イベントが終わった次の日から仕事。少年は「有給、取ったら良かったじゃないですか」と言ってきたけど、まだ申請するタイプの有給を使う勇気はない。体調不良では、もう何度か使ったけどね。 そんなわたしの今の仕事は、アライブとは全然関係ない、家族経営中小企業の、営業事務だ。ここで働くようになって、あと数ヶ月で一年になる。商品を仕入れて、見積もりをして、売る。そういう感じの、仕事。アライブにいた時は、わたしの立場の人間は限りなく少なかったし、かなりの責任感もあった。けれど今の仕事は、そういうのが無い。たまに面倒なお客さんとか、怒る人はいるけど、仕事自体はすごく緩い。先輩もガンガンミスをするので、安心する。わたしのやっていることは、わたし以外が出来ないということはなくて、それが凄く嬉しいのだ。こういうのって、最近の若者にありがちな思考?それとも、わたしに責任感が無いだけ? 替えがきく自分に嬉しさを感じる。いてもいなくてもいい自分と、多分、いなきゃいけない自分。どちらもあることは幸いだと思う。 そんなふうにして、どちらにせよ、わたしは普通に日々を過ごしている。 そう、普通。普通が一番、難しい。

「そういや明日は会社の人と出かけてくるね」 「この前の上司の人ですか?」 「ううん。喫茶店とか行く人。明日も喫茶店」 「へえ!いいですねえ!」 わたしが放置していた洗濯物を当然のように畳みながら、少年は言う。わたしが出かけると言ったら直ぐに誰?と聞いてくる様は母親そっくりだ。ただ、わたしのことを心配しているのが少年で、そこに単純な好奇心が加わるのが母親の方。 「少年は?」 「明日は俺も色々」 「色々って何?」 「色々って色々ですよ」 「だからそれを言えって」 「かやさん嫌がるじゃないですか。ヒーローの、」 「うわーーーーー聞きたくない!」 「ほら見た事か」 ベッドの上でもんどり打って毛布を被るわたしに、少年は溜息を吐いたようだった。 今のわたしは、ヒーローアレルギーみたいなもので、昔よりずっと、ヒーローだとかそういうものを見るのが嫌だ。字を見るのも嫌。戦隊モノじゃなくて仮面ライダーものもちょっと無理。 だから、少年が今何をしているのか、わたしは知らない。ふんわりとはわかる。彼は家も家だし、立場も立場だから、ヒーロー関連のこと。でもそれだけ。それ以上は考えたくもないし、考えられない。 「ねえ少年」 「はい?」 「君今、いくつだっけ」 「かやさんの一つ下ですよ。前から知ってるじゃないですか」 とっくの昔に二十歳を過ぎた少年は、当然ながら大人なのだった。昔からわたしより大人びた子ではあったけど、いざこうして二人してお酒が飲める人間になると、わたしの立場というアイデンティティが消えて、もっとわたしが子供っぽくなってしまう。少年がもっと大人びて、しまう。 「………志藤」 「はい?指導?」 「なんでさ。君の名前だよ。志藤……せ、いぎくん」 わたしは初めて彼と会った時から、彼の名前が大嫌いだった。正義だなんて、なんて正しくて、おぞましい名前。人の親を悪くいいたくないけど、自分の息子に正義と名付けるなんて、どうかしているとしか思えない。正義と書いてまさよし、の方がまだマシだ。 「確かに俺は志藤正義ですけど」 彼は洗濯物を畳む手を止めて、そのデカい図体をベッドの上に持ってくる。わたし用のベッドだから、当然みちみちだ。わたしの体はまるで麻袋に入った死体のように起こされて、少年の膝の上に収まった。 わたしは無言で、少年の顎を触る。ざらざらしてる。男の人の顎がざらざらしているということを、世間の皆は知っているのだろう。わたしは小さい頃、久々に会った父親の顎をはじめて触って、そのざらざらの感触が嫌だったからもう二度と触らなかった。 「剃るの大変そう」 「まあ、毎朝ですからね」 「わたしなんか全然腕とか足とか指とか剃ってない。面倒だもん。でもこういうわたしみたいな人間がいることで、相対的に剃ってる子達があっこれって当たり前じゃないんだって思われるようになるからさ」 「それで?」 それで?じゃねえよ、と思ったものの、話が逸れるのはわたしの悪い癖だ。色んな補足を、言い訳みたくしたくなるのも。 「────少年は、少年じゃなくなっちゃったなって」 「………」 「少年ってもう呼べないかも。でも正義って口に出したくないし、わたしは君の家のこともそんな好きじゃないから、志藤って呼ぶのも嫌だ。ねえ、どうしたらいいと思う」 「なるほど。ちなみにですけど、俺がかやさんじゃなくてかやって呼ぶようになったらどうします?」 「え?アホボケカス殺すぞって思う」 「……じゃあ俺がかやさんに対して敬語の喋り方をやめたら?」 「え?調子乗んなクソガキ殺すぞって思う」 「…………はーあ、あんたって人は本当に昔っから我儘なお姫様だな!?」 「その文脈でお姫様って言う人初めて見た。キモいからやめて」 「キモいかどうかはさておき」 置くな。 「かやさんは、自分が納得したことしか出来ないんでしょう。許せないんでしょう。それなら疑問に思ったことより、絶対に嫌だってことをしない方に重きを置くんじゃないかって思うんですけどね」 「………うん」 それは、確かにそうだった。正義って死んでも呼びたくない、志藤って出来れば口に出したくない。それはこのままでいいのかな?という疑問よりも何倍も優先されるべき感情なのだ。 「じゃあなんて呼ぼう?」 「少年でいいですけどね、別に。当時からそうでしたけど、俺のことを少年だなんて呼ぶのはかやさんだけで、それだけで俺はもうかやさんが呼んでるって分かるので。そっちの方がやりやすいですよ、色々と」 「……ちなみに会合とかではなんて呼ばれてるの?」 「普通に志藤様、正義様、本当にたまに次期当主様」 「わお、ゲロ吐きそう」 わたしは体を起こして伸ばす。少年はなんでもないみたく「お風呂早く入ってきてくださいよ、洗濯物回したいし髪も乾かしたいんで」と言ってくるけど、わたしはそれを無視してパソコンを開くのだった。

