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オットー・フォン・ビスマルクは、武器を『鉄』、兵士を『血』と喩え、その二つを用いることでドイツ統一を目論んだことから『鉄血』宰相と呼ばれたわけだけれど、僕から言わせれば、彼女の方が余程『鉄血』だ。彼女は自らの鉄のような意思で全てを決めて、流す血はいつだって自分のものだった。彼女は彼女一人でいるだけでどこまでも『鉄血』として完成されていた。

これからするのは、そんな鉄血の幼馴染と、鉄血には縁遠かった僕の、ほんの少し捻れた物語だ。

僕らきょうだいと彼女は、十年来のいわゆる幼馴染というやつで、それなりに付き合いが長い。僕も全部を覚えているわけではないけれど、自分が遡れる一番昔の記憶のところにはもう既に彼女がいて、その頃から彼女は今の彼女として完成されていた。上手く言えないけれど、早熟、とはまた違った。彼女が鉄血であることはもう最初から神様が決めていましたといわんばかりの、鉄血っぷりだった。 「あんた、あたしにはいらないわ」 まず第一に、彼女の頑固さは鉄よりも硬く冷たかった。彼女はとにかく、自分の嫌なことをされるのが嫌いで、どれだけ優しくされようが仲良くされようが、嫌なことをされたと思ったら即座に自分から切り捨てた。昨日まで仲良くしていた友達と、『給食のわかめスープにご飯を浸して食べていたから』というだけで絶縁した。しかし逆に、彼女をどれだけ嫌って憎んでいる人間に対してもそれは適応されており、例え階段から突き落とされようとも、その憎しみや忌避感情を認めさえすれば、彼女はその全てを許してしまった。そういった具合に、他にも彼女は彼女なりの価値観を持って生きており、法律や道徳観念よりもそれは優先されるようだった。僕たちには理解できない価値判断。それが彼女を彼女たらしめている。 とにかく彼女が繰り返し繰り返し言っていたのは、『ちゃんと』して、ということだ。そのちゃんと、と言うのは、毎朝早起きするとか成績がいいとか優しいとかそういうのとはまた違うらしく、それが尚更混乱を呼んでいた。そんな彼女と未だに仲の良いらしい裕太は、なるほど確かにバランス感覚に優れていると思うし、あの観月の後輩をやれているだけあるな、と思う。僕と彼女に関しては、またすぐに嫌でも分かるので、ここでは一旦置いておく。 第二に、彼女はいつだって血が上っていた。表情がそんなに動かない鉄面皮ではあったけれど、その下では煮えたぎった感情がはいずりまわっていて、とどのつまりかっとなりやすかったのだ。口よりも先に手が出る性質は昔からそうで、裕太を虐めたやつらに馬乗りになった僕……の後ろからさらに僕ごとスコップで腹を串刺しにしてこようとするのが彼女だった。どんな時でも彼女は手が出るし、そしてそれ以上に熱かった。冷たいぐらいに熱くて、相手を冷静に、わがままに責め立てるのが上手かった。まともじゃないことを、まともなふうに言うのが上手かった。 僕が彼女に捨てられた時も、そんなふうだった。冷血かつ、熱の篭った口振りで、彼女は僕を押し倒した。コートの上でだ。強く頭を打って痛かったけれど、そんなことより彼女に捨てられる事の方が恐ろしかった気がする。 「───周助、あたしを見くびったでしょう。今、間違いなく手を抜いた。法律がなかったらあんたのこと、あたしは百ぺん殺してたわ。あたしにこんなふざけた友達も幼馴染もいらない」 大したことはしていない。ただ、ほんの少し、譲っただけだ。僕と彼女はテニスをずっとしていて、彼女は僕にライバルでいることを強いた。僕はそれに応えたけれど、やはり中学に上がると身体的な男女差というものが出てきて、僕と彼女の実力は不均衡になり、僕がそれを寂しがったのだ。彼女からすればそれが、気に食わなかったのだろう。けど、それだって大したことはしていない。ほんの少し、わざとボールを返しやすい位置に、一度だけ調整した。それを見破ったのはやはり僕のことを見ているからで、彼女の真っ直ぐさは最早刃物と同等の威力を要しているのだと僕は思い知ることになる。 「死んだ。あんたは今ここで死んだの。死人にかける言葉はない」 中学二年生、春。僕はたったそれだけのことで彼女の中で死んだことになり、絶縁された。 この物語は、そんな最低の書き出しから始まる。そしてもう最初に結論を言っておくけれど、彼女と僕が復縁することは、未来永劫無いのだった。

