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気がつくと少女は町にいて、庄左ヱ門に手を引かれていた。一度深く根深い抑鬱に陥ると、こうして軽度かつ短期の健忘が起きたり、頭にもやがかかったりすることが多く、少女はなぜここに自分がいるのかちっとも思い出せない。あの小松田が追ってこないのを見るに、きっとサインはしたのだろうが。 「……ねえ、庄左ヱ門くん。どうしてあたしはここにいるんだっけ」 「先輩、もう忘れちゃったんですか?僕が先輩とお出かけをしたいと言ったんです。そうしたら先輩は今度の筆記試験で僕が全部満点を取れたらと仰ったので、そのようにしました」 「君にとって満点って『する』ものなの?凄いね……」 出来るからしただけだ、と言わんばかりの庄左ヱ門は怖いが、そんな約束をした記憶すらない自分はもっと怖いな、と少女はぼんやりと思う。幸いだったのは、深い抑鬱の後には気持ちが数刻ばかりなだらかになることがあって、それが今だということだった。しかし、町は学園とは違った人通りの多さで、少女の手は汗が滲む。 「先輩?」 「あ、ごめん……」 思った以上に力を入れてしまっていた手を離そうとしたが、庄左ヱ門は掴み直す。それに加えて、手のひらだけではなく指を使ってしかと固定されるものだから、少女は眉をひそめた。 「え、なに急に」 「先輩、どうして抱擁が人の心を落ち着けるのか知っていますか?」 「え、本当になに急に」 庄左ヱ門はすっかり『庄ちゃん』モードに切り替わり、空いた方の手の人差し指をピンと立てる。少女はそれを見つめるより他ない。 「人間というものは、自分一人では自分の輪郭というものを認識できないのです。比喩ではなく、本当の肉体の輪郭です。しかし抱擁をすれば、肉体と肉体は接触し、人間は自分の輪郭を物理的に感じられます。そのことに、人間は安心を覚えるんです」 「はあ…………」 ぺらぺらと喋る庄左ヱ門の理路整然っぷりは流石だが、少女にとってはだから何?でしかないが、庄左ヱ門は満足気な顔をしている。 「だからこうしているんです、僕は」 「でも、手だけでしょ?」 言ってから、少女は少し良くない言い方をしたなあ、と内省した。まるで自分がして欲しいみたいな言い方だった、と。けれど庄左ヱ門は意味を決して違えない後輩であることも、彼女は知っている。事実庄左ヱ門は違えなかった。 「今はこれで我慢します。先輩の方が背丈も大きいですから。僕が先輩よりずっと大きくなって、先輩のことを、すっぽり包めるようになったらそうします」 「そうしなくても墓穴の上から土をみちみちに詰めてくれたら感じられそうだけどね、輪郭。今すぐに死んだらそうしてくれる?」 「あっ、先輩、あそこで見世物をやっていますよ。見に行きましょう!」 「清々しいほどの無視だね。まあいいけど……」 偉そうなことを言ってもまだ子供だな、と少女は苦笑した。庄左ヱ門が彼女を引く手はどこまでも強く、組紐のようにしかと指は結ばれている。
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「昔のあの人はどんな方だったんでしょうか?」 庄左ヱ門は彼女に関する定期報告の際に、保健委員長である善法寺伊作にそう問いかけた。すると善法寺は苦笑して、「僕から聞いたって内緒にしてくれるなら」と前置きし始めて、こんな話をしてくれた。
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僕が彼女に出会ったのは当然、一年生の頃だった。その当時から僕の不運は相変わらずで、その日もたまたま吹いた風に頭巾が拐われて、木の上の方に引っかかったんだった。どうしようかと途方に暮れている僕を、助けてくれたのは彼女だった。 たまたま通りすがった彼女は、僕の顔を見て、それから僕の視線の先を見ると、何も言わずに木の上に登った。それはどこまでも軽やかな動きで、僕が呆然としている間に彼女は無言で頭巾を差し出した。 「あ、ありがとう」 彼女は何も言わなかった。うんともすんとも。笑顔になったり、逆に怒ることもなかった。まるで路傍の石を避けるみたいに、流れの動作の一つみたいに僕を助けて、そのままどこかに行ってしまった。
一年生の頃から、彼女は神童として有名だった。別に特別な家の生まれではなかったらしいけれど、忍術も体術も兵術も、彼女は段違いに優秀だったから。読んだものは次の日には覚えていたし、体術、特に近接戦闘において彼女は男女の肉体的な差を飛び越え、年上の忍たまをも打ち負かすことがあった。あの頃の先生達は皆、彼女は忍者になるために生まれてきたのだと言っていた。あまりにも彼女の力量は圧倒的で、誰もそれを疑わなかった。彼女は物理的にも、精神的にも、なるべくしてなった孤高だった。 でも彼女は、変わらず僕を助けてくれた。いつも心配するでも、呆れるでもなく、呼吸をするのと同じぐらい、普通の温度感で僕を助けた。僕は彼女のことが大好きだった。いつか友達になりたいと思った。僕たちは男女で性別も違うし、なんなら彼女の方がずっと優秀だったけれど、それでも、友達になりたいと思った。一緒に出かけたり、同じ机でご飯が食べたかった。
