あたたかいものは、こんなにもおそろしい。

心底、この人が憎いと思った。 気がつくと、彼女は呆然と、自らの頬を押さえている。ぼう、と俺を見つめる青みがかった瞳はどこまでも静かだ。それを見つめていると、はらはらと、まるで海が沸いてくるかのようにして、その中から涙がこぼれ落ちる。 そこでようやく、俺は、自分がこの人の頬を叩いたことを、理解したのだ。

「……て、天国、さん」

情けなくも、声が震える。彼女は、肩を震わせて、明確な怯えとして俺の声に反応するから、それがまず辛かった。誰かを、傷つけようと思って、傷つけたのはこれが初めてだった。ああなるほど、これは確かに、最悪な気分だ。もっと最悪なのは、こんなことで、自分自身の心を満たそうとした自分がいるという事実だ。それが、俺には耐えられない。正しくないことには、耐えられない。 彼女は、怒りもしない。喚きもしない。ただずっと、確かめるかのように、その細い指で頬に触れている。それが俺の罪悪感を掻き立てて、謝ろうと思えども何も言葉が出てこない。謝罪は何度だってしたことがあるはずなのに、ここで何を言っても、欺瞞のような気がして動けなくなる。まるで、張り付いたかのように動かない口は、馬鹿みたいに彼女の名前を呼んだ。 天国さん。天国さん。天国さん。 手も、震えていた。震える手で、彼女の頬に手を伸ばそうとする。 痛くなかったですか。痛くないわけがない。痛かったですよね。だってあんたは、感情だけでも、あんなに痛がるのに。すぐに泣きそうな顔をするのに。痛みに弱くてたまらないのに。俺が悪いんです。貴女はきっと、何も悪くないんです。 触れるか、触れないかの距離に俺の手が伸ばされてから、彼女はようやく、口を開く。