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「いや、普通そうだろ。この場合の普通ってのは、姉ちゃんがそうして当たり前だろって意味であって、姉ちゃんが普通ってわけじゃないけど。あの人はどうかしてると思う」 やたらと注釈の多い言い回しをしながら、当時の裕太はアイスを食べながら平然とそう言った。僕が彼女に絶縁されたといっても、励ますどころか、当たり前だとまで言ってのける弟が、僕には不思議だった。この当時、裕太は僕に反抗期真っ盛りなのもあったかもしれないけれど、にしては邪気が無さすぎる。本当に、ひどい嵐の夜に出ていったら死にかけた、ぐらい当たり前のような言い方だった。 「でも、負けたら負けたで烈火の如く彼女は怒るだろう?僕としては、そっちの方が嫌だったんだけど」 「そういうとこだよな、兄貴。姉ちゃんは兄貴のそういうとこが死ぬほど大嫌いだったんだろうし」 「彼女が?僕のことを大嫌いって?」 「いや、別に言われては無いけど」 「それは分かるよ。彼女、裏でそんなことを言うぐらいなら直接言うタイプだもの」 「ん、直接言って、その理由を呪文みたいに唱えながら、馬乗りになった上から画鋲をばらまこうとするもんな。有言実行って諺、姉ちゃんを見てたら俺は嫌でも理解出来る…………いや、その話はどうでもいいんだよ!ともかく、俺には分かるんだよ」 「どうして?」 「……………………」 沈黙。都合が悪い時の裕太は、僕に口では勝てないことを分かっているので、黙り込む。僕は裕太を無理やりくすぐってやろうかと思ったけど、余計機嫌を損ねそうだったから、止めた。 こういう時、彼女に直接聞いた方が一番早いことを僕は知っている。彼女はとにかく話が早いので、例えば誰かが『僕のことを嫌いって本当?』と聞いたとすれば、肯定にせよ否定にせよ、その理由を事細かに書いた作文を渡してくれる。実際それで泣かされた子供達を、僕たちきょうだいは散々見てきたのだし。しかし、彼女が死んだと言えば、僕はもう本当に彼女の中で死んだことになっている。彼女が死人に話しかけられて答えてくれるタイプなのか、流石に長年の付き合いがあっても、僕には分からない。 一旦、ものは試しではないけれど、僕は彼女の家を訪れることにした。ちなみに彼女の家族は皆普通の人で、彼女の鉄血っぷりが、それこそ本当の血の流れによるものではないことが分かる。彼女は彼女で独立した、変異体なのだった。 そんな話はともかくとして、僕は彼女の家に言って驚いた。そこには粗大ゴミとしてテニスラケットやらなんやらそのままの一式が、外に立てかけられていたからだ。僕が彼女の中で死んだことよりも、テニスを辞めようとしていること自体が僕の中では酷くショックで、慌ててインターホンを鳴らす。出てきたのは、困ったような顔の、彼女の母親だった。 「……あら、周助くん。どうしたの、そんなに慌てて」 「あの、テニス辞めるんですか、彼女」 いきなりの言葉だったけれど、娘のほうが僕よりずっといきなりすぎる人生を送っているので、彼女は狼狽え無かった。ただ困ったように、「そうなのよ。突然辞めるって。あの子の気まぐれっぷりはいつものことだけど、でもそれにしたって普段よりずっと大人しかったから、なんだか気味が悪くて……。帰ってきたかと思えば、これ全部捨ててって、普通の声で言うだけなんですもの」とそんなことを言う。確かに、彼女が何か行動を起こすときは、その鉄血が煮えたぎった時で、僕と絶縁した時もそうだったのだから、てっきりまた『あたしはもう二度とこんな馬鹿げたスポーツはやらない。あたしはこんなことに使った時間と金を恥じるし、将来あたしはこれらにかけられた金を全てコンビニレジ横の募金箱に入れるって誓ってやる』みたいなことを言っているのだと思った。けれど、彼女が静かに、淡々と、そんなことをするとは思わなかった。だって彼女は、僕とのことがなくたって、ちゃんとテニスに打ち込んでいたし、楽しんでいたようだったし、そして何より強かった。県大会で優勝なんかしたりして、雑誌からの取材もあって、この先高校でも続けるものだと思っていた。 「私も良くは知らないんだけど、テニスはもうやらないみたい。これからはバレエだけやるんですって」 バレエ。それもまた、彼女が小さい頃から打ち込んでいたものの一つだ。物凄く昔、僕は彼女がバレエに取られるのがどうしても嫌で、バレエ教室の前で彼女が来るのを待って、そこから無理やり彼女を攫ってしまった事が何度かある。まあ、攫ったと言っても、子供だったから手を引っ張っただけだけど。それでも彼女にしては珍しく嬉しそうな顔をして、大人しく僕に攫われてくれた。そうやって彼女を強制的にサボらせつつも、彼女はきちんと成果を出していて、テニスを捨てたことはともかく、バレエ一本に集中するというのは、当たり前のように思える。 けれど尚更、僕がその背中を押したと思えばいても立っても居られなくて、僕は母親への挨拶もそこそこに、彼女の部屋に上がらせてもらう。彼女の部屋は机とベット以外ほぼ何もなくて、いつも通り、彼女は背筋をピンと伸ばして机に向かっていた。 「…………テニス、辞めるって本当?」 「………………」 返事は無い。彼女の性格を考えれば分かっていたことだ。それでも僕は諦められずに、彼女の椅子を無理やりこちらに向けて「僕のせい?」と詰め寄った。彼女の鉄面皮はそれでも変わらなかったけれど、長年の付き合いのある僕には、彼女の眉がほんの、ほんの少しだけひそまったのが分かる。要するに、肯定だった。 「たかが…………たかが僕の言葉で君はテニスを辞めるの?そんなの、君らしくないよ。君はそんな人間じゃないだろう?君は、もっと強くて、真っ直ぐで、僕みたいなやつの言葉に惑わされるようなひとじゃ───」 僕の口からはぽろぽろと、情けない言葉がいくらでも出てくる。そうだ、僕は昔から彼女の前ではいつも情けなかった。僕のことを天才だとか呼ぶ人もいるけれど、彼女の前では天才という言葉すらも生温い。彼女はどこまでも冷たくて、どこまでも熱かった。それなのに、どうして僕なんかで揺らいでしまうのか分からない。 瞬間、パン、と破裂音がして、数拍遅れて僕の頬がじわじわと痛んだ。叩かれたのだ、と気づくより先に、彼女がまるで一人言のように「うるさい羽虫がいるみたい」と呟く。呆然としている僕をよそに、彼女は黙って部屋から出て行った。 痛みが消えても、薄ら寒さは消えない。僕は迷子になった子供のようになって、そこで初めて、いつも見ている彼女は、後ろ姿だったということを思い出す。

