わたしは、わたしのこころを守らなくてはいけない。
▼
クラスのおんなのこに、友達に、何度も話す。どれだけ笑い話のように話しても、わたしのこころは怨嗟に満ちていた。 天国さん、面白いね。 ────わたしはなにも、面白くなんてないけど。 わたしも、あの先生嫌いだよ。 ────嫌いなんて言葉と、わたしの怨嗟を一緒にしないで。 それだけのことで? ────うん。それほどのことだった。 みんなは、わたしのはなしでわらってくれる。けれど、だれも本当の意味で、わたしの怨嗟を理解してなんてくれない。 わたしのほうがおかしいのだと気が付いた時には、もう復讐することも叶わなかった。わたしのこころは、軋んだそれは、もう二度と、一生戻らないから。
だから、わたしが守ってあげないといけない。他の何かを踏みつぶしても。わたしは、わたしを。
▽
「…………」 泣きながら、目が覚めた。カーテンの隙間からは鋭いひかりが漏れていて、時計を見なくても朝が来ていることは分かる。今日は嫌な夢を見た。学年主任に集会で吊り上げられる夢。キャッチーで面白いタイトルなのが本当に困る。誰もわかってくれないから。 嫌な夢を見た原因は分かっている。その事を考えると、頭がぐらぐらして、呼吸が浅くなる。ああ、心がこんなにひどい音を立てて軋むのはいつぶりだろう、と思ったけど、今年の夏もこんな感じだったから、割とよくあるらしい。復帰明けは忙しくて、薬をあまり飲めていなかったのも原因かもしれない、と普段から効果を期待していないのに、こんな時だけ理由にしてしまう。都合のいいことだ。 冬は当然のことながら寒くて、毛布から出る気にならない。出ても、会いたくない人に会わなくてはいけない。ああ嫌だ。わたしは間違いばかりをしている。映画なんて、誘わなきゃ良かった。そしたらわたしは何も知らないで、のうのうと生きていけたのに。他人の心を踏みにじることにも、きっと気が付かなかっただろうに。
感情は、むかしからすごく苦手だ。好意にしろ、嫌悪にしろ、感情というものが向けられていると考えただけで、身の毛がよだつ。こころがざわざわして、落ち着かなくなる。わたしのこころは、ありとあらゆる外的要因に過敏に反応した。その外的要因というものに、人間の感情も含まれてしまっているのだ。 わたしのこころは、わたしを守ろうとして、見なくて良いところまで見ようとする。その人の表情、言葉の柔らかさ、その人が何を思っているのかを予測して、最悪の事態を想定してしまう。だからいつだって、起こりもしない未来に、わたしは傷ついてしまう。恐れてしまう。震えてしまう。怒られることは恐ろしいけれど、怒りを隠した顔の方が、もっと恐ろしい。垣間見えた不機嫌さを、わたしは無視することが出来ないから、息が出来なくなる。いつだって、綱渡りをしているみたいだった。どうせ、見てしまうのなら、せめて失敗してはいけない。他の人間を突き落としてでも、わたしはバランスを崩す訳にはいかない。わたしを守ろうとしたこころはいつの間にか歪んで、だから今度はわたしが、わたしのこころを守ろうとしている。 ここがわたしの地獄だ、と思った。終わらない綱渡り。終わらない地獄。そしてこの地獄は、きっとわたし以外の人間にとってはなんでもないもので、それがなおさら辛かった。人には人の地獄があるから。わたしが唇を噛み締めて、一歩一歩を踏みしていても、周囲の人間は軽やかにわたしを追い抜いていく。なんてことないように。素知らぬ顔をして。 わたしは、先ゆく彼らに、酷く嫉妬した。怨嗟した。どうしてわたしだけがこんなところにいるのだろうと、そんなことばかりを思って、泣きながら全てを呪った。泣いたのは、悲しかったからではない。ただ、復讐を果たすすべを知らなかったわたしが、暇を持て余した行為でしかなかった。 だから、泣いている時は、わたしの頭は周囲の人間が思っているよりも冷静だ。沸騰した感情が、どうして、という怨嗟で噎せている間に、わたしの理性は何を泣くことがあるのだろう、と自問している。あまり泣き過ぎると、いざという時に説得力が無くて困ることになるから、本当は上司だとかそういう社会的地位が上の人の前で泣くのが良いのだけど、まあ止まらないから致し方ない……だとか。存外、そんなひどいことばかりを考えている。泣いてどうにかなるのなら、泣いた方がいい。どうにかならなくても、怨嗟を示すために泣いた方良い。泣かないと、誰も足を止めてくれない。こう言うと、わたしの出来損ないの地獄も舞台のようだけれど、きっと浅桐は鼻で笑うに違いない。わたしは彼の、そういうところを愛している。
▼
