1
手には剃刀。髪の毛がひたひたとよく分からない汁を零して畳を揺らす。鉄と膿の臭い。そんな醜悪な場所に一人の少女がいた。そんな場所に、同室の人間がいるわけがない。まさしく、彼女だけの城──いや、座敷牢と呼ぶべきか。最早何が悲しくて泣き喚いているのか、少女本人にも分からない。明確なのは、とにかく、釣り合わせないといけないということ。自分は罪深く、生きているだけでありとあらゆるものを消費して動物を殺し蟻を踏み付けるのだから、罰を与えなくてはいけない、そう、罰だ。罰は正しい。少女は正しいものが好きだ。憎んでもいる。ガチガチと奥歯を噛みながら、少女はまたしても剃刀を太腿に押し当てる。口には笑み。
「────ごめんください!」 「、あ」
あどけなくって、それなのにはきはきとした大声。この声はいつだって、少女にとっては鐘のようにカアン、と頭のてっぺんからつま先まで響く。少女はびくりと体を猫のように飛び跳ねさせた。襖の向こうには、小さな影がある。正しさの権化。 「入ってもよろしいでしょうか!」 「っよ、よくない!全然!ちっともよくない!あたしの人生みたいによくない!」 「5秒数えたら入ります!」 流れるような自虐もスルーされて、少女はあわあわと血を服で拭き、剥がれた瘡蓋やら皮膚やらを本の下に隠し、剥き出しにしていた腕やら太腿やらをなんとか隠す。保険・作法・図書の各委員長が見たら卒倒しそうな光景だったが、彼女は腐っても──否、傷物であっても六年生であるので、それらを数秒でこなし、襖が開く頃には何事もない顔を取り繕うことが出来た。 「先輩、こんにちは」 「………どうもこんにちは、一年は組の庄左ヱ門くん」 庄左ヱ門くん、と呼ばれた少年は、にっこりと笑って、慣れた手つきで食事を持ってくる。彼がこうしてここに来るのは、なにも今回だけではない。彼女の『問題児っぷり』に頭を悩ませた学園側が、あらゆる手段を取り、導き出したたった一つの冴えたやり方。要するに、彼女の良心に訴えかけたのである。彼女の常軌を逸した自罰感情の根幹には、病的なまでの規律意識や道徳観念、『まともでいたいのに』という劣等感が存在している。だからこそ、彼女は基本的に、正しいものには逆らえない。しかし正しすぎれば彼女を大いに刺激する。正しさと、正しすぎない柔軟さ、その両方のバランスを有しているのが、庄左ヱ門なのだった。 「今日のご飯は鮭ですよ」 「……ふうん。あたし、魚って嫌い。骨があるし」 「そう言うと思って、僕が取っておきました」 「い、いいよそんなことわざわざしなくても…………」 なんて情けない、と少女は暗澹たる気持ちになりながらも、その解された身にちまちまと口をつける。安定した美味しさはあるが、食欲を刺激されることはない。ちなみにお残しに関して鬼子母神のようになる食堂のおばちゃんも、彼女のこの拒食には目をつぶっている。一度残したことを怒られた彼女がヒステリックを起こし、じゃあ死にます死ねばいいんですよねそうですよねえあたしって本当に生きてるだけで無駄って言うか耐えられませんご飯って本当に苦痛で!などと叫びながら自傷行為を始めたので、流石のおばちゃんもがっつり引いた。可哀想にと思うより、シンプルに怖かった。ので、今ではお残しを怒るのではなく、量の方を調節してお残しが発生しない方向に切り替えているのだった。賢明な判断である。 閑話休題。 「…………庄左ヱ門くん、別にここで食べなくていいじゃん。お友達と食べなよ」 「先輩が食べるところを見てきて欲しいと言われているので」 「ばっかみたい。先生も生徒も皆、こんなちいちゃい子にあたしのこと押し付けて。君も君で可哀想だよね、あたしが君だったらあたしのこと─────」 「でも先輩は、いつも僕に優しくしてくださるから」 ───顔面陥没するぐらいまで殴って、皮を剥いで顔を焼いて骨を全部折って残った肉は犬にでも食わせて殺してるよ、と一息に言ってしまいそうな口が止まったのは、庄左ヱ門がそんな素っ頓狂なことを言ったからだ。