その人は、春の嵐と共に現れた。
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「なんで浅桐と心中しようとしたんですか?」 俺がそう問うと、ベッドの上の彼女は、丁度季節外れの林檎を飲み込むところだったらしい。んぐ、と鳴き声を上げるから、俺は急いで水を用意する……制された手を見る限り、大丈夫そうだが。 この夏、彼女は浅桐と共に海に飛び込んだ。らしい。その詳細を、知る人間は本人達の他にいない。ただそこには、浅桐と彼女の二人が海に揃って飛び込み、その挙句骨折したという、そんな事実が横たわっているだけだ。その時の俺の心境を正しく表せる人間がいたのなら、それは分かったふりをしている人間だろう。そのぐらい、いや、俺ですら表せないものを俺がどうこう言う筋合いはない。 「心中、ではないと思うんだけどなあ……」 「そうですか」 それ以上の言葉は、欲しかった言葉は、彼女の口から出てくることは無かった。カーテンで仕切られた隣のベッドから聞こえる息遣いだけが、俺たちの間を保っている。 俺は林檎の皮を剥く手を止めることなく、なるべく抑えた声で了承を示したつもりだった。それでも、彼女の過敏さは違和感を捉えたらしく、そのまなざしは静かに曇る。この人の、こういう目ばかりを俺は見ている。二人きりの、カーテンで覆われたこの空間は、ひどく静かだった。周囲の話し声が聞こえる分、その静けさはどこまでも深まっていく。きっと、退屈だろうに、彼女はテレビも付けず、携帯も見ず、ただ手持ち無沙汰に、自らの逆剥けを弄っていた。それはきっと、世話をしてもらっている遠慮と、それに付随する性格としての真面目さが、彼女にそうさせるのだと思った。その真面目さが、ある種の強迫観念であることを、俺は知っている。 「ごめんなさい、迷惑、かけて」 それはきっと、夏から彼女が何回も言ってきた言葉だ。そして、使い古されたもので、何度も唱えられてきたものだ。 「いや、」 気にしないでください、と言おうとして口を閉じる。事実、この人は大勢に迷惑をかけた。それは変わらない。嘘だと分かり切っていることを、口に出すのはどうにもはばかられた。たとえそれが、彼女のやわらかな心に傷をつけることになろうとも。 俺も傷つきましたと言えば、彼女はきっと泣くだろうと思った。それは悲しいからではなくて、彼女の心がそう出来ているからだ。傷から血が流れるように、理由が追いつく前に涙が出る。青みがかった瞳から、まるで漣のように。 ああ、頭が重い。呼吸が浅くなるのを感じる。彼女は俺を見ちゃいない。 この病室は、少し、暖房が効きすぎているようだった。
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彼女が嗚咽する姿を見たのは、何もあの夜──浅桐が落下した夜──が初めてではなかった。夕方の階段の一番上で、深夜の洗面台で、机の下で、何度もその光景を見たことがある。痛々しいという人もいれば、醜悪だと蔑む人もいるだろう。ある時は指を噛み、ある時は顔を覆い、ある時は過呼吸を引き起こして、呻き声を上げては床をざりざりと引っ掻こうとする。この静かな発露が、どこまで周知されているのかを俺は知らない。声をかければ、まるでねじ巻き式の玩具のようにぴたりと動きを止める。それから、お世辞にも綺麗とは言えない、濡れそぼった顔で、 「ああ、少年」 と口を開く。彼女の涙は嘘だったかのように止まっていて、ただ笑いもしないで、不思議そうな顔がこちらを見ている。 大丈夫ですか、と問えば、彼女はまるで幼子のように、静かに首を横に振った。 「…………全然」 それだけしかない。俺が何を言うべきかと手間取っているうちに、立ち上がってすたすたと横を通り抜けたかと思ったら、その日の夜には俺の目の前に座って、平然とした顔で、夕食を食べる彼女の姿があった。 この生姜焼き、美味しいねえ。豚しゃぶ肉じゃないのが大変よろしい。 そんな呑気なことを言いながら、残すことも無く、吐くこともなく、最後まで出されたものを食べ切っていた。 多分、というか事実として。