天国を祈る俺は、ヒーロー失格だろうか。

病室で、今日も彼女は俺が剥いた林檎を食べている。このくだらない理由付けに、彼女が気が付かないことが唯一の救いだった。 「ね、わたしの中指って長くない?」 「……だからって立てないでください」 天国さんは、ようやく自由になった片腕をひらひらと動かして、中指を立ててみせる。それは長いというよりも、色白く、また柔く見えた。俺の手より、一回りも小さいだろう。 彼女はつまんないの、と言い放ち、そしてまじまじと自分の指先を見て、何かに気づいたように小さく声を上げる。 「丁度いいから、少年、わたしの爪切ってよ」 「俺はいいですけど、爪切りあるんですか?」 「母さんが持ってきてくれたのが多分棚にあるから」 ナイフを置いて、彼女が指さす一番上の引き出しを開ければ、なるほどたしかに、そこにあった。

母さん、という単語を彼女の口から聞いたのは初めてではない。そして、恐らく彼女の母親らしき人間を、俺自身が見たこともある。 その人は、天国さんによく似ていた。短い髪の毛で、眼鏡はしていないのに、似ていると感じたのは不思議なことだろう。その日、俺が病室に入る前に、彼女とその人が話していたので、俺はなんとなく、廊下で待っていることにした。妙齢の女性が天国さんに会いに来るのは初めてのことで、きっと家族なのだろうと思った。それなら邪魔をする訳にはいかないだろう。 女の人のすすり泣く声がして、そっと中を覗くと、その人が泣いていた。天国さんは、その様子をぼんやりと、うるうるとした瞳で眺めていて、ああやっぱりあの女性は彼女の母親なのだと納得した。あんなにも熱の篭った瞳を、俺は向けられたこともなければ見たことも無い。 天国さんが泣かないのは意外だった。泣きそうな顔をしているわりに、それでも、もの一つ言わず、ただただ黙っていた。彼女の過敏なこころは、何をもってしても傷つけられるに違いないと俺は思っていて、それは今思うと飛び降りなんてこともするはずがないという、ある種の傲慢でしかないのだが。とにかく、彼女は黙っていた。母親の方がむしろ、怒っていた。自らの娘が巻き込まれたのなら、親としては、そうなるのも致し方ない。ただそれが天国さんに向きそうな時は、俺が止めようと思った。 そんな俺の心配は杞憂でしかなく、その人は泣きながら病室を出ていく。入れ違いに入るかどうか、そんなことを迷っているうちに天国さんと目が合ったので、入らざるを得なくなった。 「あれ、わたしの母さん」 開口一番に、軽やかな声が飛び出る。俺は何を言うべきかと迷って、肯定だけを示すことにする。 「そうなんですね」 「すごいでしょ。めちゃくちゃ泣いてた」 彼女は他人事のように、そう言った。俺はまた何も返す言葉がなくて、そうですね、と繰り返す。しばらくの間、沈黙が満ちた。 「…………母さん、すごく泣いてて。まあそうだろうな、って思ったの。だってあの人は、わたしが死んだら、絶対に後を追って死んでくれるから」 死んでくれるから。 その傲慢な台詞を、彼女は当然のように口走った。俺は反射的に声を荒らげそうになって、手に爪を立てて堪える。彼女はそんな俺を、じっと見つめていた。怒られるのを、待っているかのようだった。 「……あの人はね、わたしが全てなの。だからわたしのことが世界で一番好きで、甘やかしてくれて、愛してくれる。だからわたしも、母さんが一番好き」 あれだけ酷いことを言っていた癖に、彼女の瞳はどこまでも熱を帯びていた。うるうるとして、水の膜が張っていた。泣くだろうな、と俺は思って、そして本当にそうなる。彼女は泣いて、眼鏡を外した。思えば彼女が眼鏡を外す姿を見るのは初めてで、普段は眼鏡をかけたまま泣いていた、という当たり前の事実に思い至る。 「ね、わたしのこと、マザコンだと思った?」 「……マザコンって、同性にも適応されるんですかね」 「さあ。