは目に見えているけどな。 ちょっと待ってね、と画面から目を離さないで零した彼女は、ずっと画面をスクロールさせていく。あるところで器用にぴたりと止めて、ぐちゃぐちゃになっているイヤホンの片側を俺に差し出す。耳につけろということらしかった。

「きーがーくるいそうー」 歌詞を追いかける彼女の間延びした声だけが響く。知らない人間が、気が狂いそうと高らかに歌う声は、胸のすく思いがした。俺もまた、彼女あるいは彼に倣うようにして気が狂いそうと呟く。 口に出してしまえば本当にそうなりそうな気がして、俺は少し怖かった。