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幼馴染の姉ちゃんは確かにいかれぽんちではあったけれど、人を見る目だけはあった。……というか、良すぎるんだと思う。だから姉ちゃんはいつも自分から人を切り捨てる。自分がその人に失望するより早く。そうしないと、自分が相手にぶつかってしまって、相手を余計苦しめてしまうから。まあ、想像だから実際は全然なんも悩まず普通にあんな感じなのかもしれねーけど、姉ちゃんが自分の刃物っぷりを自覚していることは確かだ。 そんな姉ちゃんは、例えば俺のコンプレックスを俺本人よりも早く自覚していて、散々「いい、裕太。あんたは家出をしなさい。家族と縁を切りなさい。書を捨てて街へ出よというのは、学問を捨てろということじゃなく、家出をしろということなの。漂白しろということよ、分かる?」と言い募ってきた。この人は俺が未成年の中坊ってこと忘れてんのかな?と思って呆れたけど……まあそれでも、ここまでする馬鹿もいるんだなと思ったら、ルドルフでやっていくことぐらいなんでもない様な気がして、そこは感謝してる。姉ちゃんは中途半端な家出をした俺に不満そうな顔をしていたけれど、縁を切るとまではいかなかった。この人と上手くやっていくコツは、自分を譲らないことだ、と俺は何となく悟る。 そして兄貴の方は、姉ちゃんとすこぶる相性が悪かった。気づいていないのは兄貴だけだ。兄貴は昔から姉ちゃんのことが好きで、それが恋愛的な意味かは俺の知ったこっちゃないけど────だからこそ、寄りかかっていた。昔は気づかなかったけど、今ならそれがよく分かる。兄貴は自分ってものが弱すぎたし、逆に姉ちゃんは自分ってものが強すぎた。兄貴はいつも譲るふりをして、姉ちゃんにあらゆることを決めさせた。選択肢だけ提示して、選ばせて、選ばれたらありがとうと言って、君はすごいねいい子だねって笑って、それは間違いなく、無邪気な愛とイコールの見くびりだった。兄貴からしたら、どっちも嘘じゃないのが、より最悪だった。まあ、兄貴ってそういうところがある。物腰が柔らかくて、優しいのは別に嘘じゃないんだけど───その自覚がある分、踏みにじってることに、気づかないタイプだ。俺も何度だってやられてきた。そういう意味で、姉ちゃんと俺は妙に通じ合っていたのかもしれない。

『あたしはいつか周助と縁を切るから』 姉ちゃんがそんなことを最初に言ったのは、俺達がまだ小学生の頃のお正月、神社に初詣に一緒に行った時だった。姉ちゃんはだから縁切り祈願をするのだと言って、でもまだ幼かった俺は意味がわからなくて、ひたすらになんで?と繰り返した。その度に姉ちゃんは律儀に『周助は、私と一緒にいるには弱すぎる。あのひとはいつもそう。なにかに焦がれるくせに、自分は動こうとしない、天動説みたいなひとだから。自分に足があることを忘れて、空ばかり見上げているから』と同じことを繰り返した。……今思えば、小学生にする説明じゃないだろ。 でもその時から、姉ちゃんは兄貴と別れることを、いや、兄貴と分離することを見据えていたんだろう。そのタイミングが、いよいよ兄貴が舐め腐ったことをした今回だったってだけで。ロケットみたいな例えだけど、姉ちゃんはロケットみたいなもんだからあながち間違いじゃない。兄貴なんかさっさと捨てて、宇宙でもどこへでも行けばいい、と思う。 ……けどまあ、そのいつかを、今の今まで引き伸ばしてた時点で、姉ちゃんは兄貴に甘かったし、情があったんだろう。それに兄貴が気づくのかまでは、俺の知ったこっちゃじゃない。