照れるよりもずっと、何を言っているかちっとも分からずに、少女は眉根を寄せた。それは普段、少女が向けられる側に立つ視線で、逆になるのは庄左ヱ門の前だけだった。 「…………いや、別に、優しくないでしょ。優しいっていうのはもっと、余裕のある人だよ。他人を慮る余裕のある人だけ。あたしにそんな余裕はない」 「ふふふっ」 「………嫌な餓鬼!」 どれだけ何を言っても怒るどころか笑っている庄左ヱ門に、少女は不貞腐れくれて箸から手を離し、その場で横になる。どちらが一年生か分かったものではないなと内心で思いながらも、実際これ以上の食欲は無かった。お腹がすいていないわけではなくて、ただ単に酷い忌避感があるだけ。自分のために何かをしてやれる気力がないだけなのだ。 「もう食べられませんか?」 「………うん」 「そうですか。ではこれはおにぎりにしておきますね。好きな時に食べてください」 「いらない」 「いらないんならいいんです。僕が後で食べるので。食べれそうだったら食べてください」 「……………優しいのは、お前の方だよ」 仰向けになったまま見上げた逆さまの視界で、庄左ヱ門が目を瞬かせたのが見えた。そんなことないです、という否定の言葉が降ってくるかと思えば、実際に発せられたのは「程度の差はともかく、僕は先輩に優しいですよ?」という当たり前のような言葉で。 「………なんで」 「先輩が優しいから。先輩が優しくしてくれて、僕が嬉しかったから。だから僕も先輩に優しくしたいんです」 少女はいよいよ何も言えなくなって、体を芋虫のように丸めたまま、近くの座布団と畳で自分の頭を挟んだ。そうして庄左ヱ門にバレないように自分の首を、それこそ跡が付くぐらい強く絞めたけれど、当然死ぬことは出来なかった。涙が出て、息が荒くなって、でも何も知らない庄左ヱ門は呑気に後ろでおにぎりを作っていた。ちゃんとご飯に、鮭を混ぜて。その光景を見た少女は、一度鼻をすすって、のろのろと四つん這いになりながら庄左ヱ門の元へと近寄る。それはまるで猫のような光景だった。 「…………あたし、もっと一口が小さいやつがいい。そんなに大きいと食べれない」 「なるほど。ならそうします。先輩の口は小さくて可愛いですね」 「………………」 お前の方が世間一般では小さくて可愛いだろうに、と少女は思ったけど、わざわざ言うことは無かった。ただ、次に剃刀を使う時は口の中をズタズタにしてやろうかとそう考えるだけだ。
2
今日も今日とて自傷を繰り返す彼女は、酷い抑鬱に陥っていた。首元に剃刀を当て、あと少し動かせば頸動脈を切り裂けるというところで、歯の奥をがちがちと震わせる。こうすることで、少女は安寧を得られることが出来た。生きていることは罪で、自傷は罰だ。釣り合いは取れている。早く死ぬといい、それが一番早いのだから。───何と比べて?という問いの答えはいつだって無い。とにかく、早ければいい。自分はこんなにも遅くまで生き残っていたのだから、今が一番死ぬには速い。 「…………ひっ」 しかし、そんな抑鬱を一瞬で吹き飛ばす出来事が起きた。たまたま視線を向けた先で、なんと一匹のナメクジを見つけたのだ。少女がダントツで一番嫌いなのは自分自身だが、ナメクジは6番目ぐらいに嫌いだった。ちなみに2番目は蝶。とにもかくにも、うにうにと自分の部屋を徘徊するその白い生き物を見つけた瞬間、彼女は悲鳴を上げ、盛大に狂った手元から零れた剃刀は、彼女の頬と手を深く切りつけながら地面に落ちる。しかしそんな痛みなど、慣れきった彼女にとっては最早痛みですらない薄い刺激だ。それよりもナメクジの方がずっと怖い。目がどこにあるかも分からない感じが怖くて嫌。蝶も同じ理由で嫌。 「え、えーと、な、なんかいらない半紙……!」 