まさかこの歳で、新しく仲良くなれる人が出来るだなんて思わなかった。 自分で言うのも変な話だけど、わたしは今の職場でとってもにこやかな人物として通っている。面接の時、アルプラゾラムを飲んでいつもより変に社交性がある感じになって(かなり希釈された躁のような気もする)、それが理由で通って、なんかそのまま。でも別に無理をしているわけじゃない。それが楽になってきた。 今のわたしは、努力をしているのだ。良い人間になろうと思っている。性根が良い人間じゃないからこそ、努力して、矯正する。歪みやすい思考を、軌道修正する。人の悪いところからは目を逸らす。わたしはわたしがする他人の判定がマイナスしか入らないことを理解している。だから、逸らす。人を嫌いになりたくない、諦めたくない。 その甲斐あって仲良くなれたのが、その同僚だった。

同僚が連れて行ってくれるカフェは、わたしじゃ絶対に行かないようなレトロチックなところ。インスタを入れてないわたしに代わって、色々と調べてくれるのだ。飲食店だからお値段もそれなりにする。ちょっと前のわたしなら、たかだか一杯の飲み物に五百円ちょっとも出せなかっただろう。だってスーパーに行ったら八十円ぐらいでペットボトルの炭酸が飲めるのだし。 でもわたしは、そんな喫茶店に行くことが嫌じゃない。嫌じゃなくなった、というべきか。こんなちょっと高くて小さいオムライスを食べても、切迫感はない。 喫茶店巡りは、中々に目まぐるしい。チェーン店も含めて、三つの店を回る。写真を撮ったり、会社での愚痴を言ったり。これはなんて、『普通の人』っぽいんだろう。 ─────ああ、もしかすると、これが健常者の見ている光景なんだ? わたしは同僚の話を聞きながら、ぼんやりとそこに思い至った。代わりのきく仕事をして、お金を稼いで、喫茶店に何千円も使う。最近は電話対応にもなれてきた。この人も含めた女性の同僚には皆交際経験があるし、他の同僚は皆当たり前のように結婚したがるし、子供を産みたがっているし、私が好きなのは男性だと信じて疑わない。あまりにも、マジョリティとしての空間。そんなところでもわたしは平然としていて、いるフリが出来ていて、やっぱり傍から見たわたしは健常者なんだろう。 昔、首を吊ろうとしたり、屋上から落ちたり、海に入ろうとしたり、今も薬を飲んでいたり、何人ものカウンセラーに診てもらっていたことも、きっと知らない。 それって、別に、嫌じゃない。ただ、なんだろう。妙な感じだった。わたしは今、境界線上にいる。抑鬱という名の海から抜け出そうとして、足首ぐらいのところまで来ていて、陸地を眺めている。陸地からはわたしはきちんと立っているように見えて、でもわたしはこの海がどれだけ荒れ狂い、簡単に人を飲み込むのか知っているから、油断が出来ないでいるのに。

結局解散はそれなりの時間になったので、当然のように最寄り駅には少年が迎えにきて、どうでしたか?みたいな、当たり前のことを当たり前のように聞く。わたしはそれに答えずに、電車に乗っている間、考えていることを言った。 「お前はさ、」 「え?はい」 「今でもわたしのこと好き?」 「……………どうしたんですか、急に」 「今日思ったの。今のわたしってめちゃくちゃ健常者に近いなって。まるで普通の人みたい。少年には想像できないだろうけど、職場のわたしって明るいし、愛想いいし、電話対応もすごく褒められる。本当のわたしとは全然違う。そういうことができるようになった」 「いい事じゃないですか。それがどうして俺の話に繋がるんですか」 「ほんとうに、いい事だって思ってるの?────だってお前は、頭のおかしいわたしが好きだったじゃん。ろくに生きていけない、どうしようもない、精神疾患のわたしが」 少年の足が止まった。わたしも止まる。頓服を飲んでいないのに、わたしは冷静だった。少年の顔は、暗がりで分からない。 「………かやさんの方こそ、」 「うん」 「俺の事、なんだと思ってるんですか。機構だとでも思ってるんですか。心がないとでも思ってるんですか。そうやっていつも俺のことを踏みにじって、馬鹿にして、信用なんかしないで、俺が、俺がどんな思いで今まであんたを────」 「うん。そうだね。わたしは君のことをずっと踏みにじってきた。でもいなくならないのが答えだと思ってた。ゆるしてくれてるんだと思ってた。違った?」 「………………違いません」 「ゆるせなくなってない?って聞きたかったの。わたしがこんな普通のひとみたいになっちゃったから、免罪符みたいなもんがなくなって、全然可愛げがないでしょう」 「そんな所に可愛げを感じた覚えはないです。……が、まあ、そうですね。思うところがないわけでは、ないですよ」 「そう」 「はい」 わたしが歩き始めたら、少年も着いてくる。昔、こういうことがあったなと考えて、あの時のわたしはおかしかったなと思う。夜は頭がおかしくなって、それは嘘では無いけれど、今のわたしにとって、夜はさして牙を向かなくなったのだ。