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「なにかしてほしいことはないですか?」 「えーと……」
困ったように土井は頭をかいた。なんせ目の前にいる女は体調不良で一日の殆どを布団と過ごしている人間だし、何故か子供でも知っているようなことを知らない。そんな彼女にしてほしいことどころか、できることの方がずっと少ないだろう。
「……もしかして、また、聞いてほしい話が出来ましたか?」 「はい」 「それなら何もしなくても、」 「だから、そうじゃないんです」
苛立ちをほんの少し滲ませた彼女は、眉を顰めた。怒っている、というよりも苦しそうだ、という感情をこちらに与えてくるような顔は、土井にほんの少しの罪悪感を植え付けた。
「ええと、あー、そうですね。なら、今から生徒の答案を採点するのですが、それを乾かしてもらってもいいですか。墨を乾かすのが少々厄介で、風で飛ばれても困りますし」 「わかりました」 「採点自体はまだ出来ていないので、先にお話を聞いても?こういう順序は逆ですか?」 「…………いいえ。むしろそっちの順序が正しいので」
正しい、の意味が分からないまま、土井は彼女の布団の傍に近寄る。彼女はのろのろと体を半分だけ起こした。相変わらず、体の重みに心が着いていかないような動きだった。誰が見ても、彼女は病んでいる。ただその箇所が心なのか体なのか、土井には分からない。
「私、いふの話がすきで」 「畏怖の話…………?」
畏怖。自分にとって怖いものや凄いものを恐れること。土井ならは組の生徒にこう説明するだろう。しかし畏怖の話、しかもそれが好きとはどういうことなのだろう。これはもしかして、彼女の人となりを知る機会になるかもしれないと、土井は居住まいをそっと正した。
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外は雨。天気は私の精神に大きく作用する。私は重い頭を引きずって、もう何度目か分からない回顧と反芻を繰り返す。
私がこの世界にやって来たときに持ち合わせていたものは、常飲している頓服では無い薬と、寺山修司の本が一冊。それだけだった。だから普通に考えれば、私は処方箋に従って薬をもらって帰った途中で死んだことになるのだけれど、そんなことを考えるのにはもう飽きてしまった。
それよりも目下の問題は、薬には底があること。頓服は飲んで一時間も立たずの内に私の心と頭を落ち着かせてくれるものだけれど、常飲している方も方で、意識できないながらに私の頭を下支えしているはずだ。実際、試しにどうなるかと思って医師に何も言わないまま断薬してみれば、ものの数週間で具合が悪くなった。だからこちらも、長い目で見れば必要。でも今の私に出来ることは、この一ヶ月分としてもらった約三十錠を、割って飲んで無理やり二ヶ月分として持たせること。それから先のことは……考えたくもない。昔からそうだ、私の頭は考えれば考えるほど、おかしくなってきた。だから私は寝て意識を落とす。それが最善だと知っているから。
それと、薬の問題に比べたら全然大したことはないけれど、持ってこられた大好きな寺山修司の本が、一冊、しかもまるでパッチワークのように言葉を醜く継ぎ接ぎにした名言集の類だったというのも、実にショックだった。じゃあなんで買ったんだと言われるかもしれないけど、私は寺山修司本人の文章は全て手に入れることにしている、そういう縛りみたいなもの。でも一冊だけ地獄に持っていけると言われたのなら、寺山修司の戯曲集が良かった。文庫の方じゃなくて、著作集の方。あれがあったら、あと五年は暇を潰せたはずなのに。
────『空想は、行為の再現でもなければ終局でもない。まさに、現実と同じように、力学を持った存在である。』
そう、彼はそう言ったのだった。私は昔から空想が好きで、ずっと空想をして過ごした。頭の中では、強迫観念か死か空想のどれかが必ず渦巻いていて、だから私は眠るのが好きなのだ、と思う。こうでもしないと、頭の中を空っぽにすることは出来ないから。
空想が寺山の言う通りに力学ならば、そこにはその力が作用する何かが存在する。例えばこの今見ている世界が全て空想だとして(私は今も尚この説を疑っていない)、それはまるで静かな水面に突如放り投げられた石だろう。投げられた石は波紋を生み出して、それは力として何処かに到達する。それが私の神経中枢なのか、脳のやわいところなのかまでは知らないけれど、少なくとも私の人生にはその波は届いていた。
───あ、話したいな。