彼女と他の指揮官さん以外で親しかったのは俺だろう。好意の有無では無く、親しみやすさとして。ただ彼女が最初に話しかけたのが俺だったから。それだけの理由で、俺達はいつもぽつぽつと少しだけ会話をした。誕生日が近いので、星座も同じだった。牡羊座。朝のテレビでやっているような根拠の無い星座占いも、眺めては彼女との話の種にした。二人とも星座占いを信じる性質ではなくて、ただただラッキーアイテムをどうやって持っていこうか、なんて下らないことばかり話していた記憶がある。だから俺だけが彼女の嗚咽する姿を見ていても、何も不思議ではない。 特に、印象深かったのは、珍しく彼女の機嫌が良かった時だ。普段から機嫌が悪い訳では無いが、明るさに欠ける性格をしていた彼女が、やけに嬉しそうな顔をしながらその日は夕食を食べていた。連休に入る前日で、周囲の人間が浮き足立っていたから、余計にそう見えたのかもしれない。何があったんですか、と聞くと、小学生の頃からずっと読んでいた本の続編が出るらしい。 一年ぶりだよ、一年ぶり。すっごく面白いのに、一年に一回しか出してくれないんだから。わたし、これ読むまでは死んでも死ねないよ。 彼女は珍しく、俺にそうまくし立てた。俺はその本のことを全く知らない。だからただただ、彼女が話していることを頷いて聞くだけだ。見知らぬ話を、見知らぬ顔の彼女が話している姿はどうにも違和感しかない。何が、と言われると困ってしまうが、そんなことを指摘する人間は誰もいない。疑問は横たわったままになる。 彼女は一通り話し終えて満足したのか、その後黙々と残ったそれを口に運ぶ。暫くすると、ご馳走様、と軽やかに言って、彼女は席を立った。 それからすぐ、俺は彼女の座っていたそこに端末を見つける。そこにいた人間に聞いてもみな一様に心当たりがないと言うので、彼女のものだと予想がつく。俺は彼女の後を追って席を立った。結果として、部屋に行くまでも無く、彼女は見つかった。ただ食堂から出た先、暗がりの隅に、彼女は一人で蹲っていたのだ。いつものように。いつものように。いつものように。いつも彼女はそうだった。 顔を覆って、嗚咽している様子は、先程の軽やかな声とはどうしても結びつかない。まだ彼女が席を立ってから三十分とも経っていなかった。いつものように、大丈夫ですか、と俺が声をかける前に、彼女は音でこちらに気が付いたようで、ゆっくりとこちらを見る。 その顔は、俺が見てきた助けるべき人間の、どんな顔とも違った。そして、いつものような不思議そうな顔でも無かった。悲観でも無く、苦悶でも無く────ただただ、俺の事を睨みつけている。だくだくと血のように涙を流しながら、目を細めて、眉をひそめて、奥歯を噛み締めて。今彼女が包丁を持っていたのなら、きっと俺は刺されていた。そんな顔をしている。 俺は、彼女に恨みを買われるようなことをしただろうかと思えども、心当たりが無い。それとも、心当たりが無いのがいけないのだろうか。 「……大丈夫じゃないって、言ってるのに」 一拍。 「何回も、何回も、何回も、大丈夫じゃないって言ってるのに……大丈夫だったときなんてないのに……!」 呻き声を上げて、それでも俺の目を見なかった。 「死にたい……」 これを読むまでは死ねないと、先程までそう語っていた彼女はいとも簡単に希死の言葉を口に出す。俺はそれだけのことで、ひどく動揺した。それだけのことじゃないのは俺が一番よくわかっていて、それでも目の前にいるのは敵でもなんでもなくて見知った女の人で、無害で、庇護されるべき人で、助けを求めている人で──────────それなのに、どうして俺はこうも呆然と立ち尽くしているのか。 思わず一歩後ずされば、彼女の方が立ち上がり、真っ直ぐこちらに向かってくる。だくだくと流れる涙をそのままにしたその人は、俺の持った端末に気がつくと、いつもの顔に戻った。不思議そうな顔。それから、俺が此処に居る理由を理解したらしく、ああ、と声をこぼす。それから目を瞬かせて。 いつものように、こう言った。
「届けてくれたんだ、ありがとうね」
