むかしむかし、ある所に一人の鬼がいました。その鬼はおばあさんに頼まれたお使いの帰り道、酷い雨に降られて、道を少し外れた空き家の軒先で雨宿りをします。 「外に誰かいるの?」 ふと、そんな声がして、鬼はびくりと体を震わせました。声からして、女でしょうか。その声はそんな鬼の様子を扉の向こうからでも察したのでしょう、ころころと笑って、「ごめんなさい、突然話しかけてしまって。怒っているわけじゃないのよ」と声をかけてきます。 「ああいや、こっちもちょっと驚いて……悪かったな」 「今日は酷い雨ですものね。貴方が良かったら、いくらでも休んでいって。私、ここから動けなくて暇していたのよ」 「そりゃあ……大変だったな。楽しい話ができるか分からないが、最近あったことでも話そう」 言葉を選びながらもそう言った鬼が扉に手をかけた瞬間、「────開けないで!」と叫び声が聞こえました。 「っ、悪い……」 鬼がそろそろと手を降ろすと、扉の向こうからは、ほっと息を吐く音が聞こえてきます。どうやら女は、余程扉を開けられたくないようでした。 「ごめんなさい。その……あまり、人様に見せられる見た目をしていなくて。貴方を不快にさせたくないし、させてしまうかもと不安になりたくないの。でも、話をしたいのは本当で、」 「分かった分かった、別に疑っちゃいない。こっちこそ、悪かったな」 鬼が素直に謝ると、女は安心したような素振りを見せて、鬼に色んなことを聞きました。そしてそれらはほとんど外のことでした。外にはどんなものがあるのか、普段人々は何を食べているのか、どうやって生活しているのか。そんな質問に答えながら、もしかすると彼女はどこかの箱入り娘なのかもしれないと鬼は思います。それぐらい、彼女は物をしらない様子でした。 そうやって話をしているうちに雨は止み、女も部屋の中からそれに気づいたのでしょう。こんなことを言います。 「貴方さえよければ、また来てください。お話するの、とても楽しかったから」 「ああ、別に構わねえよ」 「あ、でも───二つだけ、約束してください。一つは雨の時だけここに来ること。私は雨の日じゃないと、ここにいないので。そして二つ目、この扉を絶対に開けないこと」 「はあ、そいつは不思議なことを言うもんだな。だが俺ぁ、約束は違えねえぜ」 「そう、良かった」 女の微笑んだ姿が、鬼の脳裏には浮かびました。
それから鬼は、雨になる度に、女の元に向かいました。そして、色んな話をしました。気に食わない奉行所の人間のこと、虫相撲のこと、スミレウリの会のこと。けれどそこに、鬼自身の話は含まれていませんでした。 鬼は、彼女に自分が鬼であるということを悟られるのが、怖かったのでした。これは自分に自信のある鬼にしては珍しいことです。外の世界のことをほとんど知らない彼女が、鬼である自分を見たらどう思うか。いつの日からか、鬼はそれが一番怖くなりました。だから情けなくも彼女の前だけでは、普通の人間のフリをしましたし、名前も言いませんでした。
「そういえば私、貴方の話を聞いたことがないわ」
とある雨の日、扉向こうの女はそんなことを言いました。 「貴方の話って、俺はあんたによく話してるだろ?俺様の周囲で起こったこととか、見てきたことをさ」 「そうだけど、そうじゃないわ。貴方は一体どんな人で、どんな仕事をしているかとか、どんなものが好きなのかとか、そういうことを」 「…………別に、そんなこと、どうでもいいじゃねえか。話したってつまらねえよ。今日は俺のダチが打ち上げた花火の話をしようと思ってたんだ。花火だぞ?見た事ねえだろ?」 「ううん、私、花火よりも貴方の話を…………」 「っ……しつけえな!大体、んな事言ったらあんただって俺様に何も─────」 そこまで言って、鬼は口をつぐみました。思わず言ってはいけないことを言ってしまった自覚があったからでした。 「…………そうね、ごめんなさい。私の方が、よほど卑怯よね」 「…………今日はもう帰る。じゃあな」 そう言って去っていった鬼は、それから姿を見せなくなってしまいました。
▽
