「おお、久しぶりの外……!」 「そう言えば入院中、散歩とかしなかったんですか? いつも病室にいましたけど」 「基本引きこもり体質だからなー……」 体を伸ばすと、彼女の口から呻き声が漏れる。俺はその様子を何となく眺めている。今日も彼女の背筋は曲がっていた。俺とは違う。なんなら靴の踵も踏んづけたままで、襟も立っていて、後ろ髪は跳ねている。彼女はそういうことも気にも留めないようだった。 外に出て、二人してタクシーを待つ。金がかかるのは嫌だからと、公共交通機関で帰ろうとする彼女を止めたのは俺だった。そんなに金がかかるのが嫌なら自分が出すと言えば、諦めた様子で頷いた。結局、料金は天国さん自身が出すと言って聞かず、この人のこういうところが俺はよく分からない。 このギプスとは長い付き合いになったね、と笑う彼女を半目で見れば、ごめんと謝られる。春に見た時から全く変わらない呑気さが、彼女の粗野さと地続きになっていることに気がついたのはいつ頃だろうか。 彼女は、夏以前にも一度骨折を経験している。浅桐のトラップに引っかかり、階段から転げ落ちたのだと、俺や他の人達はそう聞いている。その時の彼女はただただ申し訳なさそうにしていて、俺が何か手伝いを申し出ても全て断わっていた。原因である浅桐が補助を言いつけられたものの、軽い打ちこみ作業しか手伝わなかった……とはあくまで本人の言だが。食堂ではいつも袋を不器用に口で開けて、中のパンを食べている姿がその頃にはよく見られていたが、俺が開けましょうかと聞いた翌日から食堂にすら顔を出さなくなった。未だにあの時の俺の何が悪かったのか、検討もつかない。最近では、彼女について考えること自体が無駄なような気もしている。切り離された時点で、もう手遅れだろう。 その割には、俺達は一見して仲が良かった。仲が良さそうに見えていた。俺だって俺達のことをそう客観視していた。だから彼女が海に飛び込んだというニュースは俺にも矛先を向ける。何か知らないのか、という言葉は無くとも視線はあった。さあ。俺は何も知らないんだ。俺は本当に、彼女にまつわる何かを分かったことなんてない。
折角の退院だと言うのに、彼女を迎える人間は俺以外に居なかった。彼女はALIVEに馴染む前に病院送りにされたのだから、親しい人間というものがそもそも少ない。平日の昼なら、その少ない人間も俺だけに限られてしまうだろう。それを分かっているのか、それともはなから興味が無いのか、彼女は鼻歌を歌いながらタクシーに乗り込んだ。 「少年には随分と世話になったね、ありがとう」 謙遜の言葉は言い慣れている。大人にする対応も理解している。そんなことないですよ、と半ば本心のそれを口に出す前に、俺の口は、少しの粘りをもって別の言葉を発した。 「浅桐、来ませんでしたね」 皮肉と取られたかもしれない、と後悔したのはすぐその後だ。それは杞憂だったらしく、彼女は不思議そうな顔をして、疑問系を伴いながら浅桐、と呟いた。 「まあ、来なかったけど。少年は来て欲しかったの?」 笑みを含んだ声色は、からかわれていることが分かって、情けなくも安堵する。さっきから、綱渡りのようなことばかりをしている。 「そういうわけじゃないですけどね。ただ、天国さんがそうなったのは、あいつのせいでしょう」 「ほんとだ! 帰ったら目潰ししてやらないと」 目潰し。物騒なことを言うものだから、俺は笑った。こんな見た目、というのは失礼だろうが、彼女は大人しそうな姿で、物騒なことばかりを言う。まあ、教師に吊り上げられた話を十八番にするぐらいだ。気性は荒いのかもしれない。ただ、彼女が浅桐以外にそんな言い様をするのを俺は見たことが無い。俺がそれを知っているのは、病室で繰り広げられる彼女達の会話を眺めていたからだ。当事者でもないこの立ち位置を、浅桐なら傍観者とでも評するだろう。そのぐらいなら俺でも予想がつくことだ。 車内のラジオでは、天気予報が流れている。今日の夜には雪が降るらしい。そう言えば、彼女はまだ雪を見た事が無いのだと言っていた。地元は温暖な気候で、小さい頃に一度だけ降ったものの、もうその記憶は無いのだと。教えれば、喜んでくれるだろうか。そう思って、横目で彼女の姿を見やると、窓の中の彼女と目が合った。その瞬間、目を伏せられる。 それでようやく、俺はあの夜を思い出すことが出来るのだ。触れられないほどの溝を、認識出来る。 ああ、そうだった。俺はそうだった。
