『眠ってみる夢は、かならず途中で醒める。だから、醒めない夢を見ようと思ったら、死んでみるのが一番だ。』
───ここに来てから七日目にふと、そんな寺山修司の言葉を思い出した。七日。神様が、世界を作ったのはたった七日。もしこの世界が私の頭の中だけにある醒めない夢ならば、きっともう全部が完成しているはず。トゥルーマン・ショーのように海に涯はないし、空から照明が落ちてくることもないし、私を父親のように見守ってくれるプロデューサーもいない。あの映画はよくラストシーンが取り沙汰されるけれど、私はショーをお客さんが見終わって、日常に戻っていくシーンが好きだった。 現在、ここにきて多分、七日以上経った。私はここを地獄だと思っていて、なぜなら現世の煩わしい人間関係は存在しているし、私の精神疾患は治っていないし、もっというなら薬がない。いつもやって来た誰かに欲しいものはありませんかというような事を聞かれて、私もいつも同じように「アルプラゾラム」と言う。ブロマゼパムでもいい。とにかく、私は私の頭をまともにする薬が欲しい。けれどここにそんな薬は無いらしく、私はそのたびに絶望感に駆られる。もっと絶望的だったのは、彼らが精神疾患の知識にあまりに乏しいこと。こう、合理的配慮ということではなく、医学的知識として。私も当事者であるもののセルトラリンがたくさん出たり出なかったりするということしか言えず、言ったところでこんな人達に自分の脳味噌を預けるような真似はしたくなかった。それ以前に、そういうことを説明する体力は無かった。カウンセラーならまだいい、でも今まで健常者として生きてきてこれからもそのつもりの人に理解を求めるのは、しんどい。物凄く、苦しい。どうして私は私として存在しているだけで他人より数万確定で払って、こんな苦しみを?といつも地下鉄に揺られて多分大学生っぽい人がお喋りをしているのを耳に流し込みながら考えたものだった。ここには地下鉄も多分ない、私の夢ならうんうんと考えれば出てくるのかもしれないけれど、頭の中がモヤがかかったように上手く考えられないのだ。最初にここの人が説明してくれたことの半分も忘れてしまって、文字に書かれたことも上手く読めなくて、私はずっと畳の部屋で布団にくるまって横になっている。 「すみません、失礼します」 濁流のように流れる思考が、その言葉で止まる。ええと、彼は何かを言ったんだけど、私には上手くその言葉が認識できない。聞こえない、とかじゃなくて、なんだろう、今の私は頭がいつにも増しておかしいから、上手く理解できない。もういいか、別に。そうやってなんにもない天井をぼうっと見つめて、どのくらい経ったのかな。襖がゆっくりと開いて、私は視線だけを向けた。私と目が合った彼はびっくりしているようだったから、嫌な気持ちになる。その顔、私が突然ヒスって部屋の壁にクッションをうち付け始めた時の母親にそっくり。全然ちっとも想定外でしたって顔だ。 「失礼しました、お休みになられているのかと」 しつれいしましたおやすみに、しつれいしましたおやすみになられている、しつれいしました、おやすみ、失礼しましたお休みに、あ、ちょっと分かる。何回か言葉を頭の中で反復して、ようやく分かった。誰かは分からないけど。会ったことがあるのかないのかも分からない。 「…………ええと、その」 彼は困っているようだった。私が何も言わないから。これもあれだ、どうやったら病気が治るのって聞いてきて私が何も答えなかった時の母親にそっくりだ。あんまりにも母親が重なるので、この人は人の親なのかな?と思った。だとしたらセックスして子供を産んだってことだ。げろげろげろげろ。吐き気がする。 彼が開け放った襖の先では、穏やかな日差しがある。聞こえるのは、遠くで子供たちがはしゃぐ声に、ちゅんちゅん鳴く鳥、ちょっとした風で葉が揺れる音。あ、これ、覚えがある。覚えがあるけど、多分ここの人は分からないんだろうな、と思って、私はそれも悲しかった。気持ちを押し込めるのは、頭の病気じゃなくたって、誰だって苦しい。嬉しい時に嬉しいと言えないのも、苦しい時に苦しいと言えないのも、同じぐらい苦しい。 ────ああこういう時、カウンセラーさんがいたらいいのに。私はカウンセラーさんになんでも話す患者であり、クライアントだった。それが向こうにとってよかったかよくなかったかは考えないようにしたいけど、私はカウンセラーさんに話すのが好きだった。普通の人は駄目だ、だってお金を貰えないから。カウンセラーさんでなければいけないのは、私の話を聞いて、対価を貰える職業だから。そういう安心だった。この人は対価を貰っているから私に都合のいいことを言ってくれるとかそういうことじゃなくて、貰っているから私は好きに喋っても罪悪感を持つことはないんだという保証。それが大事だったんだった。 「…………あの」 「はっ、はい」 私は口を一ヶ月ぶりぐらいに、ゆっくりと開いた。
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土井はから回った返事をしながら布団の傍に体を少し近づけた。この少し前に突如として敷地内に現れた奇妙な女は、最初こそ警戒されていたものの、あまりにずっと体調を悪くしているので、警戒は警戒でも未知の病という方向で警戒されていた。しかし一ヶ月の間に体調が低空飛行のまま平静を保っていたので、土井などの大人達は彼女と接することを許されていた。どちらにせよ、誰かが食事を与えなければ彼女は死んでしまう。本当に、一日の九割九分を部屋で横になって過ごしているのだから。おまけに軽度の健忘や、支離滅裂な事を言ったりすることもあるので、少なくとも土井は彼女のことが心配だった。欲しいものはないかと聞いても、よく分からない文言をうにゃうにゃ呟くだけで、無いですと言えば絶望したような顔をする。可哀想だ、と誰もが彼女をそう思うだろう。 そんな彼女が、自分から言葉を発するのは初めてのことだった。いつもこちらの言葉に億劫そうに返事をするか、眠っているか、意識はあるのに目だけ閉じている彼女が、こちらに向かって何かを言おうとしている。最悪の場合、もしかしたらこれが彼女の遺言になってしまうのかもしれないと土井はじっと耳を澄ませた。 「………かたを………たたいてもいいですか」 「…………かたをたたいても、いいですか?」 「かたをたたいてもいいですか」 かたを、ああ、肩を、か。 そう気づいたとしても、土井にはさっぱり分からない。とりあえず頷いてみれば、彼女はのろのろと起き上がった。彼女が起き上がる場面を土井は初めて見た。ずっと横になっていたから胸元も腰元もかなりはだけていで、土井はウワーッまずい!と脳内で叫んだけれど顔には出さなかった。彼女はそんなことも気にせず土井の背後に回る。咄嗟にそんな彼女を組み敷いてしまいそうになるのは、土井が色情魔なのではなく、忍としての特性故だった。背後を取られたら死ぬ世界だ。けれど背後を取られても、彼女だったら殺せるな、と土井は思う。それぐらい頼りげなくて、寄る辺のない女だった。 ぽむ、と彼女の小さな握りこぶしが土井に振り下ろされて、そこでようやく、彼は肩を叩いていいですか、の意味を悟った。ぽむ、ぽむ、ぽむ、雲より軽そうな彼女の拳が土井の肩を叩いている。ちっとも意味が分からなかったが、軽々しく了承した手前、今更断るのも気が引けて、されるがままだった。これで死んだら一生の恥だな、と考えて、いやその前に一生は終わっているんだが、と自分で突っ込んでしまう。は組担任の悲しき性だった。 そんな土井の懸念に反して、ぽむぽむとした肩叩きは数分で終わり、彼女は土井の横にひょっこりと顔だけを出す。 「しました」 「え、あ、はい……されました………ありがとうございます……」 「おれいはいいです。話をきいてほしくて」 「話、ですか?」 「はい。肩をたたいたので、きいてください」 「……えーと、話を聞いてほしかったので、肩を叩いてくださったんですか?話を聞くぐらいなら別に、肩を叩いていただかなくても……」 「?そういうことじゃないですよ?」 「あ、はい………………」 もー全然分からん!最近の若いもんは分からん!とまた土井は脳内で叫んだ。顔はちょっと崩れかけた。口の端が引きつった。それを肯定と受け取った彼女は、存外図々しいのかもしれない。