でもわたしは自分のことをマザコンだとは思えなくて。だって母さんの全部が好きな訳では無いから。嫌だったこともあったし、憎いと思ったこともあるし、ずっと嫌いなところもある。母さんが母さんじゃなかったら、わたしはあの女のひとなんて、きっと大嫌いだったと思うよ」 明け透けで、他人に傷をつけるような言葉を平気でこの人は吐く。その言葉はどうにも涙を垂れ流しながら言うにはひどく不釣り合いだった。 彼女は、言わなくていいことばかりを言う人だと思った。俺は未だに性善説を信じているわけでもない。人には人の悪感情があって、ただそれを身を切ってまで晒す人間はいない。醜悪なそれを見せびらかす理由は、俺には思いつかなかった。 「でも好きなの。愛してるの。不思議でしょう」 好きなのに憎い、ではなく。憎いのに好き。彼女のその物言いはどこまでも仄暗かった。 「……まあ、それはともかく。母さん、ALIVE辞めろって言うんだよね」 「辞めるんですか」 「君、やけに食いつくね。そんなに辞めて欲しい?」 先程とは打って変わって、彼女の声色は明るい。からかうような言い回し。それが本当なのか嘘なのか、俺はもう何もわからなかった。この裏で彼女が傷ついていようが、嘲笑っていようが、何も感じていなかろうが、何も俺は分からない。何も言えなくなった俺を見て、彼女は苦笑した。ああ、今度は明確に困らせている。 「冗談だよ。わたし、辞めるつもりないし。母さんも今はパニクってそう言ってるだけだと思うから。まあ君はがっかりするかもしれないけど……」 「そんな、そんなこと、ないです」 「本当? わたしが君ぐらいの頃は教師が憎かったから。先に生まれただけの癖に、どうしてこんな酷いこと言うんだろうと思ってたから……まあ、わたしがそうなってないなら、良かったかな」 その言葉を最後に、俺達の会話は途切れた。彼女は何も言わず、ただぼんやりと窓の外を見ている。夕日が彼女の顔を照らしていた。 「……ごめん、カーテン閉めてもらっていい? 昔から、夕日見てると頭が痛くなって」 「ああ、すみません。気が利かなくて」 「なんで謝るのさ。世の中夕日見たぐらいで頭痛くならない人間の方が多いんだから」 「確かに俺はそんなこと無いですけど……」 「ね、そうでしょ。君が分からないだろうから、わたしが自分で言って、君がそうしてくれた。だからもういいの────一応言っとくと、皮肉とかではないからね?」 口の端を持ち上げて彼女は微笑む。相変わらずぎこちない。 「……君、わたしといると、いつも申し訳なさそうな顔をしてるよ」 「そう、ですか?」 無意識のそれを、指摘されるまで俺が気がつくはずもない。俺は彼女に申し訳ないと思っているのだろうか。それならば、きっとそれは彼女が最も嫌う類の傲慢なのではないだろうか。 俺はまた黙りこくってしまって、その日はそれで終わりだった。彼女はまたね、と手を振って俺を見送り、それから目を瞑る。ああ、もう彼女は頭が痛くなっていたのだと気付く頃には、何もかもが手遅れだった。

彼女はテレビをつけて、それから見てもいいかと尋ねる。断る理由もなく、俺はそれを了承した。 彼女の爪を、深爪にならない程度に、白い部分を残しながら切っていく。切られ慣れているのか、他人の俺が指に触れようが彼女は平然としていた。伸ばされた指は揺らがない。 少し古びた小さなテレビは、派手なフォントで、死の淵から蘇る男、なんて与太話を映し出していた。 「ね、少年は、天国ってどんなところだと思う?」 テレビをぼんやりと見ていた彼女は、突如としてそんなことを言った。天国。その言葉を聞いたのは、あの春の日以来だった。彼女は、天国という言葉にこだわっているように思える。彼女の名字に含まれた言葉は、彼女を救うことは決してない。それでも、自らの名前に冠された言葉に意味を見出そうとするのは、自分には少し、覚えのあることだ。 