「浅桐さあ、少年になんか余計な事言った?」 「少年って誰だよ」 「少年は…………え? 誰だっけ……」 浅桐が凄いものを見るような目でわたしを見ているのが腹立たしい。 「いや違うんだよ。あるでしょうほら、略称で呼び過ぎてて正式名称を忘れるようなことが。あるだろうが。あるって言え」 「脅すな」 「食パンの正式名称は?」 「そりゃあお前食用パンだろ」 「はい残念──! 主食用パンでーす!」 途端持ってたレンチを振りかざしてきたので、わたしはそれを両手で押さえ込んだ。多分めちゃくちゃにキレている。キレるな。わたしが浅桐の立場だったらめちゃくちゃキレてるけど、わたしは残念ながら浅桐ではないのだ。ちょっと哲学的。 「思い出した思い出した! 志藤! 志藤正義!」 「いいから早くお前の頭カチ割らせろ……そうしたらまた教えてやるよ……!」 「脳みそ壊す前提で話すなあ──!」 レンチで人の頭を壊すことは暴行罪にあたることを思い出したのか、浅桐は舌打ち混じりに腕を下ろす。無駄な体力を使ったわたし達はぜひぜひと息を荒らげてめちゃくちゃ馬鹿だった。 「それでなんの話だっけ?」 「志藤」 「そうそう。志藤になんか言った?」 「へえ、いつの話だよそれは」 「……待って、いつの話って言った? 何? 時期によってはしたってこと?」 「知らねーなあ」 「おいお前ほんとふざけるなよマジで……」 がくがくと浅桐を揺らせども目線が合わないので、確信犯だ。このひとは、余計なことしかしなくて困る。本当にして欲しいことは、何一つとして、してくれないくせに。 「まあ、過去のことはともかく。ここ数週間。何かした覚えある?」 「ない。お前らがこっ恥ずかしいことをしてた以外ない。ギリギリ見るに堪えたけどな」 今度はわたしがレンチを持つ羽目になった。

かくして、今日も少年はそこに居た。居たというよりも、辿り着いたというべきか。今度から絶対に不可侵の場所に行くべきかもしれない。女子トイレの個室とか──あまり、良い思い出がないから行きたくないんだけど。 今日の体調、というか精神衛生は相も変わらず低空飛行で最悪だった。抑鬱気味なのはいつものことだけど、いつもより気分がむしゃくしゃする。こういう日はよくあって、本当に、ひどいことしか考えられない。普段あれだけ可愛がっているぬいぐるみを壁に叩きつける。首根っこを引っ掴んで、何度も、何度も。ぬいぐるみの良いところは、自我がない所だなんて酷いことを平然と思ってしまう。でもそれだけじゃ全然物足りなくて、頭の中でいろんな人を殴りつけた。頭の中のわたしはいつも金属バットを持っていて、他人の顔ばかりを狙っているのだ。本当にどうかしていると思うけれど、どうかしていると思うことすら、自己弁護にしかなり得ないんじゃないかと考えたら、首がしまる思いがした。これも自己弁護かな、わはは。笑い事じゃないのになんとなく茶化してしまうのは、わたしの悪癖だと思う。防衛本能と言えば聞こえがいいだろうけど。 話を戻す。本当に頭がおかしいひとは、頭がおかしいことにも、気が付かないんじゃないだろうか。それならわたしのやっていることはただの狂言だ。見世物にすらならない、ぐだくださ。ぐだぐだな見世物というのはわたしや浅桐がこの世で最も忌み嫌うもので、ああ、本当に生きてる意味がなくて困る。 でも、もっと突き抜けた自己弁護をさせて貰えるのなら。おかしい自覚があるのも、結構辛いんだよ。実は。寝ている間に車に轢かれるのと、目が覚めた状態で轢かれるのなら、絶対に前者の方がマシに決まってる。この喩えがあってるのか分からないけど、とどのつまり、どんどんおかしくなるわたしを見ているわたしは気が狂いそうになるのだ。自分の心が捻れていく度に、軋んでいく度に。ヒーロー達、特に正しさの権化みたいなおとこのこなんて、格好の比較対象だから。余計に捻れだとか歪みだとか、そういう奇形さを自覚して──自覚する余裕があるから、おかしくなりきれないんだと思って。気持ちが悪いよ、本当。わたしが言うんだから間違いない。本人が言うんだから間違いない。あーあ、この気持ちの悪い人間ごと今すぐ地球、滅亡してくれないかな。わたしが一番言っちゃいけない台詞なんだけどね。 「天国さん」 坂を転がるような思考を遮って、志藤正義くんはそう言った。志藤正義くんは、そう口に出した。それだけのことだった。本当に、それだけ。別に、何をされたわけでもなくて、わたしが返事を返せばそれでいいんだけど。 だけどさあ。なんでこんなに、暴力を振るいたくなるんだろう。顔を殴ってやりたいと思うんだろう。痛ましいことが起こればいいと想像してしまうんだろう。そしてそれは、わたしの頭がどうかしているという以上に、なにか理由があるんだろうか。あるはずないよね、分かってるよ。分かってたよ。 わたしはいてもたってもいられなくなって、めちゃくちゃな椅子の引き方をする。小走りでキッチンのコップを取って、思い切り蛇口をひねれば、当然物凄い勢いで水が出てきた。あっという間に満杯になった。当然だ。本当に、当然。そんなことでも頭がくらくらする。わたしは自分が生きてること、当然だって思えないのに。 コップを持って、また椅子に座る。目の前の彼は、不思議そうな顔をしていたから。いたから? 理由にはならない。理性では分かっているけれど、感情が言うことを聞いてくれない。