そんなことを思いながら、土井は彼女と向き直った。どんな話来ても驚かないぞ、と思いながら。 「じゃあはなします。いまここの景色ってものすごく平日だなっておもうんですよ、平日ってわかりますか?お休みじゃない日ってことです、お仕事をしたり、学校にいったりする日のことです」 「え、ええ、わかりますよ」 「私ずっとその空気がすきで、私は小学校中学校高校のころ全然休んでなくて、それはお母さんが凄くきびしかったからなんですけど、で、だから風邪とかひいたときじゃないとまあ休めなくて、それって普通なんですけどとにかく休めなかったんですよ。で、いつだったかなー忘れたんですけど風邪をひいて、お母さんは自分にもきびしかったから仕事はやすまなくって出ていって、私を置いて。で、私はうわぁーと思いながらでも薬のんだらちょっと楽になって、なっちゃって、これバレたら怒られるなーと思って、外に出たんですご飯なかったから」 なんともまあ、あまりにもそのまま過ぎる言葉だった。土井は少し混乱しそうになって、一旦手の平を向ける。 「………ええと、ちょっと一旦纏めますね。つまり、貴方は風邪をひいたけど、貴方のお母さんは仕事に行ってしまって、お昼ご飯も無かったから外に出たんですね?ここまで、合ってますか?」 「合ってますよ。はなしていいですか?」 「あ、はい。どうぞ。話の腰を折ってすみません」 「それで、コンビニまでいこうってなって、あコンビニっていうかご飯、ご飯たくさんあるところに行こうとして、そしたら学校があるんですよ、学校っていっても私の学校じゃなくて、違う学校です。そこのグラウンド、ええと、あの、運動場?あの土がばーってあるところの横を通ったら、ボール投げてて、体育の授業で。わーわー聞こえるんです。今みたいな感じで、ながーいトンネルの向こうから名前を呼ばれてるみたいな感じでおーいって、わーいわーいって聞こえて。木もあったのかな、あった気がします。風と太陽がうんと気持ちのいい日でしたよ。そしたらなんか、悲しくなって」 「…………悲しくなった?どうして?」 「なんか、私だけ違うなって、ここにいちゃいけなくないなー、と思って。なんかそういう事が小さい頃あったんです、で、高校生になって今度は病気じゃなくて普通に変になっちゃって、だから途中から高校に行くんですよ。あっ、高校っていうのはじゅうろくじゅうななじゅうはちの人がおおよそ行くところで、小学校はななさいからじゅうにさいです」 「な、なんとなく分かりますから大丈夫ですよ」 「よかった。で、途中からいくんです。そしたら私が昔みた光景があるんですね、校庭の子供がわーきゃーしてて、いいお天気で、あったかいなすごしやすいな、と思って。それで思って、なんというか、私、死なないとって」 「………………」 死なないと。それは脅迫めいて、強迫めいた言葉だった。 「あ、別にしぬわけじゃないですよ本当に、わかりますよね?だって私、生きてるし。なんか、ええと、そういうことがあったなーって言いたかったんです。励ましてほしいわけでも、おこられたいわけでもなくて、きいてほしくって。今ここからみえるの、それだなって。聞いてほしかったんです」 果たして聞くだけでいいのだろうか?と土井は考え込んだ。死にたくない、という命乞いは何度も聞いたことがあるけれど、死んだ方がマシだという悪態もまあ覚えがあるけれど、こんな生ぬるい温度の死なないと、は初めてで、土井は本当に困った。土井がそんなことを考えているとも知らないだろう彼女は、じっと外を眺めて「でもほんとうに、今日はいい天気ですね。懐かしいな」とつぶやいた。何がいい、なのかすらも、土井には分からない。 「………なにか、食べますか?」 そう絞り出した言葉も、彼女の「ううん。つかれたので、ねます」という言葉で封殺される。彼女はまた毛布の中に篭って目を閉じた。死んだような彼女に向かって、土井は「じゃあ何か、欲しいものはありますか」と尋ねる。 「アルプラゾラム」 彼女はいつかと同じようにそう呟いて、それからもう、土井が立ち去るまでは何も話さなかったし、目を開くことも無かった。