春の嵐。そんな日だった。風がびゅうびゅうと吹いて、ワンピースを着てきたことを後悔するけど、それも一瞬だけだ。ワンピースはわたしの鎧だった。わたしが、わたしであるためのもの。吹かば吹け、笑わば笑え。わたしは一生、この格好で生きていくつもりだ。 まあそれをするには当然お金がいるので、わたしは就職先を何とか探し出して、こんな桜並木の下でぽつねんと立っている。桜の木の下には死体が埋まっていることで有名だが、こんなコンクリートでは埋まるどころか掘ることも不可能だろう。そんな馬鹿なことを考えていたせいで、道に迷う。携帯の充電も切れる。いよいよ困った。わたしは見知らぬ他人に、声をかけるのが一番苦手なのに。
────坂の下に、一人だけ、制服を着た、男の子がいた。制服を着ているということは、きっと学生だから、わたしより年下なのだろう。年下、それに学生ならまだ話しかけられる、という浅ましい考えは、遠近法によって小さく見えていた彼の図体の大きさに気が付いた途端、萎んでいく。でも、わざとらしいぐらいにお姉さんぶる態度は崩さない。むかしから、変なところで張らなくていいプライドを張りたがる。今更演技をやめるのは躊躇われて、なんでもないというように、少年、と繰り返す。 それからだ。彼が、わたしの“少年”になったのは。なってしまったのは。
わたしは黒が好きだ。黒は良い。暗がりにいても分からない。汚れがついても分からない。他の色に侵食されることはない。だから黒い服に黒い靴に黒いバックを持って生きている。昔は、赤とか青とか、もっと明るい色が好きだったのに、わたしはもうその感情が思い出せない。制服が、まるで喪服みたいに黒かったから、わたしは未だに黒を身に纏っているのかもしれない。それならわたしのこころは、まだあの地獄に囚われているということで、まあ、笑い話にもならないけれど。でも、他の人には笑い話になるんのかな、どーなんだろ。 そんなわたしに反して、少年は白かった。制服も白くて、わたしは食堂で彼がなにか食べる度に汚したりはしないだろうかと身を強ばらせていたけれど、一度もそんなことは無かった。正しさという意味でも、彼はどこまでも白い。背筋が伸びていて、彼の言うことも、行いも、その何もかもが正しかった。 おぞましいな、と思った。なんて正しくて、おぞましい子なんだろう。周囲の人達はそんな彼を慕っていて、なおさらそれが目に痛かった。わたしはその白さを汚れが目立つだろうとしか思えなくて、背筋も曲がっていて、感情も間違っているから、凄く嫌だった。苦痛だった。また間違えてしまったと思った。声なんてかけなければ良かった。少年なんて、呼ばなければ良かった。 彼とわたしは仲が良かった、のかもしれない。よく話していただけなんだけど、わたしはそもそもあまり人と話さないから。相対的にと言った方が正しくて、彼の方も彼の方でわたしなんて人間は、有象無象の一人だと思う。浅桐に言わせるなら、凡俗なモブ。そもそもこの世の人間の十二分の一は四月生まれなわけで。そんなことにも気づかない彼はわたしの前か、横にいて、だからわたしはすごく居心地が悪くて、呼吸が浅くなった。正しい君と一緒にいると、わたしの間違いが見抜かれてしまう気がした。いつ指摘されるかと、口を回しながらそんなことばかりを考える。自分の腕を掴んで、おぞましさに耐えるけれど、彼は気づいていなくて、それが尚更憎かった。気づかれるのも嫌で、気づかれないのも嫌。面倒な人間だけれど、それがわたしだから、諦めるしかない。わたしだけは、わたしを見捨てられないから。 浅桐と海に突っ込んだ時は流石に彼もドン引くだろうなと思ったけれど(わたしだってわたしにドン引いているから)、何も言わなかった。てっきり正しい彼のことだ、正論でわたしのこころを踏みにじるかと思ったのに、何も言わずにいつも林檎を剥いている。わたしはいつ正論という名の剣でぐちゃぐちゃにされてしまうかと恐ろしかったのに、最後まで何も言わなかった。そのことに、安堵して、わたしは油断していた。顔色を見なくても良くなったのは、彼の正しさなんて、どうでも良くなったからだ。わたしの人生に介入されることは無くて、きっと彼はどんどん先に行くから、わたしはずっと綱渡りをしていて、それだけの話のはずだったのに。
好き、だなんて。ふざけないで。わたしは君のことなんて好きじゃないのに。ああ、憎い。お前の正しさが憎い。わたしのことなんて、何も分からないくせに。お前が見てるのは、わたしが作り上げた、わたしだけのわたしだ。そんなことも分からないで、わたしのこころに、触らないで。 もしわたしがわたしのこころを切り開いて見せたら、彼はどうするんだろう。腐敗した感情の醜悪さとその異臭に、顔を顰めてみせるに違いないのに。そんな分かり切ったことを考えて、悲しくなるのはなんでだろう。泣きたくなるのはなんでだろう。死にたくなるのはなんでだろう。なんでかな。なんでだろうね。