俺は手を止めて、聞き返す。 「天国、ですか」 「うん。わたしね、天国の良いところは、想像の愉しみがあるところだと思うんだ。ほら、地獄のイメージは結構同じなのに、天国のイメージはバラバラでしょう」 なるほど確かに、そう言われればそうかもしれない。そもそも救いという概念が宗教によって分かれている時点で、そうなるのも仕方の無い気もするが。 「俺が昔見た本では、天国という場所は逆の流れを辿る場所でしたよ。死んだままの年齢で天国に来て、それから現実世界とは逆に、年齢が下がっていくんです。最終的に赤子になって、また現世に戻される」 「へえ、それは随分と面白い本だね。読んでみたいな」 彼女の言葉は心底そう思っているようで、俺は必死にその本の名前を思い出そうとするが、こういう時に限って出てこない自分の頭が恨めしい。そんな俺をよそに、彼女はわたしはね、と口を開いた。 「天国は、存外普通なんじゃないかって思うんだ」 「普通、ですか」 「うん。普通。そりゃあ今まで死んだ人がいるから人口は多いだろうけど、あっちにも社会があって、ルールがあって、規範があって、文化が形成されていて。だから存外今の世界と変わらないんじゃないかって思うんだよね」 「それは……夢があるんだか、ないんだか、難しいところですね」 「あはは。むしろ天国に夢、あるんだ?」 夢。彼女の言葉に頷くことは出来なくて、ただそれすらも気にされていないのか、彼女の視線はテレビの画面に戻っている。画面の中の男は、生きていて良かった、というようなことを何度も言葉を変えて繰り返していた。そんな男の姿を、彼女は黙って見つめている。 「少年は、心配しなくても、天国に行けるよ」 ぽつねんと呟かれた言葉は、どこまでも静かで、静謐だった。なら天国さんも、名前の通り天国に来てくださいね、と言おうとしてやめた。死を望むことは、ヒーローとしてあってはならない。それなのに、そんな言葉が出てきてしまうのだから、人間の感情とはよく出来ている。整合性のとれない矛盾を孕んだ言葉は、どこまでも正しくない。正しくないことを、言うことはきっと正しくない。 今日もこの病室は、少し暖房が効きすぎている。

天国、と書いて天国と読む。そのままだ。ただ、俺はその音がテンゴク、なのかアマクニ、なのかを知らない。以前そのことについて問うと、 「少年、わたしのことは天国お姉さんと呼びなさい」 新しい指揮官(候補)として就任した彼女は、そう言った。呼びなさい、と言う辺りその真偽はどこまでも不確かなものだ。少なくともお姉さんという呼び方はする予定はないだろう。いよいよこの人は俺を少年扱いすると決め込んだらしかった。 「……なんで天国なんですか?」 「言霊って言うのがあるでしょう。天国って何回唱えれば天国に行けるのか、知りたくない?」 いひひ、とひきつるような笑い方をして、まるで宗教勧誘のように、胡乱気なことを言う。はあ、と答えればつまらない反応だと半目で睨まれた。こういう所には可愛げがある。 「ま、わたしが死ねば本名も分かるでしょう。そのときまでの辛抱ですよ、少年」 「……不謹慎ですよ」 逆に、可愛げのない、この人の悪癖の一つに死を仄めかすというものがあった。どうせ本当に死なないから、という言葉を盾にして、何度もそれを繰り返す。俺はこの人のこういうところも嫌いだった。過敏で、聡い人が俺の怒りに気が付かないはずがないのに、無視しては同じことを繰り返すのだからタチが悪い。 「そんなに怖い顔をしないでよ。今のは結構普遍的で、そして不変的でしょう。わたしはいつか死ぬし、君もまたしかり」 「いつか死ぬと分かり切っているなら、どうしてわざわざそんなことを言うんですか」 「だって、君が聞くんだもの」 最終的に全てを俺に擦り付けて、彼女は立ち上がった。書類仕事が残っているんだった、とわざわざ声に出すところも、俺はあまり好きじゃない。