一年生達の合宿出発前日、寒太郎は悠姫達の部屋に入り込み、夜のお喋りに勤しんでいた。ちなみに一色がもう寝た方がいいよ、と声をかけて三十分は優に過ぎている。 「合宿かー、もうそんな時期なんだね」 「カンちゃん先輩、今回冬眠期間長かったもんね。しばらくぶりに見た後輩はどうよ!」 寒太郎の太腿の上でゴロゴロとしながら悠姫はそんなことを言った。榊が「ちょっと、先輩に失礼でしょ」と窘めるものの、寒太郎は「まあまあ」と笑ってそれを制するばかりだ。 「悠姫ちゃんは可愛いね。榊ちゃんも可愛いし、うちの後輩はみんな可愛いなあ」 「……もう、そんな甘やかさないでください」 口調は硬いが、榊の頬は仄かに色づいている。榊はどうにも、この先輩の甘やかしの言葉が苦手だった。嫌いではないのだけれど、どうにもストレートで、ムズムズとする。逆に悠姫はそんな寒太郎の言葉に慣れているようで、「やったー!カンちゃん先輩大好き!」と喜ぶばかりだ。 「……そう言えば先輩もこの合宿に参加したんですよね?どんな感じだったんですか?」 場を取り直すように榊がそう聞けば、寒太郎は悠姫を太股に乗せたまま、過去を思い出すかのように頭を捻る。 「うーん、どんな感じって言われても、まあ料理を作るだけだからいつも通りだよ。いつもやってる事をやるだけだから、落ちる方が不思議なぐらい。だから二人も全然余裕だと思う!」 「な、なるほど……」 落ちる方が不思議、と寒太郎は言うが年によっては半数以上の生徒が落ちている過酷な合宿だ。それを心底理解出来ないという顔で語る彼女に対して、榊は内心怯えに似た感情を覚えた。この一つ上の先輩は朗らかで誰にでも優しいが、時たまこんなふうに冷酷とも言える言葉を放つことがあるのを、榊は十分に理解していた。無論、実力が伴っているからそんなことが言えるのだろうが。 「……うーん、強いて言うなら、二人組で作らされることが多かったかな。私、それでずっとエッちゃんと組んでたし」 「あ、またカンちゃん先輩エッちゃんの話してるー!」 「え、そんなにしてるかなあ?」 自覚が無いのか、寒太郎は苦笑して悠姫の機嫌を取るように彼女の頭を撫でる。 エッちゃん、とは寒太郎の言葉の端々から出てくる固有名詞だった。エッちゃんみたい、エッちゃんならこうする、エッちゃんなら、と寒太郎と親しい人間ならそのエッちゃんとやらが彼女と親しい人間であることはすぐに理解するだろう。けれど、悠姫も榊も、なんなら極星寮の一年生達は肝心のそのエッちゃんが誰であるのかを知らなかった。一度、丸井がエッちゃんとは誰なのかと問うと、本名の漢字が難しくて分からない、と高校生にしては頭が悪すぎる解答が返ってきたことはもはや懐かしい。ただ何となく、寒太郎に似た優しくて明るい女、それが皆のエッちゃんという人間に対する共同幻想だった。 「エッちゃん、料理がそんな得意じゃないから、創作系は殆ど私が作ってたんだよね。懐かしいなあ」 「え、それって何だか狡いような……」 「そう?エッちゃん、当時他の生徒にズルいって言われてたけど全然ズルくないですって顔してたよ」 「ご、豪胆……」 どうにも榊の中での架空のエッちゃんの笑みが邪悪になってきた所で、パン、と寒太郎が手を叩く。 「はい、じゃあそろそろお開きにしようね。みんな明日は朝早いんだし」 「えー!」 もっと喋りたい、とごねる悠姫を無理やり寒太郎から剥がしながら、榊は口を開く。 「先輩としばらく会えないの、寂しいです」 「私もみんなに会えないの寂しいよ。まあでも、怪我なく無事で戻ってきてね。命あっての物種だから」 「そこは退学せずに、じゃないの!?」 悠姫の突っ込みに、寒太郎はあはは、と笑ってみせた。
「寒太郎くん」 一色は、そう寒太郎の部屋の前で声をかける。一年生が合宿で出払った今、彼の声は寮の中でよく響いた。けれども部屋の中からは返事がない。それを確認した一色は、当然のように彼女の部屋の扉を開ける。 まず目に入るのは、暗闇。電気は一つも付けられておらず、カーテンも締め切られたその場所は、二重の意味でひんやりとした印象を与えるだろう。一色は手馴れた様子で壁にあるスイッチを押す。一瞬の明滅と光の揺らぎを経て、その部屋は明るくなった。 部屋は、乱雑としていた。ベットと、机と、部屋の隅で蹲る少女。それ以外の地面はプリントやゼリー飲料のゴミ、ペットボトルで埋め尽くされ足の踏み場も無い。ゴミ屋敷ならぬゴミ部屋とも言えるそれを見た一色は、もう一度「寒太郎くん」と言った。