恋の話をしよう。どこまでも醜悪で、惨めったらしい、恋の話を。
▽
俺は恋というものをよく知らない。 まあ、とりあえず手近なところから学ぶかと、実写ドラマ化という帯とともに平積みされたそれを購入する。少女漫画というジャンルに手を出すのは生まれて初めての経験だった。 少年漫画とは違い、月刊連載されているだけあって全ページ線が細く、絵も綺麗だった。ストーリーと同じくらい画に力を入れるのも、少女漫画の主流らしい。 ただ、一話目からヒロイン(少女漫画なので主人公と言うべきだろうか)が学校一のイケメンと称される男とキスをしたのには驚いた。 恋という概念を学ぶために購入したのであり、強引な迫り方を学ぶためではなかったはずだが。合意のないキスは最早暴力ではないだろうか、と余計な心配していると一話を読み終わってしまう。その流れで二話目を見ると、二人はもう既に付き合っているので驚いた。どうやら俺が見落としている間に、恋は始まっていたらしい。成程これは、奥が深いものだ。世の女性が熱狂するのも分かる……とは言ってはいけないらしいので、予想が付くと言い換えておこう。 なんやかんや男でも楽しめるもので、読み終わった後には存外面白かったな、という感想が残った。面白かったが、二話目で付き合い始めてから完結に至るまで二人の恋とやらは紆余曲折しながらも成就し続けたままだったので、これではあまり参考にならない。他の作品にも手を伸ばしてみるが、恋はいつの間にか始まっていて、いつの間にか成就している。恋のなんたるかについてはもう知っているでしょうと言わんばかりの話運びだった。中々に手厳しい。通り過ぎた皆が、少女漫画を手に持つ俺を二度見していく光景はこちらとしてもだいぶ愉快だ。天国さんもその例外ではなかったようで、通り過ぎたかと思えば、また戻ってきた。彼女の手には相も変わらずギプスがはめてある。 「少年、面白いもの読んでるじゃん。どういう風の吹き回し?」 「恋とは何かな、と」 「え? よくそんな恥ずかしいこと素面で言えるね……高校生特権……」 若干引いたような声色でそんなことを言われる。どうやら天国さんにとって恋とは恥ずかしいことらしい。俺の所謂恋の対象者である天国さん本人の言なら、覚えておいた方が良いのかもしれない。情報は少しでも多いほうが良い。俺が大人の世界で学んだ事だ。 どんなの見てるの、と背後から開いたページを覗き込まれる。この距離の近さを少女漫画で見た覚えはあるが、残念ながら俺の頬はあの少女達のように赤く染まることもなければ、胸が高鳴ることもない。ただ、ギプスが邪魔そうだとそんな分析をするぐらいだろうか。果たしてこれが恋なのか、いよいよ怪しくなってくる。そもそも好きというだけで、恋とはイコールで結ばれないということに今更思い至った。 「これ、主人公はこのイケメンと付き合うの?」 「一話目で付き合ってましたよ」 「一話か……わたし、男と女が付き合うとめちゃくちゃテンション下がるんだよね……」 付き合うとテンションが下がる、と。本当に必要な情報が怪しくなってきたが、思考を元に戻す。 好きと恋の等号について疑問は未だに残るところだ。思えば、好きというものは、好きという分割された感情だろう。この少女漫画の少女達はこのイケメン達に好意すらあれど、悪感情は持っていなかったはずである。悪感情と言えば大仰かもしれないが、例えばここが気に入らないであるとか、そういうものすらない。あったとしても、それはプラスに変換されるために用意された模造のマイナスだ。恋を好意のみの感情と仮定するのなら、俺が彼女に向けるそれは恋ではない。好きなのは確かだが、それとは別に好きではないどころか嫌いだと感じている部分も確かに存在する。死にたい、と呟くところ。性格が素直ではないところ。粗野なところ。嫌いという本当の感情も内包しているならば、恋という感情の範囲に収まらないのではないか。 そんな思考を俺がする傍らで、少女漫画にすっかり興味を失ったらしい彼女は、片手で携帯を触りながらなにやら思案している。こういうところは、別に好きでも嫌いでもない。普通で、平常で、平熱だ。 彼女はふと、あ、と声を上げた。それから少年、と俺をいつものように呼ぶ。 「今週の土曜日、暇?」 「午後からなら空いてますけど……何か任務で入りましたか?」 「ううん。私事です」 俺は首を傾げる。