もういつからあるのか分からない血がこびりついたその紙をそろそろとナメクジにさしむける。息が詰まるほどじっと見つめて、ようやくナメクジが半紙に乗ったのを見届けると、彼女はそれを外の地面に降ろしてやろうとした。 ──と、ここでまた、ある考えが少女の脳裏に過ぎる。確か、庄左ヱ門がここに来た時に話していた同級生の一人が、ナメクジを飼っていたはずだ。名前までは忘れたが、庄左ヱ門はは組の話を頼んでもいないのにベラベラとしてくるものだから、存在だけは覚えている。とするとつまり、このナメクジは彼の同級生の飼っているものかもしれない。 「……………あ〜っ!もう!面倒くさい!」 少女は地面に差し向けていた半紙を持ち上げて、一度床に置く。そうして部屋にあるものを片っ端からひっくり返して、これまたいつから使っていないか分からない硯を引っ張り出した。その中にナメクジを入れて、周りを半紙を使って高い壁のようにして囲む。とりあえずこれで、一旦の檻は出来たはずだ。問題はこれをどうやって返すかということになる。 でもそれは少し考えれば簡単だった。不本意ながら、少女の部屋には一日に一度は庄左ヱ門がやって来るのだ。多い日は三回も。今日はまだ来ていないのだし、来た時に彼に渡せばことは済むだろう。そのことに気づいてから、少女はほっと肩から力を抜いた。
「………なんで今日に限ってこないかなあ!?」
あっという間に刻は夕方。とっくに授業が終わり、食堂で夕飯を食べているころだろう。それなのに庄左ヱ門は姿を見せない。今までだってこんなことは無かった。どうしてこんな時だけ、と少女は親指を血が出るほど噛んでしまう。無意識の自傷である。 流石に、この脆い檻にナメクジをいれたまま、すやすやと眠る勇気は少女にはない。自分の顔が焼け爛れるよりも、目が覚めてこの気味の悪い生き物が額に乗っていたらと思うとそちらの方が心底ゾッとする。 「…………………」 分かっている。本当は、最も簡単な方法を彼女は分かっている。そうしたって、別に誰も怒らないだろう。地面に逃がしてやればいい。それだけのことだ。 でも────それだけのことが出来ないのが、彼女だった。正しいことしか彼女は出来ない。正しいと、信じたことだけしか。 少女は今朝方付いた首の傷を引っ掻きながらぼんやりと考える。まず、自分がまともに話せるのは新野先生か庄左ヱ門、小松田に、一昨年同室だった同級生だけ。けれど新野先生はまず却下、彼に出会うためには保健室を真っ先に捜索しないといけないが、少女は保健委員長の善法寺のことが大嫌いだからだ。小松田も却下、彼は単純にトラブルメーカーで、ナメクジを潰されては困る。同級生は例え自分の住む部屋が火事になろうがごろごろとしているほどの面倒臭がり屋なので、手を貸してくれるとは思えない。となるとやはり庄左ヱ門を探すしかない。出来るだけ誰にも会わないように。 一瞬、天井裏から行くべきかと思ったが、そんな暗闇でナメクジを運ぶのは不可能だ。文を飛ばすか、いやそれも駄目だ、飛ばす場所や相手が分かっていたらこんな苦労はしていない。どう考えても、自分の足で行かなくてはいけないようで、少女は深い溜息を吐いた。
───自分以外の人間は全員まともに見えて仕方がない。自分以外の全員、ちゃんと生きているように見えて、それが怖くて仕方がなかった。 そんな感覚を久しぶりに思い出しながら、少女はそそくさと廊下を歩く。しかし思考がありとあらゆる希死念慮に分散された結果、最初の角で誰かとぶつかった。彼女は微動だにしなかったが、相手の方はぽおん、と鞠のように転けてしまう。 「うわっ!」 「あ、あ……ごめんなさい」 最早自動装置と化した自罰感情が作動して、流れるような手つきで彼女は自分の頭を二十回ほど殴打する。そんな中でも彼女は相手の姿を認識して、しめた、と思った。なんせその相手の格好が、庄左ヱ門と同じだったからだ。彼に渡せば、最悪組が違ってもなんとかなるだろう。