相変わらず、進展しているんだかいないんだか分からないカウンセリングを終えて部屋から出る。今の担当の先生とは数年来の付き合いで、彼女は近々結婚するらしい。名字が変わるのだと、妙に申し訳なさそうな声色が少しおかしかった。私は心の底から「おめでとうございます」と言った。私は彼女のことが好きだから、ほんとうに幸せになって欲しかった。 大学病院の通路は、普通のクリニックとは違って、白濁としていてどうにもまばゆい。それと、広い。横に広いので、ゲームの俯瞰視点を思い出す心地がする。私は私の上に表示されたカーソルを掴もうと思わず自分の頭をバシバシと叩くけれど、当然そんなものはないのでただの自罰的な人になってしまった。まあ、こんなことをしても変な目で見られないのがここの良いところなんだろう。多分。 「生駒」 と、私は待合の長椅子に座っていた彼に声をかける。彼は一瞬こっちを見て、それから何故か隣にいたおじいさんに何事かを言っていた。しばらくして、彼はようやっとこっちに来る。 「これ、貰ったわ」 そう言って生駒はまるでお宝を見せびらかすように、そっと握っていた掌をこちらに見せる。 醤油だった。小袋に入ったそれは、刺身の中に入っていたり、回転寿司屋で貰えるようなものだった。 「何?」 「甘醤油」 「私、それ好き」 「え?俺とどっちが好き?」 私はとりあえず笑ってみた。にこーって感じで。そうしたら生駒は「いや、ごめん」と言った。別に怒ってはないんだけど。どうにも生駒は、最後まで回収してくれないことがあって困る、とまるで審査員みたいなことを思いながら、私は口を開くことにした。一時間近くなんやかんや喋っていたので、喉が渇く。 「生駒、食堂に行こう」 「診察は?」 「今日、いつもより混んでるっぽくて。先ご飯食べてきてもいいよって先生が」 「なるほど」 そんな会話をしながら、私達はのそのそと廊下を歩く。 大学病院の良いところは、まあその施設であったりとか先生の異動があんまりないこととかそこらへんで、悪いところは立地があまり良くないことと、とにかく人が多いということ。それは待ち時間もそうだけど、純粋に人口密度という点でも、だった。私は気にならないけど、嫌な人は嫌だと思う。 そんなことを考えていれば、食堂に着いた。古ぼけた券売機がちかちかと光っていて、まばゆい。病院なのでそんな派手なものはないけれど、それでも大学と同じぐらいのものはあるんじゃないだろうか。大学とか、もう一年も行ってないんだけど。いい加減諦めて退学すべきだろうか。 「生駒は何食べるの?ナスカレー?」 「そんなナスカレーばっか食うと思われてる?」 「まあ、その方が面白いよね」 「………………」 「フリじゃないよ」 後ろに人の気配を感じたので、私はうりうりと未だ迷っている生駒を小突く。結局彼はハヤシライスを注文することにしたらしい。うーん、毒にも薬にもならない選択肢だ。 「そういやさっき、何話してたの?」 カレーをはふはふと食べる生駒を眺めながらそう聞けば、彼はわざわざスプーンを置いて身を乗り出した。いや、そんながっつり聞きたい話でもないんだけど。 「あのおっちゃんな、実の娘に殺されかけたんやって」 「へえ、大変」 じゃあ隣にいたあの娘らしき人は誰なんだ、と言おうと思ってやめた。ここでは、そういうことがよくある。 「ほんでこのままやとマズいと思ったんやろうな、寿司屋で慌てて甘醤油とワサビかき集めてきたんやけど、余ったからくれる言うて」 「わお」 「もらった」 「それ貰っちゃ駄目なやつじゃない?」 「そうか………………」 生駒が呆然、というような顔をしているけれど、私は見飽きているので紙ナプキンで鶴を折ることにした。 生駒は、何と言うかコミュニケーション能力がとても高い。誰とでも仲良くなるし、知らない人とも平気で話す。待合室で井戸端会議に交じっている生駒を見た時は流石に見なかったことにしようかと思ったし、実際そうした。そういやそのときも呆然としてたなあ、と思いながら下手くそな鶴を生み出す。生まれてこなきゃ良かったねえ、と思いながら私は完成したそれをつついた。私と同じだ。 「一口、食わん?」 「いーらない」 「ホンマに?後悔せん?」 茶化した言い方で、気を使われているなあ、と私は思った。そんならはじめっから食堂に来なかったら良いじゃん、と頭の中の私が言って、いやいや今日は何か入れられる気がしたんですよ、と私がフォローする。一人って楽だ。生駒がいるから、余計にそう思った。 「あとで吐いていいなら、入れるよ」 食べる、という感覚があまり分からない。私にとって食事は入れるか出すか、だった。出し入れするのが億劫だから、最初から入れたくない。体に肉が付くのも、胸があるのも、なんか気持ち悪いのだ、なんか。なんでみんなこれが分からないかな。 「じゃあ、俺が食うか」 「生駒は優しいねえ」 「え?告白?」 「いや、告解」 「コッカイ………………」 あ、分かってないなあ、と思ったけどまあいいか。割と同じ意味だし。どうでもいいけど、ご飯を食べているときはスマホを出さない生駒は、なんやかんやで育ちが良いんだなあと思った。私だったらすぐにスマホ出して検索なりなんなりしちゃうし。まあ、それはともかく。 「生駒は優しいからさ、よく羨ましがられるよ」 「マジか」 「うん、こんな優しくて病気に理解のある彼氏がいていいねって。早く治ると良いねって。恵まれてるねって」 私は、鶴を握り込んだ。さっき、生駒がしてたみたいに。汗ばんだ手が、中の鶴をゆっくり殺していくのが分かった。 「────そのときはじめて、殺してやる、って思った」 生駒は、何も言わなかった。私のお腹が、食べ物を求めて鳴ったのが分かった。私は腹をさすりながら、言い聞かせる。よしよし、我慢してね、あんな醜いものになりたくないなら、我慢してね。我慢してね。我慢してね。おねがいだから。私をあんなものにさせないで。 「生駒はさ、」 「俺は、何?」 「理解があるんじゃなくて、健康なだけなんだよ。知ってた?」 「まあ、ここ数年風邪ひかんかったからな」 「マジ?そんな健康なの?」 「マジ」 生駒は、またスプーンを持って、何事も無かったようにハヤシライスを食べ始める。私はそれをしばらく見て、ふと、甘醤油の存在を思いだした。「さっきの醤油、頂戴」と言えば、ポケットの中から取り出して、くれた。生駒は、なんでとかどうしてだとかは言わなかった。そんなこと、彼は一回も言わなかった。 私はどちらからでも切れます、というむかつく表記にしたがって封を切って、中身をそのまま吸った。ちうちうと馬鹿みたいに吸った。 「………………おいしい」 おいしかった。甘じょっぱくて、一生、これなら良いのにと思った。 生駒はスプーンを止めて、一言、 「良かったなあ」 とだけ言った。そうしてまた、何も無かったみたいにハヤシライスを食べ始めるものだから、私は泣きたくなった。けど、このあとに診察があるし、と思ったらなんとか我慢できて、でも鼻水だけは余計に出てきた。