わたしの部屋には全身鏡がない。 いや、あるにはあるのだけれど、ニトリだかIKEAだかで買ったそれは姿見というにはあまりにも細く、全体像を見るのに適していない。 だから、今日の全体のコーディネートを写真に収めたいというときには、ないも同然なのだった。 「…………」 目の前にあるのは洗面台の、水垢まみれの鏡。私は申し訳程度に前髪を指先で弄って、なれない写真撮影をしてみる。一枚、二枚、三枚。 「………………うーん」 当たり前だけど、上半身しか映らないし、その上半身もスマホと腕に隠れてしまって、上手く服が写ってくれない。 というか、やっぱり洗面台が汚すぎる。鏡もそうだけど、ただでさえ狭いスペース(鏡の前のあの物とか置くところのこと)には矯正器具のケース、ろくに使ってない化粧水と乳液のボトル、歯槽膿漏に強いしょっぱい歯磨き粉二つ、髪ゴム、その他諸々が並んでいて、生活感に溢れすぎていた。これが逆にエモーショナルということになりませんか。ならんか。 「かやさん、何してるんですか。もうそろそろ出るって言ってましたよね」 「いや、そうなんだけど。その……せっかくおめかししたから、写真撮ってお母さんに送ろうかと思って」 厳密にはSNSにアップしちゃお!という魂胆なのだけれど、それをそのまま言うとことSNSに関してはジジイ過ぎるこの男はプライバシーだの特定だの正論しか言わなくて面倒なので隠しておく。本当に正しいことしか言えない男! 「お母さんにって、俺にですか?」 「いや、普通にわたしを産んだ方」 朝七時からするにはどう考えたってイカれた会話だけど、これがわたし達の常であるので、読者諸君には是非とも着いてきて頂きたいところである。 ともかく、彼は納得すると、「じゃあ俺が撮りますよ」と言った。それがさも、名案のように。 「いや、駄目だよ」 「どうしてですか?俺、流石にスマホは壊しませんよ」 「ボケとかじゃないのが本当に嫌だけど、そうじゃなくて。そんなんしたらさ、誰が撮ったの?って話になるじゃん」 「だれがってそりゃあ────ああ、そういう」 少年にしては気づくのが遅い。わたしの母はなんというか、どこまでも普通の人で、それはつまり健常者のヘテロセクシャルであるということを意味する。つまりわたしの母は彼氏でもないこの男が今ものうのうとわたしの家に上がり込んでいることを決して許しはしないのだ。……二人の間にはそれ以外の因縁もあるのだけれど、ここは一旦この説明だけに留めておく。 「……事情は分かりましたけど。せっかく撮るんならここら辺片付けたらどうですか?」 呆れたような口振りで散乱した洗面台を見る少年に、わたしの機嫌はわかり易く悪くなる。 あーもーやる気失せた。あーあ。 「もういい。撮るのやめる。てかもう出ないとだし」 わたしはほとんど使わない櫛で髪をときながら、リビングに戻る。単身者用の部屋なので、少年がいるとさらに窮屈だ。わたしは水筒と、保冷剤なんかがバックに入っているのかを確認。あ、あとはサーチケか。持ちなれないキャリーを持ってよろよろと廊下をいけば、まだ洗面台の片付けをしていた少年が、当然のようにそれをわたしの手から奪った。 「靴、先履いたらいいですよ」 「はいはい」 「飲み物持ちました?保冷剤は?」 「はいはい持った持った」 「今日もすごい暑いみたいなんで気をつけてくださいよ。コミケなら人も沢山来るんじゃないんですか?」 「んー」 母親と少年の共通点その一。同人イベントのことをぜんぶコミケって言うし、普通に店の中で今度のコミケどうするの(するんですか?)とか聞いてきて気まずい。説明したとて理解してくれる人種ではないのでわたしは全てを無視することにする。 少年の手によってキツく結ばれてしまった靴紐に、内心で嘆息。わたしはわたしのために緩くしてたんだけど。本当に、正しいことしかできなくって、嫌な人達。 「じゃ、いてきま」 す、を省くのはなんとなく。少年は「それ重くないですか?やっぱり駅まで行きましょうか?」とまだ言うので、わたしは「いやいい」と言う。駅まで来たら次も次もって着いてくるから。そういう性格だから、アライブを卒業してもわたしの部屋にいるんだろうし。

卒業。 朝早くの電車はスカスカで、どれだけイメソンのプレイリストを流していても、自分で浮かべた自分の言葉に、うっすらと不安を感じる。ああ嫌だ。わたしの精神疾患はアライブに居た当時に比べて格段に良くなってるはずなのに、このほんの少し息が浅くなる感覚は消えちゃくれない。多分、死ぬまで付き纏われるんだろうなー。 ────ヒーローという存在が、実存より形式を重んじる構造になって、もう一年。それはつまり数年前に比べて格段に平和になったということを意味するけれど、アライブにとってはそりゃあ大変だったわけで。あまり当時のことは語りたくないけど、わたしはそのごたごたに紛れるようにして逃げた。泥舟から逃げるみたいに。真っ先に逃げて、生き残った。こう書くと何か人死が出たような感じだけど、全然そういうことではなくて、ただまあ、ごたついて、わたしはそこに見切りをつけたのだと思ってもらってかまわない。 閑話休題。 わたしは何度か電車を乗り継ぎ、よく見知った会場に入っていく。通り過ぎた別館からは強い冷気が漂っていて、ほんの少し羨ましい。ああ、わたしのスペースもここなら良かったのに!全然違う館だし、なんなら奥だ。わたしはごろごろごろごろとキャリーを引きずって、自分のスペースに到着。柱の傍。知り合いも相互ブロックも無し。わたしは一息を吐く。 同人イベントというものに出るようになったのは、というかそもそも同人誌を作るようになったのは、アライブを辞めてからだった。なんでかと言われても、理由は無いからこの2つの事実に相関はなくて、タイミングの問題だ。元々わたしは、物語るということに興味があったわけだし。数年前までは、物語の擬人化みたいな男の子が、そばにいてくれたわけだし。 …………やめよっか、この話。