──水をかけた。彼の顔に。別れ際のカップルみたいな感じで、わたしは躊躇なく全部ぶっかけた。かけられた当の彼は呆然としている。それすらも腹立たしい。どうかしている。本当にどうかしている。どうかしている人間は他人に迷惑をかけるから生きてちゃいけない。死なないと。早く死なないと。呼吸が浅くなって、コップを地面に落としてしまう。プラスチック製で良かったなあと理性が状況を客観視している。

「……天国さん」 コップを拾おうとしてそのまま地面にへたりこんだわたしに、視線を合わせるようにして彼の顔があった。思っていたよりも、静かな顔をしている。慣れたのかな、と他人事のように思った。可哀想だ、こんなことに、慣れてしまって。 「深呼吸しましょう」 「嫌」 反射的に拒否反応が口をついて出る。それでも彼は、怒りもしなかった。ただ、水の滴り落ちる眼鏡をかけっぱなしにしていて、それはどれだけ煩わしいことだろうかと考える。わたしは、それを知っているから。だって、眼鏡を外さないと上手く泣けないんだ。 「六秒吸って、二秒止めて、それから」 「嫌……」 無理。無理だよ。呼吸なんてしたくないんだよ。今度は体が拒否反応を示して噎せた。生きていたくないのに。頭をかきむしれば喉の奥から汚い声が零れて、理性で少し笑った。感情は相も変わらず泣いている。何もかもが嫌。体を横たえて、机の脚をぼんやりと見る。それと少年の足。顔は見ようとも思わない。見なくても分かるから。椅子を横になったまま蹴れば、音を立てて倒れた。静かだからその音は思っていた何倍も響いて、それでまた泣いた。なんでこんな目に遭ってるんだろう。吐けたら良かったのに、わたしの胃にあるうどんは出てきてもくれなくてそれが悲しい。ああ、お母さんに会いたい。お母さんは何をしても許してくれる。怒られるけど、わたしの存在を絶対に許容してくれる。どれだけわたしが醜態でも、醜悪でも。 泥を掬うように、抑鬱感情が堆積していくのを感じる。眠たい。でも呼吸が浅くて、少し吐きそう。そうして汚い床でうだうだとやっているうちに、少年の足が見えなくなった。というか、ようやく気がついた。その瞬間、胸がすうとして、本当に見世物のような心地になって、また死にたくなる。人の前でばかりこういうことをして、恥ずかしい。お前は恥ずかしい人間だから死んだ方が良いよ。生きているだけで、お前はお前という存在を貶めているから。 なんて、どうせ明日になったら忘れている。そしてまた思い出して、ずっとそれを繰り返す。わたしの人生はこの先ずっとそうなのでした、ちゃんちゃん。 このまま朝になって発見される度胸もないので、ゆっくり、ゆっくり立ち上がる。膝を立てたら、頭が痛くてまたくらくらした。多分、酸素が足りてないんだろう。ようやく立ち上がって、ぼうっとしてみる。ここはひどく静かだ。誰もいなくて、落ち着く。ずっとこうだったらいいのになあ。わたしの世界が、最初からずっとこうだったら良かったのに。倒した椅子に座って、頬杖をつけば、月が見えた。浅桐はまだ屋上にいるだろうか。でも最近構ってくれないから、追い出されるかもしれない。やだなあ。追い出されるのは普通に悲しくて死にたくなるから。それが怖くて、最近はあまり行けない。そうして黙ったまま、ふと、昔のことを思い出す。

昔の、でも、瞼の裏にある記憶。 そのアンケート結果は、1という数を叩きだしていた。つまり、わたしだけ。学校で、教師に嫌がらせをされたと答えたのは、数百人の中で、わたしだけ。 (……ほかのこは、どこにいるんだろう) わたしは、きっとわたしみたいにトイレの中でさめざめと泣く子がいると信じていた。高校生にもなって、サンタクロースと同じぐらいふわふわとしたものを、ずっと信じていた。 あの先生が嫌だとみんなは言う。言うのに、アンケートではみんな素知らぬ顔をしていた。アンケートだから、書いても無駄だと思ったのかもしれない。それでも、みんなはわたしなんかよりずっと、なんでもないふりをするのが上手なんだなと思った。多分、上手過ぎて、本当になんでもなくなってしまったのだ。 それが不幸なことなのか、良いことなのかは分からない。 トイレの便座の、生暖かさ。先生が話していてうるさい保健室。埃っぽい廊下と、どこかで授業をしている声。窓。下にある木。自分の肌に爪をたてること。わたしが覚えた全部に、わたし以外がいなかった。そこでようやくはじめて、わたしは。 ────わたしは。

いつの間にか、意識が飛んでいたらしくて、机の冷たさが頬に移っている。時計を見れば5時前で、まあ、ギリギリセーフという具合。 そうして顔を上げたら────当然のように少年が居た。めちゃくちゃ不機嫌そうな顔をして、それでもちゃんと座っていた。 「そんな顔するなら来なきゃいいのに……」 「この期に及んでよくそんなことが言えますね……」 「ああ、ごめん」 「……謝るぐらいなら最初っから言わんでくださいよ」 そうして長く深い溜息をつく彼を見て、わたしは、少しだけ嬉しかった。

────本当だよ。本当に、嬉しかったんだよ。