彼女は俺を切り捨てた。俺は彼女に諦められた。彼女の人生の有象無象になった。不理解者になった。その瞬間、その言葉で、俺は悟った。 彼女は、苦しんでいる、助けられるべき人だ。それでも、俺には───────きっと、何も欲さない。
「いや、あんな暗がりでわたしみたいなヤバ女に遭遇するなんて最悪すぎるから本当に」 次の日に会った彼女は、丁寧に俺へ謝罪を述べた。そしてその後すぐ軽やかな口調で飛び出した卑下を、俺はもう笑えなかった。どこまでも他人行儀な、まるで自分の芝居の感想を述べるかのような声色が、大丈夫じゃないという言葉が、俺に現在進行形で傷跡を遺していく。
昨日はごめんねびっくりしたでしょう折角忘れ物届けてくれたのにきもちわるい女がいるもんだからさああれもちょっと頭がおかしくなってただけだから気にしないでねわたしなんかむかしからあの時間帯になるとちょっと変になっちゃうんだよねいやそんな君が謝ることなんてないんだよだっていやあんな暗がりでわたしみたいなヤバ女に遭遇するなんて最悪すぎるから本当にわたしだって嫌だもんお化け通り越して怨念っぽくてめちゃくちゃ面白くないかないや面白くはないかでも君でよかったよ見つかったのが他の人とそんな仲良くないからドン引かれちゃうとこだったなあそれだけ君には見苦しいところ見せちゃってるってことなんだけど一応薬は飲んでるんだけど効いてるのか効いてないのかよくわかんないし今後こんなことがもう二度とないように病院頑張って探そうかなって思ったしもう二度と君の前ではこんな姿を
「天国さん」 俺が耐えきれずにそう言うと、彼女の言葉はぴたりと止まった。それから、どうしたの、と不思議そうに小首を傾げられる。 「その、話の途中にすみません。次の予定があって」 「ああ、そっか。気が利かなくてごめんね。とにかく端末のこと、ありがとう。これ無くしたらすごい怒られるところだったから」 駄目だねえ、わたし。 そう呟かれた言葉を否定することすら出来ない。俺は会釈だけして、彼女の前から立ち去った。これ以上あの場所に居たくなかった。
──────俺は多分、彼女のことが、嫌いになったのだと思う。
だから浅桐が屋上から落ちたその日も、彼女の背中に何を言うべきか分からないまま、沈黙した。暗い部屋で震えている彼女が何かを知っていることは明白で、傷付いていることは最初から分かり切っていて、それでも彼女のその丸まった背に、手を伸ばすことをしなかった。出来なかった。俺が何をしようが、きっと彼女の心に傷が付くのは見て取れた。彼女の心はどこまでも過敏で、世界に対して酷く弱く、そして脆い。 それなのに、俺が彼女の心に触れないでいる間に、当の本人は合宿所を出て、海に行って、そして心中もどきをしたと言うのだから、驚くこともできない。それを聞いた時の心情を、俺の不完全な語彙では説明出来ないだろう。驚くなんて、それだけでは、到底。 俺がもしあの時声をかけていれば、彼女は出ていかなかっただろうか。海に行かなかっただろうか。心中なんてことをしなかっただろうか。いや、彼女は俺がどれだけ手を伸ばそうが、振りほどいてでもその全てを行っただろう。むしろ俺が腕を掴むことで、彼女はさらに逃げようとしたかもしれない。俺が掴んだ自分の腕を切り落としてでも、そうしたのではないだろうかと思ってしまう。 ただ、どうして浅桐なのだろうと、俺はそう思う。俺を拒み、切り捨てた彼女は、何故、浅桐を選んだのだろう。彼女と浅桐が話している姿はあまり見たことがなくて、それが事実なのか、それとも俺の目の届かない所で行われていたのか、確証が持てないことに愕然とした。俺の視野は彼女に焦点を当てている間、余りにも狭かった。俺は何も理解できない。助けられない。理由は残酷なぐらい簡単で、彼女が欲していたのは、俺ではないから。その一言で空白を埋めてしまう。 どうしてですか、と言う言葉を発するために、林檎の皮を剥く。何度も、何度も、何度も。 どうして浅桐なんですか。 どうして俺じゃ駄目なんですか。 俺は、どうしたら良かったんですか。 彼女の口に運ばれるための林檎が、積み重なっていくのを見ながら、いつの間にか季節は移り変わっていく。 冬になっても、俺は、まだ春を懐古している。