今回わたしが頒布するのは、とにかくモテたがる女の子の話。彼女はとにかくモテたがっていて、でも彼女の精神構造はかなりどうにかしている、というわたしの中ではわりとよくあるテーマの作品。異質、異端、変、気狂いと呼ばれる少女と、それを勝手に定義しやがる世界の話。わたしの作品は濃度の差こそあれど基本的には怒りに満ちている。とある天才様いわく、わたしは自分勝手らしいので。否定する余地も無ければ、自信満々に言える事実だ。ただ、そんな自分勝手な小説を皆が読みたいかと言えば、まあ、否である。わたしも嫌だし。 そんなわけでわたしの本はなんと、一冊しか履けなかった。一冊!一冊でも履けないよりかはマシだと言う人もいるけれど、マシ、という理屈がわたしは嫌いだ。大っ嫌い。マシだから良いってわけじゃないし、お前はマシなんだから口をつぐめって言われているようだ。 結局わたしは比較的涼しい建物の中で三時間ぐらいじっとしていただけ、ということになる。数千円も払ってこのザマとは、実に腹立たしい。

そのまま家に戻っても良かったのだけれど、帰り道の直射日光に当てられたわたしはへとへとになってしまって、大きめの駅にあるデパートの喫茶店で休むことにする。普段は絶対飲まないようなメロンクリームソーダを頼んだあたりで、少年から連絡が来た。当然のように『何冊売れました?』と聞いてくるので、わたしは渋い顔をしながら『一冊』と答える。 『疲れたでしょう、迎えに行きましょうか?』 昔に比べて随分と早くなってくれたメッセージを見ながら、わたしはそうしたいな、と思う。だって本当に疲れたし。何より、この憤懣やるかたない気持ちを早く吐き出してしまいたい。 でもやっぱり、少年と一緒にいるところを見られたくないな、とも思う。少年の顔は、今ではでどれくらい覚えられているのだろう。数年前はテレビとかにもよく出ていたけれど、卒業してからは全然だし。でも図体が大きいから、すぐにバレるだろうし。 わたしは少し考えて『いや、いいよ。ありがとう』と送って返す。少年は了解のスタンプだけを送ってくれる。わたしは一息つくようにして、革張りのそこにもたれかかった。

「マジでイベントに出るたびに思ってるんだけど、本当に、世界の方が間違ってると思うんだよね。だってわたしは出来ること全部やってるんだもん、宣伝とか頑張るし、フライヤー作るし、やれることはやるし、でも公開範囲が狭くても広くても捌ける数は変わらないんだよ、いやむしろ狭いのかもね。数千円はもうイベントに出るっていうか広告費にしか思えなくなってきた、同じジャンルの人にこういうわたしがいますよって言うさ。にしたっておかしいけど。本当におかしい。わたしの話って───確かに人を選ぶものではあるけど───でも確かに一定の層には人気があると思うんだよ?なによりわたしが一番わたしの作品のことを信じてるんだし。やっぱ世界の方が間違ってるよ。世界がわたしに追いついてないんだよ」 「そんなに言うなら俺にも読ませてくださいよ、かやさんが書いたの」 「───それは嫌!」 決まりきった答えを発するわたしに、少年はふは、と笑う。結局一人で帰ってきたわたしは、少年に買わせた抹茶アイスを自分の机で食べながら、パソコンで実況動画を流す。それなのに、少年はまた平然と話しかけてくる。ああ、これもまた母親と少年の共通点だ。共通点その二。 「かやさんは良くそうやって、本が全然売れないとか、読まれないとか言いますけど、具体的にどのくらい読まれるもんなんですか?平均として」 「平均は難しいな。なんせ母数も多いし。でもすごい人とかは千冊単位行くんじゃないの?」 「千!?」 「うん。でも小説でそのレベルは流石に十数人ぐらいだと思うけど……百冊とかぐらいだったら、多分何百人もいるんじゃないかな」 「……はあ、すごい世界ですね」 「ヒーローの方がよっぽど凄い世界でしょ」 口調が刺々しくなるのは、さっきから見ている実況動画がちっとも頭に入ってこないから。 「はは、そうですね。ヒーローなんて、ちっとも凄くないですよ」 「…………そうだよ。わたし、ヒーローなんかになるぐらいだったらフォロワー一万人ぐらいいる同人小説のオタクがいいもん」 少年の顔は見たくなかった。だってそんなことを言う少年は、少年ではなく、青年の顔をしているから。だからわたしは最近ずっと、彼のことを何と呼ぶか、決めあぐねてしまっているのだった。