結局その夜、雪は降らなかった。
▽
皆、陰口を叩くような性格ではないが、どう扱えば良いのか分からないというように天国さんを中心点にして、距離を計る。俺だって彼女でなければそうするだろう。心的な問題は、素人が口を出してどうにかなるどころか悪化することさえある。彼女もそれを理解しているらしく、不満げな様子は一切無かった。ただ、申し訳なさそうに、いつも眉が下がっている。 いつの日か、彼女がバインダーを取ろうとして、背伸びをしている背中を見つけた。背丈が足りないのか、指を限界まで伸ばして、グラグラとしている。一度諦めたかと思えば、次に足場を片手で引きずるようにして持ってきて、その上でさらに背伸びをする。少しだけ。それでようやくバインダーを手に取った。そのバランスは危うい。 ────ああ、転けるな。 次の瞬間、彼女の体は横倒れになった。バインダーからは書類が紙吹雪のように落ちて、彼女の上に積もる。俺は、そこでようやく、血の気が引いた。彼女が倒れたこともそうだが、転ける彼女を予測しても尚、動こうとしなかった自分が恐ろしかった。 彼女でなければ、俺は、倒れる前に助けていたんじゃないのか。 呆然としながら、それでも足は彼女の元へと向かう。一人で起き上がろうとする彼女に伸ばした手は、震えていて、それなのに彼女は迷うことなく掴むから、俺はどうしていいか分からなかった。彼女は半泣きでびっくりしたと笑うので、俺の方が泣きたくなった。切り捨てるぐらいなら、掴まないで欲しかった。 二人して書類をかき集めながら、俺は濡れそぼった手の感触を、ずっと思い返すことしかできなかった。
彼女がそうしてALIVEに復帰してから、定期的に俺は夜中に目が覚めてしまう。その度に、外に出ては暗がりに目を向けてしまうのにはどうしようもない。蹲る彼女を、未だに幻視しているのだろう。たとえ本当にそこに居たとしても、もう声をかけることすらしないだろうに。 「お」 「ああ?」 珍しい人間に会った。顔は付き合わせることが多いが、この時間にこの場所で会うことは珍しい。 白衣姿の浅桐は、怪訝そうな顔をして俺を見る。夜中にも関わらず稼働している様子は最早ロボットに近い。 あれだけのことをしたにも関わらず、夏以前、ALIVE内ではそこまで彼女と会話している姿を俺は見かけたことがなかった。そしてその理由も、俺は未だに聞くことが出来ていない。 「あれ、少年?」 ……言ったそば(というよりも思考したそば)から天国さんの声がするので、純粋に驚く。浅桐の背からひょっこり、というような感じで顔を出した彼女は、いつもの格好をしている。つまり寝る様子はまだ無さそうだった。 「珍しい組み合わせですね……ああいや、皮肉とかではなく」 嘘だった。珍しくないことは、もう嫌という程理解していて、ただ、彼女の瞳が曇ったので、慌てて補足を入れると、ほっとしたように顔をほころばせる。彼女の心は本当に過敏だ。 「そうかな? 結構仲いいよ」 ね、と浅桐に同意を求める声はどこまでもあどけない。普段の天国さんしか知らない人間は、少し驚くかもしれない。 「おい、オレを巻き込むな愚図女」 浅桐はそんな親しげな彼女を煩わしそうな目で見、手で追い払うような動作をする。浅桐は特段対応が普段と変わらないのが、らしいな、と少し思う。 「は? なんだお前」 「あ?」 口の悪さは親しさ故らしい。そんなことを言えば浅桐が面倒なので、俺は黙っておく。相も変わらず口論する二人を横目に、湯を沸かした。