▽
二人して座ったバスの席は思ったよりも狭い。俺は図体が大きい方だし、彼女はギプスが煩わしそうだ。 「やっぱり俺が立ちますよ」 「いいよ。知らない人に座られる方が気まずいし。それに立つならわたしの方。君は座ってなさい」 そこまで言われてしまうと、立つことは難しい。俺達は接触し続けたまま、バスに揺られている。 彼女の提案は、映画に行こうという素朴なものだった。 「チケットを母さんに貰ってたんだけど……二枚ね。ほら、入院してたから使わないで期限切れちゃいそうなんだよ。君には入院中お世話になったからねえ」 「はあ」 確かに有効期限は、今月いっぱいを指し示している。理由もなく彼女が俺を誘うはずが無かった。 「あ、誰か他に行きたい人がいるなら、このチケットあげるけど……」 「いや、大丈夫です。一緒に行きましょう」 「そう? チケットならいつでも譲るからその時は言ってね?」 俺は曖昧な返事をし、その場を去る。一緒に行きましょう、という言葉が恋によるものなのか気遣いによるものなのか、俺は全く検討がつかなかった。 好きな映画を見ていいよ、とのことだったが特に気になるものはない。ただそれを言うと、過敏な彼女のことだ、良くない摩擦を引き起こしかねない気がして、比較的ポピュラーなものを選ぶ。人気ミステリー小説が実写化されたというもので、キャストも芸能にはあまり明るくない俺が知っているような面子だ。正解とまでは言わずとも、まあ外れることは無いだろう。俺がその映画を提案すると、彼女はすこし驚いて、それから笑った。 「わたしもこれ、見たかったんだよね」 ああ、それなら良かった。
世間一般的には、これはデートと言われるものだろうが、彼女にそんな気はないのは明白だった。どちらかというと上司が部下をいたわっている構図なのだが、乗客からしてみればそう見えていないのだろうと思う。そもそも未成年と成人の組み合わせでは問題がある。 あの漫画の少女達も同じように(厳密には同じでは無いが)デートをしており、そして律儀に頬を赤らめ胸を高鳴らせていた。俺は残念ながら未だその兆候はなく、隣の天国さんもまた然りだ。ぼんやりと窓の外を眺めている。そう言えば、彼女とタクシーに乗った日から、雪はまだ一度も降っていない。予報はされるものの、ことごとく外れていた。確率は100%ではないのだから、当たっているとも言える。 「……バグだとは言うよね」 「……はい?」 突然、彼女が口を開いたのでなんのことだろうと聞き返す。静かなバスの中で、大きい声を出すのは躊躇われたのか、俺にしか聞こえないような、小さな声で、囁くように彼女は言葉を紡いだ。 「恋とはなにか、なんて思春期真っ盛りのこと、言ってたでしょう。わたしもまあよく分からないけど、バグだなんて言われるのは知ってるから。参考になるかと思って」 「バグ、ですか」 「うん。脳の誤作動なんだって。わたしも詳しくないから、ものすごくざっくりしたことを言うけど、恋っていうのは、錯覚なんだよ。脳から変な物質が沢山出て、それで、おかしくなっちゃうの。ああでも、バグの語源は虫のbug、だから、寄生って言う方が正しいのかもしれないね」 「恋は、脳への寄生……」 「絵面が地獄みたいに最悪で、最高じゃない?」 「最悪なこと言いますね」 そう返せば、いひひ、といつものように変わった笑みを返される。 「映画見終わったら、雪、降ってないかな」 「予報ならありましたけど、今年はまだですね」 「そっか……」 このバスは外の景色に比べて少し暖かい。暖房が、効きすぎているようだった。