そうすれば、今度は部屋の隅にうずくまっている少女が、顔を上げる。頭に覆いかぶさっていたシーツが重力に従い落ち、地面に広がった。虚ろな目が、一色を確かに捉える。一色は微笑みを絶やさないまま「入っていいかな?」と問うた。少女は黙って頷いた。 まず一色は、カーテンを開けた。そこに至るまでの道のりでペットボトルをいくつか踏み、それはベコベコと酷い音を鳴らしたが、彼は構わなかった。次に窓を開ける。生ぬるい空気が入り込んで、彼の頬を掠めた。 それから、ビニール袋の中にゴミを分別しながらかき集めていく。その単純作業の中で、一色はずっと話し続けた。一年生が合宿に行ったこと、最近あった良かったこと、作った料理のこと、十傑評議会で話し合われたこと、そんなことをまるでラジオのように、一色はずっと話し続けた。 「そうだ。今朝はじゃがいものペーストでスープを作ったんだけど、食べないかい?」 大きなゴミ袋が三つほどできた頃、一色はそう問うた。 「…………いらない」 「今なら一年生達がいないからね。いつもと違って、ゆっくり食べられると思うけど、それでも駄目かな」 一色が重ねてそう言えば、しばらくの沈黙の後、少女は小さく頷いた。一色はそれを見て、「じゃあ、先に降りられるかな?」と彼女に言う。そうすると、少女は素直にゆっくりとした動作で立ち上がり、よろよろと、壁に手を当てながらスウェット姿のまま部屋を出ていった。
十分後、一色がゴミ袋と共に下に降りれば、少女は木製の椅子に体育座りをして、顔を伏せていた。寝ているのかと思えば、プラスチックの袋の擦れる音に反応したらしく、顔をあげた。その顔色はどこまでも肌白い。 一色はそんな少女の横を通り過ぎ、ゴミ袋を外に出した。春の陽光は、こんな奥まで届いてくるものかとそんなことを考えながら、部屋に戻る。少女の位置は先程とは一切変わっておらず、一色は少しの苦笑を零した。調理場に行き、鍋を改めて火にかける。そうしてふつふつと沸き立ったそれを眺めていると、「一色くん」という声が聞こえた。寒太郎だった。 「私の分はちゃんと作んなくても、適当でいいよ。どうせ分かんないんだし」 彼女は入口に体を預け、酷く億劫そうな様子でそう言った。それを見た一色はコップに水を入れ、彼女に手渡す。彼女は素直にそれを受け取ったが、すぐには飲まず、ぼんやりとその水面を眺めているようだった。 「でも確か、触覚と嗅覚はあるんだったよね?それなら、手は抜けないよ。少しでも美味しいって思ってもらいたいしね」 「…………そういうもの?」 「料理をする人は、みんなそうじゃないかなぁ。寒太郎くんは、そうじゃない?」 一色は首を傾げて、笑う。少女は一瞬目を細めて、「……分かんない」と言った。 「じゃあ、叡山くんに作ってあげた時は、どうだった?」 「…………」 少女は黙りこくって、何も言わなくなってしまう。それでも一色は、困った顔ひとつせず「まあ、」と口を開いた。 「料理なんて、結局は自己満足だからね。美味しいものを食べなくても人間は生きていけるし、料理をしなくても他にお腹を満たすものは沢山あるから。わざわざ苦しんで、やるものじゃないよ」 そう言う一色の目は優しくて、少女は思わず目を逸らした。一色のこの目が、少女は苦手だった。 「ねえ……」 だから話の流れを逸らしたくて、少女は口を開く。けれども言うことが思いつかなくて、二人の間には沈黙が降りた。そしてそれを苦に思っているのは、少女だけらしかった。 「…………叡山、怒ってた?」 ようやく出た声は、ひどく小さい。それでもそれは確かに一色の耳を揺らし、彼は眉を下げて、困ったように笑った。 「怒ってないよ。叡山くんも、僕も、誰も、君のことを怒ってなんかないよ」 「…………そう」 少女はそれだけ言うと、調理場から離れて言ってしまう。そののろのろとした足取りを見送った一色は、頭を一度かくと、調理場の中に戻っていく。その頃になるともう、鍋からは湯気が立ち上っていた。
「……一年生、誰も帰ってこなきゃいいのに」
少女は、誰もいない食堂で椅子に体育座りをしながら、ぽつりとそう呟いた。そして自分の言葉を頭の中で反復し、頭がモヤがかかったようにうずつくのを感じていた。頭を膝に押し付ければ、視界は暗くなる。調理場からはいい匂いがして、少女のお腹は鳴った。馬鹿みたいだ、と少女は思って、自分の腹を何度も殴った。何度も、何度も、拳を握って殴り付けた。そしてそれは、一色がスープを持ってくるまで、ずっと続いていた。