なって欲しい。ならないと困る。だから彼女はその少年にことの次第をさっさと話して、ナメクジ入りの硯を押し付けようとした。 「お、お姉さん……首元!すごい怪我してますよ!?」 「………怪我?」 ここで、一つの誤算。彼女は平静を装っているつもりだが、精神的に追い詰められて、本人も気づかないうちに慰めのように首元を切り傷を引っ掻き続けていたのだ。指摘されて初めて、ぼんやりとした刺激を思い出す。改めて触ってみれば傷口はそれなりに開き、指先は血で塗れている。慌てた様子でバタバタと人を呼びに行った一年生を見て、少女は自嘲じみた表情を浮かべた。だから駄目なんだ。これだから私は。私なんか、生まれて来なきゃ良かったのに。正しいことの一つも出来やしない。
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「入ります」 ごめんください、は言わなかった。少女がいることを、庄左ヱ門は分かっていたからだ。襖を開けば、部屋の隅で三角座りのまま蹲っている彼女。庄左ヱ門は真っ直ぐ彼女の元に向かっていった。 「先輩、遅くなってすみません。とはいえ事情があったのです。僕の同級生の喜三太という子がナメクジを飼っているのですが、その中の一匹が逃げてしまったらしく、は組の皆で探していたんです。結局、その一匹は同じく同級生の乱太郎が見つけてくれました。ただ、不思議なことにそのナメクジは硯の中に収められており、しかも乱太郎はその直前に、首元に酷い怪我をした女を見たそうです。………僕はその硯に見覚えがありました。僕が数日前、先輩の代わりに片付けたものでしたから」 庄左ヱ門の言葉は、記述問題なら百点の回答だっただろう。ただし、これは記述問題ではない。人間の、ままならない、心の問題だ。少女はぴくりとも動かないので、庄左ヱ門は眉をほんの少し下げた。彼女が今、どんな気持ちでいるのか、分かりはしなくても想像はついた。 「だから言ったじゃないですか。先輩はとっても優しいんです。現に喜三太は、とっても喜んでいましたよ。先輩にも見せてさしあげたかったです」 「…………あんなことしなきゃ良かった。最初から、ナメクジなんて外に放り出せば…………」 それは言外にこんな事を言う私を責めろということだったけど、庄左ヱ門はそんな言葉に乗ってやるほど甘くは無かった。 「そうでしょうとも。先輩はそう思うでしょう。でも、それでも───たとえ時間が巻き戻ったって、同じことをしてしまうのが先輩です。僕はそれが、自分のことのように誇らしい。僕の好きな人は、こんなにも凄いんだぞって、祖父が僕を自慢をしていた気持ちが、少し分かるんです」 「……………庄左ヱ門は、おじいちゃんに自慢されてるの?」 ようやっと少女がおずおずと顔を上げたかと思えば、ぽつりと零された言葉がそれだったので、庄左ヱ門は少しおかしくって、笑いながら「されてます」と言った。 「そうだ、先輩。僕たち、今からようやっとご飯なんですけど、良ければは組の皆と食べませんか?喜三太もお礼が言いたいっていってましたし、皆先輩が来たら喜ぶと思います」 「…………いやでも、駄目でしょ……あたしなんかが行ったら……」 「どうして?僕は先輩がいたら嬉しいですよ。いつだって、どこでだって」 いたら、嬉しい。そんなこと、少女は思ったことなんて無かったし、言われたことも無かった。いつだって自分は、ここにいてはいけないと、そういう考えが頭の中にこびり付いていた。 でも、そうじゃないのだ。少なくとも彼は、そうじゃないと言っている。それがなんだか、少女には不思議だった。 「………………いつかね、いつか」 「はい。きっと、いつか来てください」 庄左ヱ門は少女の小指を勝手に取って、指切りをする。そこに付いた薄黒い血のことも、彼は何も言わなかった。優しいのはどっちだ、と少女はいつもそんなことを思う。