端的に言って、映画は普通だった。彼女は映画館のものは値段が張るから、と結局ポップコーンも飲み物も何も注文せず中に入って、他の客が持っているポップコーンを羨ましげに見つめていた。欲しいなら最初から買えばいいのに、そうしないで、結局後悔してしまう様は実に彼女らしいと思う。エンドロールが終わるまでじっと座っていた彼女は、場内が明るくなり、立ち上がってから、しばらく無言で歩く。 「ひっ…………どかったね!」 彼女の中でルールがあるのかは知らないが、チケット売り場を通り過ぎた辺りから怒涛の勢いで喋り始めたので、俺は笑った。何故笑うのかという顔しながらも、あの映画の不満点をつらつら述べる。俺は普通でしたけどね、と言うと気まずげな顔をしたので、まあ面白くもありませんでしたから、と返すとだよねえ、と強く頷かれるのでまた笑った。 そのまま直帰しようとする彼女を引き止め、半ば強引に少し早い夜食を取る。彼女はピザを頼んで、俺はよく分からないパスタを頼んだ。彼女はそこでも、つらつらと映画の感想を述べている。ストーリーは好きではなかったが、登場人物の心情が良かった、あれだけで全て許したと何処目線かも分からないことを楽しげに話す。俺はそれを聞いているだけでも、存外楽しめた。同じものを共有しているというだけで、楽しみ方も変わるものらしい。 「浅桐だったら、絶対怒ってたなあ、あの終わり方」 ああ。 「……そうですね」 恋も分からない癖に、この感情は理解出来る自分が恨めしい。よく分からないパスタは、もっとよく分からない味になる。水を飲めば、無味が無味になるので、少しだけ笑った。嘘だ。こんなこと、彼女の話にも及ばない。
帰りのバスは中々来なくて、二人して沈黙を持て余す。雪でも降っていれば、きっと喜ぶ彼女の姿が見られたのだろうが、今は静かな横顔だけがある。 「……なんで、浅桐なんですか?」 「……え?」 いきなりの俺の疑問に、彼女は目を瞬かせた。まさか彼女の方も未だに俺が夏を引きずっているとは思わないようで、その質問はどうして浅桐ではなく俺を誘ったのか、というものに変換されているらしい。 「君にはお世話になったから。それに浅桐と行ったら解釈違いで喧嘩するし……」 そんな答えが返ってきて、酷いとは思うが、不思議と心は傷つかなかった。それどころか、まあ、そうだろうなという納得があった。そんな自分自身の感情に首を傾げているうちに、バスが来て、二人して乗り込む。俺は尚も首を傾げたままで、彼女もそんな俺を不思議そうに見ては首を傾げている。ただ単純に、馬鹿だ、と思った。
馬鹿な二人は、明日の都合もあり二人して合宿所に帰ってくる。俺は思考をまとめようとして、かき集めながら、ようやく答えらしきものに辿り着いた。正確には、答えは無いという答えだ。何故なら、俺は答えではない。彼女の正解は浅桐であり、俺ではないことを、もう一度理解した。そしてまた、俺の正解も彼女ではない。俺の恋は、彼女である必要も無い。なぜなら俺は、死にたいと言う彼女がたしかに嫌いだからだ。嫌いと好きを共存させるよりも、好きだけで埋め尽くされた方が恋としては正しいに決まっている。 蹲って、誰にも助けを求めず、必要とすらせず、結局死にもしないのに、死ぬと口ずさむ彼女のことが、俺は、どうしようもなく──────
「好きです」
気がつけば、全てが転換していた。やはり俺は彼女の気持ちが理解出来ない。共存は出来ない────俺の嫌いという感情は、呆気なく好きに飲み込まれてしまった。嫌いという感情を保ち続けることがどれほど難しいか、そして彼女の怨嗟がどれほどのものかを悟るがもう遅い。
俺の言葉に、彼女は、あの春の日のように、ゆっくりと振り返った。誰が、何を、なんて説明しなくても彼女には必要ない。彼女の過敏さは、俺の感情も、それが向けられた対象も、その全てを理解している。
彼女は、その、感情の全て抜け落ちた目で、俺を見ていた───────そして、睨んでいた。憎悪の目を向けていた。それはあの隅に蹲っていた時と同じ目だ。 俺は、間違えている。彼女の目が証拠だ。ただ、一つ言うのなら、彼女の目を見なくたって、俺は俺が間違っていることぐらい、あの日から分かっていた。ずっとずっと、分かっていた。 「……ごめん、聞こえなかった」 今なら許す、とそういう線引きなのだろう。 これで終わり。一生お前とわたしは、不理解のまま生きていくのだと、そういうエンディングを、彼女は俺に叩きつけようとしている。
「聞こえなかったのなら、もう一度言います」
俺は、絶対にそれを許さない。