眠れない夜には白湯が効く。 ポットが音を立てる頃には、二人の口論は終わっていて、天国さんは部屋に戻ろうとする所だった。おやすみ、という言葉と共に、軽く手を振って俺達と別れる。残ったのは俺と浅桐だけだった。 「浅桐、気を悪くしたら悪いんだが」 「なら最初っから聞くんじゃねえよ」 そんな前置きも、即座に切り捨てられるので苦笑した。 「……それもそうだな」 俺が素直に頷くと、長い溜息を吐き出すと共に頭を物凄い勢いで掻き始める……お前、ちゃんと髪洗ってるのか? 「どいつもこいつもなんで、なんで、なんて問いを繰り返しやがる! そんな分かり切った問題になんの意味がある? まあ、一番遅かったのはお前だがな。このチキンが」 天才は理解が早くて困る。余程うんざりしているようで、俺は苦笑するしかない。まあ、あれだけのことをしたのなら、質問責めに遭うのは当然のことだろう。天国さんが骨折で入院中となれば、その矛先が向かうのは彼女よりも、俺よりも、浅桐だ。 「俺はそんなに分かりやすいかね」 「……言っておくがなあ、なんで、に答えるつもりはねえぞ。聞きたかったらあの女に聞きやがれ」 「答えてくれると思うか?」 「答えるわけねえだろあの女が」 早速言っていることが矛盾している。そんな考えが顔に出ていたのか、補足説明をするかのように答えが返ってきた。 「お前には一生分かんねえよ。なんで、の答えなんざ」 「……それは、随分と寂しいことじゃねえか」 「ハッ、勝手に寂しがってろ。他人のことなんてどうせハナから誰も分かりゃしねえんだよ。それでも分かったなんて言うヤツは、分かった気になってるクソ野郎だ」 「──────」 思ってもいない奴から、思ってもいないタイミングで致命傷を食らう。 「あの女が一番嫌がりそうなことだろうな、お前みたいな正しさは。ま、歪む顔でも見たけりゃそれでも良いんじゃねえか。あの愚図は確かにどうしようもない愚図だが、プライドのある愚図だ。醜悪さなんてもんに自尊心があるんだよ、最悪なことに」 「……醜悪さにプライドなんて持ってどうするんだ」 「どうにもならねえよ────どうにもならねえから、プライド持つしかないんだろ。あの女の自傷癖を止めようなんて頭ん中お花畑みたいなこと思ってるならやめとけ。時間の無駄だ」 「時間の無駄、ね」 それぐらいは俺にだって分かっている。俺が一番分かっていると、そんな傲慢を振りかざしても良いぐらいだ。そして彼女を本当に理解しているのは浅桐だということも、たった今分かった。きっと、彼女は浅桐を選んだんじゃない、はなから浅桐しかいなかっただけの話だ。 「そんなことしねえよ。そもそも俺は、天国さんのことがそんなに好きじゃねえ」 「……へえ、そいつは面白いこと聞いた。あの猫被りのモブにどいつもこいつも騙されやがるからな──あんなに演技の下手くそな女はいないってのに」 「猫被りって、なあ。天国さん、そこまで出来てないだろ。結構な頻度で靴の踵踏んでるし、この前も書類が無くなったって騒いで結局自分のファイルに挟まってたし。結構粗忽者だと思うけどな、俺は」 「………………」 あれだけ口を回していた浅桐が、途端に黙って、凄いものを見るような目で俺を見つめる。何だよ、何かついてるのか。 「…………ショージキ、オレの天才的な勘がこれ以上突っ込むなと囁いているが面白そうだから聞いてやる」 「前置きが長いな」 「───お前、あの女のどこが気に入らねーんだよ」