三年生になってようやく、僕は彼女に話しかけた。最初こそ僕のことを不審そうに見ていたけれど、僕がしつこくついてまわったら、困ったみたいに笑うことが増えた。見かけたら声をかけてくれたし、一緒に街に出たり、同じ机でご飯を食べることだって出来た。彼女と仲が良くなって、彼女が神童なんかじゃないことにも気づいた。彼女は常軌を逸した秀才だった。足りない時間は睡眠を削って生み出して、体に覚えさせるために自らの体を無理に動かすこともかった。今思うと、これが彼女の自傷癖の片鱗だったのかもしれない。 ……それでも、あの頃は良かった。僕は今でもあの頃のことを時々夢に見る。僕達が一番仲が良くて、彼女がまだ、彼女だった頃の記憶。 一度、彼女が『善法寺は、優しいね』と言ってくれたことがあって、僕はそれにびっくりした。僕にとって優しいのは、彼女のほうだったから。必死にそれを伝えたけれど、彼女はそれを受け取らないどころか、どんどんと眉をさげて、悲しそうな顔をした。 『あのね、善法寺。あたしは優しいんじゃなくて、』 彼女は言葉を途中で止めて、『やっぱり、なんでもない』と呟く。僕は無理に聞き出そうとすることも出来ずに、彼女と別れた。もう二度と、この続きが聞けなくなると分かっていたら、もっと僕は彼女に食い下がっていただろう。 ────その日の夜だったんだ、彼女が、自らの腹を自分の苦無で真一文字に割いて、自殺を図ろうとしたのは。
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「先輩、庄左ヱ門です。入ってもよろしいですか」 「…………開けなかったらいつまでも居座るんでしょう、あんた」 「先輩は僕のことをよく分かっていてくださるのですね。嬉しいです!」 「ああ言えばこう言う!」 そう言いながらも、少女は襖を開けてくれることを庄左ヱ門は知っていた。相変わらず、ごちゃごちゃとした部屋だが、刃物の類や血痕が付着したものは、布が被せられている。とどのつまり、いつも通りということだ。 「それで、今日は何?また先生からあたしの様子を見てこいとでも言われた?それとも試験のこと?」 「いえ。今日はただ、先輩と話がしたかったのです。先輩は昔、神童と呼ばれていたという話を聞き及びましたので」 「……善法寺」 忌々しげに零された言葉は、どこまでも確信めいていて、庄左ヱ門はそれを少し羨ましいと思う。彼女にとって、ただ一人の友人は、間違いなく善法寺伊作だったのだと、そう思って。 「はい。仰られる通り、善法寺伊作先輩から、昔のお話をお聞きしました。先輩は昔からお優しかったのですね」 「…………………」 少女は嫌そうに眉をひそめ、無意識なのか、手首を爪で引っ掻いた。長い袖で隠されてはいるが、きっとそこに傷があるのだろうと庄左ヱ門は想像する。鉄錆のような色をした、悲しいぐらいに真っ直ぐな直線が、もう何本も。 「僕なら、僕ならもっと、善法寺伊作先輩よりも上手くやれると、そう思いました」 「…………え?」 ひそめられた眉がほんの少し上がって、困惑を浮かべる。庄左ヱ門は腰を上げ、膝を彼女の元へと近づける。ほんの少し、血の匂いが漂うような気がした。 「僕が先輩と同じ学年だったなら、先輩にあんな酷いことは言いませんでした」 「酷いこと……?」 「『彼女がまだ、彼女だった頃』と、善法寺伊作先輩はそう仰いましたが、僕はそうは思いません。きっと先輩は最初から、先輩でした。先輩は変わってしまわれたのではなく、最初からその形をしていたのです」 「………………」 少女の、重たげな睫毛に覆われた瞳が、微かに震えた。庄左ヱ門からすれば、当時の教師も全くもって分かっていない、と思う。彼女のどこが、一体忍者に向いているのだろうか、と。 「僕が最初から先輩と出会えれば良かった。僕なら、その時がきたとしても、特段なんとも思わなかったでしょうに」 「………あたしはお前が時々恐ろしいよ、庄左ヱ門。お前は優しいけれど、時々心がないようなことを言うから……」 「先輩はおかしなことを仰います。恋という字には心が入っているでしょう」 「はあ、またあんたは、ああ言えばこう言う」 少女は呆れたように溜息を吐いて、体を徐に横にした。庄左ヱ門もその隣に横になったが、彼女は特に何も言わずに、まるで庄左ヱ門を寝かしつけるかのように、彼の背中を一定の拍数で、優しく叩くのだった。
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