「いたいの──────触らないで」

それが、全てだった。

頬を叩かれたのは初めての経験で、親にも叩かれたことが、なんてお決まりの台詞が頭をよぎる。幸せな人生だよなあ、とぼんやりとそんなことすら考えたりする。そう言えば、浅桐の頬をわたしは叩いたけど、あれは本当にまだまだだったらしい。空気を切るような音がして、パン、なんて言い出したものだから少し驚いた。だからわたしの頬は痛みを訴えて、涙もここぞとばかりに出てくるけれど、わたしの頭は思ったよりも冷静だ。だって普段わたしがなくときは、こころが軋んでいるから。今は、少しほっとしていて、物理的な痛さはあるけど、こころに傷はつかなかった。 叩いた彼の方が動揺していたので、わたしはわらう。わらおうとしたけどびっくりするほど表情筋が固まっているので、こころのなかだけでわらった。別に謝ることなんてなにひとつないのに。わたしは君のこころを、昔のわたしがされたみたいに踏みにじったんだから、叩いたっていいんだよ。わたしも教師の頬を、ずっと叩きたかったから、気持ちは分かるつもりだ。こんなことを分かられても困ると思うので、一生言わないけれど。分かるなんて言葉は嘘だから。 これで、彼の恋とやらも。好きですという言葉も。全部全部終わりだろう。破綻しただろう。壊れただろう。だって、間違っているんだからしかたない。彼の正しさが憎かったわたしが、間違いを正そうとするなんて、皮肉でしかないかもしれない。余計なお世話かもしれない。それでも、わたしは、何を踏みにじってもわたしのこころを守らなくちゃいけない。 「……おい、さっさとそこを退けよ有象無象が」 「浅桐……」 「チンケなメロドラマなんかこんな朝っぱらからやってどうするんだよ。夕方4時の再放送でやってろ」 唐突に現れた浅桐は、わたしたちの様子を見ても、平然としていた。流石過ぎる。食パンをまるで少女漫画のヒロインのように口で持って、書類を脇に挟んで片手を空ける。それで、わたしの手を取った。なんで? 「おら、ちょっと高みに付き合え」 「……あー、うん。そうしようかな」 浅桐なんかに気を遣われてしまうあたり、わたしは酷いことになっているらしい。残される少年には悪いけど、わたしはそのまま腕を引きずられるようにして、彼と屋上に向かう。今日はものすごく寒い日で、暖房の効きすぎていたあの部屋で火照った体が、冷やされていく。雪が降って欲しいな、とわたしは空を見上げてぼんやりと思った。まだ、見られていないから。 浅桐はわたしの腕を離して、いつもの如くわたしには分からない作業を始める。放置されるのはいつもの事なので、わたしは体育座りで、ぼんやりとその様子を眺めるだけだ。 「今日は雪が降るぞ。オレは天才だから分かる」 まだ薄暗い空を見上げて、彼は言った。わたしはもう、それを疑うことはしない。彼が言うのなら、この世界には今日、雪が降る。 「そうなんだ。もっと、他の日に見たかったな」 頬は、未だに熱を持っている。これが恋によるものだったら、どれだけ良かっただろうか。実際は、ただの摩擦熱にしか過ぎない。 「ねえ。浅桐は、恋なんてしないでね。わたしが分からないものを、一人だけ分からないでね」 「気持ちの悪いこと言ってんじゃねえよ」 なんてことのない軽口なのに、気持ち悪い、という言葉が刺さって抜けない。 きっと、図星だからなのだろう。 軋んだわたしのこころは、どこまでも醜悪な形をしているに違いない。だから、わたしはわたしが耐えられない。本当に耐えられないのは、少年の恋ではなくて、少年が見ている、わたしという存在そのものなのだ。 「いいか。お前は口を開けば怨嗟ばっかりの大根役者だ。下手くそなんだよ」 「怨嗟ばっかりって……まあ、否定はしないけど」 「喜んでみろ」 「え?」 浅桐の唐突な命令に、首を傾げる。喜んでみろ、って。何も無いのに? 「いいから嘘でも喜んでみろ」 「え、えーと……いえーい。最高」 「次、もっと喜んでみろ」 顔色を伺いながらそんな声を上げると、浅桐から次の命令が下る。まだやるの? 「わ、わーい! いえーい! さ、さいこー!」 「史上最高の喜び」 「えっ……あー、や、やったー! さいこう! さいこうすぎて死んじゃう!」 浅桐はそんなわたしを見て、これみよがしに大きなため息をつく。かなりムカつくんですけど。 「ほら見ろ。いいか、天国。お前はなあ────喜ぶのが死ぬほど下手くそなんだよ。俺に見せた怨嗟と全然レベルが違ぇ。あれはまだ見れたもんだったがな、お前の喜びなんざ幼稚園児レベルだぞ」 「そんな罵倒のされ方、ある……?」 喜び方を罵倒された経験は当然のごとく無いので、怒りを通して戸惑ってしまう。浅桐は、わたしに何が言いたいんだろう。 「お前の在り方は変わんねえ。いつだって自分で自分の首を絞めてそれで悦に浸ってる最悪な愚図だ。だったら、どうせ変われないんだったら、せめて喜びながら苦しめよ。笑いながら首を絞めろ」 「わ、笑いながら首を絞めろって……わたし、ずっと苦しむの?」 「そうだ」 「わたし、変われないの?」 「ああ」 あれほど言い聞かせてきた言葉が、他人から、浅桐から放たれた瞬間、わたしは呆然としてしまう。頭がちかちかして、胸が熱くて、心臓の音だけが鳴り止まない。 「お前の手はいつだってお前の首を絞める。だったら、それで十分だ。怨嗟なんてもんはなあ、それで足りてるんだよ。だからせめて笑え。喜べ。お前が忘れてた感情を、さっさと買い戻せ」

わたしは、天国かやという人間を誰よりも知っている。死ぬ勇気も無ければ、生きる勇気も無い。息を潜めて、自分のためなら他人の心を踏みにじることができる人でなし。天国に行く資格はなくて、地獄を目指す度胸も無い。どこにでもいる有象無象。怨嗟だけの、空っぽの、背景でしかない。わたしは、わたしという人間に、何の価値がないことを、失望でも侮蔑でも同情でも怨嗟でもなく、ただの事実として知っている。

「……わたし、喜んでも、いいのかなあ」 「好きにしろ。お前の感情だろ」 あれだけのことを言っておいて、好きにしろ、だなんて無責任だ。だってわたしのこころは、もう首を絞めはじめていて、うん、だから。

だからわたしは。

「わたし、わたしね。誰かに、好きになってもらうなんて、生まれて初めてだったんだ。こんな、わたしのことを」

わたしは。本当は。

「……誰かに、好きって言ってもらえるのって、あんなに、嬉しいんだね」

そうだ。嬉しかった。本当は、すごくすごく、嬉しかったんだ。君が次の日にはわたしのことを嫌いになったとしても、構わないと思った。それだけで、わたしはずっと生きていけるとさえ思った。 痛い。痛い。こころが痛い。痛すぎて、また涙が出てくる。わたしのこころは、きっとどこまでも冷え切っていて、人でなしなのに。目から零れる涙は、どこまでも熱い。熱くてたまらない。叩かれた頬よりも熱くて、痛かった。

「こんなにうれしいのに────────なんで、わたしは、何も、分かってあげられないんだろう」