どこが。どこが、ねえ。結構色々あるぞ。さっきも言ったが粗忽なところ。見ててこっちがハラハラする。この前も走ってきてドアノブに服の裾を綺麗に引っ掛けてなあ、後ろ向きにすっ転ぶもんだから笑いながら泣いてたよ。俺も笑っちまったけど。あとは唇の皮を剥がすところだろ、こっちも見てて痛いし。そもそも菌が入るのは口からだからな。飯を抜くところも嫌だ。うどんも素うどんばっかり食べてるのが気になる。栄養不足だろあれは。歯を磨く時間も雑だしな。……まあ、でも、一番嫌なのは、死を仄めかすところだな。自分が死なないからって何を言ってもいいと思ってる────俺の気持ちも知らずに。俺が傷ついてることも知らずに。底意地が悪いんだよあの人は。俺の前で泣く癖に俺に何もさせてくれないんだからな。だから嫌だ。俺はあの人が泣くのも嫌だし、傷つくのも嫌だが、もっと嫌なのは、自分で自分の首を絞めてしまうあの人の弱さなんだろうな。
「ほーん」 「……自分で聞いた癖に一切合切興味が無さげだな」 「いや? オレにはよーく分かったよ。お前は結局、あの女のことが嫌いなんだな」 「嫌いってそりゃあお前……」 嫌いなんだろうよ、俺は。そう言いかけて、口を噤む。そこで俺は、まるで委ねるような言い方をしていると気がつく。感情を他者に委ねてしまうのは、そうであって欲しいか、そうであって欲しくないかの二択だ。彼女が俺の前で泣くように。 嫌という感情は、まるで雪のように降り積もっていて、俺はそれを、どうすることも出来ないまま、ぼんやりと眺めている。春はもう過ぎた。帰ってこない。雪解けは来ない。ここは酷く寒い。寒くて冷たい。
「俺は、」 ふと────病室で見た、彼女の瞳を思い出した。熱に浮かされた、とろとろとした瞳を思い出す。嫌いなのに好きだと零した、あの人の熱を思い出す。
最初は、ああ、そうだ。言えなかった言葉があったからだ。あの春の日からずっと、言い出せなかった言葉がある。 (なら俺は、俺だけは、お祝いしますから。だから。だから、そんなに悲しい顔をしないでください。) それだけを言うために、俺はずっと彼女の隣に立ち尽くしていた。それだけのことが言い出せずに、冬が追いついて、次の春はまだ来ない。
「どうにかしたかった。たとえ嫌いだとしても、どうにかしてやりたかったんだ……」
矛盾している。間違っている。だが俺は、その感情を知っている。嫌という程に、まざまざと見せつけられたそれが、確かに質量をもって、ここにあった。
泣かないで欲しかった。俺は彼女に泣かれると、どうしていいか分からなくなる。 死なないで欲しかった。死にたいと呻く苦しさは、きっと死に類似しているだろうから。 笑っていて欲しかった。苦笑ではなくて、変なものを見て笑うような、あどけないものが見たかった。 助けを求めて欲しかった。縋られる方がまだ楽だったと思うのは、選択肢にすらなかっただろうか。 俺を選んで欲しかった。俺は、彼女と海に行きたいと思った。春を迎えたいと思った。
「お前の言う通りだ、浅桐。俺は天国さんのことが嫌いだよ。でもきっと、好きなんだ」 「……その矛盾は了承済みかよ。お前が、わざわざ矛盾を持つ理由は何だ? 同情ならあの女に叩かれるぞ」 「へえ、天国さん、お前にはそんなことするのか?」 「んなこと今気にしてるんじゃねえよ!」 「全部本当の事だから良いんだよ。嘘じゃない。嘘じゃないから、困るんだ」 浅桐は鼻を鳴らして、それを答えとした。ああ、成程。天国さんが浅桐を選んだ理由が、少しわかった気がした。 「浅桐、お前、天国さんに似てるんだな」 「はあ? 節穴極めてんのか」 「意地の悪いところがだよ」 「けっ、結局あの女もくだらねーラブコメに成り下がりやがった」 ふと、浅桐の言葉に違和を感じて首を傾げる。 「ラブコメ?」 「ラブコメはラブコメだろうが、」 そこまで言いかけた浅桐は、まるで道端で幽霊に会ったような顔をしていて端的に言って失礼だな。 「お前まさか……」 「ラブコメ……ああ、俺と天国さんがか。成程…………? なあ浅桐、ひとつ聞きたいことがあるんだが、」 「あー! 聞こえねえ! オレはなんも聞こえねえ!」 「夜だぞ静かにしろ。ところで────恋って何かお前分かるか?」 「こ、こいつ……!」 浅桐がこうもキレているのは珍しい。天国さん関連のことだからだろうか。どちらにせよ、気づかせたのはお前だから説明責任はあると思うぞ。