女はそれから、つまらない日々を過ごしました。ただでさえこの部屋から動けないでいるのに、彼が来ないと本当になにもすることがなくて─────でもそれは、半分合っていて、半分間違いでした。彼に会う前の女は、どれだけこの部屋にいても、何も感じなかったのです。苦痛も、楽しさも、等しく無価値で。けれど男に話しかけられるようになって、話している間は楽しさを、それ以外の時間を全て苦痛に感じるようになりました。 雨が三度振っても、彼の声は聞こえてきません。女は悲しくて悲しくて、それを紛らわせるかのように鼻歌を歌いました。とはいえ、今の女に鼻も口も無いので、どちらかというと吹く、と言った方が正しいのかもしれません。そうやって雨の水音がする中、女は身を揺らしながら、歌いました。 「誰かいるのか?───悪い、いきなり話しかけて。怒ってるわけじゃねえんだ」 外から聞こえたその言葉に、女は息を呑みます。あの人だとすぐに分かりました。だってそれは、最初の会話と同じだったからです。 女は震える声で、「ごめんなさい、少し驚いてしまって……」と言います。 「ああ、今日は酷い雨だもんな。あんたが良かったら、いくらでも休んでいって構わねえよ。俺はここから動けなくて暇だからな」 「…………それは、大変だったでしょう。楽しい話ができるか分からないけれど、最近あったことでも、話しましょうか、」 そう言いながら女はそっと、男の気配がする、扉に身を寄せました。けれど、それだけです。向こうからは男の笑い声が聞こえました。 「開けてくれねえと、次の台詞が言えねえよ。開けるなってな」 「…………ごめんなさい」と女は静かな声で言いました。 「俺だって、あんたと同じだ。もしかしたら、あんたが不快になるような見た目かもしれねえし、それで不安にさせたくもねえ、なりたくもねえよ」 「うん………………」 「だから、理由を作ることにした。そんな不安をかき消すほどの理由だ」 理由。女が小さく呟くと、男も同じように呟いたようでした。 「そのためにこの数週間、探してきたんだ。あんたに似合いそうな花を。これをあんたに渡したい」 「…………それなら、私も理由を作るわ。ここを開ける理由を。それを果たすと約束してくれるのなら、ここを開けてもいい」 「ああ、約束する」 女は息を小さく吸って、吐いて、それから静かに「どうぞ」と言いました。
▽
扉を開けた鬼が見たものは、彼が今まで見てきたものの中で、一番醜いものでした。そこにあったのは、女の姿ではなく、塊と呼ぶに相応しいものです。まるで様々な果実をすり潰して、粘土に混ぜ込んだかのような色をしているその塊は、今も粘液のようなものをまとわりつかせ、ブクブクと泡を立てています。それが動いているからなのか、畳は腐り果てて、異様な匂いを放っていました。 鬼はその姿に一瞬息を呑み、またどうして彼女が雨の日にしか会えないと言ったかを察しましたが、なんでもないようにあっけらかんと「換気をしたほうがいいな。ここはどうにも湿気てるぜ」と言います。その言葉に、塊は笑いました。 「ごめんなさい。私には鼻も目も無いから、何も分からないの」 「でもこうして喋れてる。それで十分だ。それで?花は……どこに置いたらいい?ここか?」 鬼が肉塊の前に花を置くと、それはずりずりと動いて、花の上に覆いかぶさりました。とりこまれた花は、粘膜に塗れて、ゆっくりと溶けていきます。 「ああ、不思議。何も分からないのに、どうしてか分かるの。これって凄く、変な事ね」 「別に変じゃねえよ。俺様にだってよくあることさ」 「そう。どちらにせよ、凄く嬉しいわ。ありがとう」 それが喋る度にその鈍色の表面の液体が、ぶくぶくと音を立てました。外では雨が降っています。外にいたらこの音は、雨音できっと分からなかったでしょう。 「それで、あんたの理由は?」 「…………あのね。私、貴方に殺して欲しいの」 「…………」 「私、最初からこうじゃなかったの。だから余計にずっとずっと、気が狂いそうだったわ。自分では死にたくても死ねないから。どうかお願い、私を殺してくれる?」 鬼は酷く悲しそうな顔をしましたが、目のない彼女にはそれが分かりません。鬼は「……分かった。俺は約束は違えねえからな」と言いました。 「そう、良かった。私、貴方に会えてよかったわ」 彼女は楽しげにそう言いました。本当に心の底からそう思っている、そんな言い方だったので、鬼はもっと悲しくなりました。 「なあ…………最後に、あんたの名前を教えてくれねえか」 「それはいいけど、今から死ぬ私の名前を聞いて、どうするの?」 「…………名付けるんだ」 「名前を?」 「ああ。あんたにやったその花に、あんたの名前を名づけるよ」 彼女は少しだけ考え込むかのように黙りましたが、静かにこう言いました。 「私の、名前は─────」
鬼の棟梁が雨の日に、いつもどこかへ出かけるので、気になった部下たちは彼の後をこっそり着いていくことにしました。けれど、なんてことはありません。彼はいつも花を眺めているだけでした。 廃屋の中、雨風に晒されても咲いているその花を、どうしようもなく、眺めているだけでした。