「あら、駄目ですよ、そこに入っちゃあ……とは言っても、ドアノブが無いから入りたくても無理なんでしょうけど」
突然、聞き慣れた日本語が降ってくる。 ンなこと分かってる、そう言いながら振り返ったオレの体は、声の主を見た瞬間に硬直した。
「あ、それとも貴方が───────かのオペラ座の怪人だったりして!だとしたら、凄く素敵!」 「天国……」
それは、あの愚図女そのものだった。少年と見まごうばかりの細い体と短い髪。野暮ったい丸眼鏡に、奈落のような黒いワンピースは、俺が最後に見たあの女とどこまでも酷似している。 「?あれ、わたし達どこかで会いましたか?……あ、もしかして、同じツアーコースの方?」 目の前の女は、心底不思議そうに後ろで手を組んで、小首を傾げている。 「おい……お前、なんでこんな所にいる?」 「えっ、なんでって……普通に、家族旅行ですよ?おとうとも丁度冬休みでしたから」 「…………」 俺が肩を掴んで揺らしても、暖簾に腕押し言わんばかりに女の声色は変わらない。ただ困惑はしているようで、瞬きの回数がさっきよりも多くなっている。……いや、そんなことより。 「お前、今さっき弟がいるって言ったな?」 「はい、いますよ?それがどうしたんですか?」 おかしい。俺の知っている天国かやには、弟は居なかったはずだ。何故ならあの女の両親は、とうの昔に離婚している。弟なんぞ、できるわけが無い。……仮にオレが知らない間に再婚していたとしても、マザコンのこいつが、こんなテンプレートの家族旅行にノコノコと参加するはずが無かった。 と、なるといよいよこの女の所在が知れなくなる。 憮然とした表情になったオレを、女はまじまじと見ていた。そして、あ、と突然手を叩く。 「そうだ、同じツアーコースの方なら助かりました!わたし、方向音痴だから迷子になってしまって。良かったら、ご一緒しても良いですか?」 「オレがツアーコースなんて凡俗の集まりに参加するわけねえだろ」 「あら、そうなんですか……。折角どうにかなると思ったのに……」 女は肩を落として、露骨にしょげかえる。かと思うと柏手のように手をパン、と叩き笑う。……嫌な予感がする。 「ここで日本人の方にお会い出来たのも、きっと何かのご縁です!」 「ハ、イヤだね」 「折角ですし、一緒に見て回りましょう!」 「イヤだって言ってんだろ……!」 「あら、どうしてですか?」 「お前みたいな五月蝿いバカに構ってる暇はない」 「そうですか……それは残念。それじゃあ、せめてどうやってここから外に戻ったらいいか教えてくれませんか?でないと、わたし貴方の耳元で永遠と『五月蝿い』をしてしまうかもしれません」 そう言ってにっこりと微笑むその女は、完全にオレのことを舐め腐ってやがる様子だった。舌打ちが溢れるのも無理はない。 「北」 「北……?」 「これだから凡愚に合わせるのは面倒なんだよ。来た道戻って北の方に行けば階段がある、そっから、」 「いえあの、方向音痴を自称する人間が北を理解出来ると本気で思ってます?」 「………………」 「多分、貴方に着いてきてもらった方がずっと、効率的だと思いますよ?」 デカい舌打ちを漏らすと、女は嬉しそうに笑った。
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「ね、ね浅桐さん!これってなんの彫刻ですか?」 「わあ、凄くきらびやかな衣装。これって今も使われているんでしょうか?」 「あの絵、神様を描いてるんでしょうか……それとも天使?あ、もしかして人間ですか?」 「なんだかここだけふわふわとした絵ですねえ。これって誰が描いたんですか?」
「うるせえ…………」
愚図女に似た馬鹿女は、数分ごとに止まってはあれは何だとこれはなんだとこのオレを都合のいいガイド扱いしやがる。 ちなみに、この馬鹿がふわふわとした絵、と評したのはシャガールの天井画である『夢の花束』だった。オレがシャガールなら助走付けてこの女を殴ってるところだ。分かってはいたことだが、この女に審美眼というものは備わっちゃいなかったらしい。 「あ、浅桐さん!あれが『オペラ座の怪人』の着想になったとされるシャンデリアですか?」 「ァ?………ああ、そうだな。確か1890年後半に観客席に向けて落ちたんだったか」 『オペラ座の怪人』はその名の通りこのオペラ・ガルニエが舞台になっている。そしてこの場所で実際に起こったシャンデリア落下事件は、物語の中でも呪いのような形で起こった。 「シャンデリアが落ちて来るなんて────素敵。たかが舞台装置によって復讐されるなんて観客は誰も思っていなかったでしょうね。それがなおさら素敵です。なんたる傲慢。なんたる驚き。そしてこの境界線の近さたるや。やっぱり劇場はこうでないといけません!ねえ、浅桐さんもそう思うでしょう?」 「お前、さっきからどっちの話をしてる?」 「ふふ。〝どちらも〟ですよ、浅桐さん。だって本当にオペラ座の怪人は存在するのです。一緒に五番のボックスを見たでしょう?」 笑いながら、そんなおぞましいことを平然と言う女は、審美眼は無くともトチ狂った感性は持ち合わせているらしかった。 「………んなことより、その浅桐さんってのをやめろ。その顔で言われると気味が悪い」 そう言えば、細められた目がパッと開き、実に不思議そうな顔をされる。 「この顔、ですか?最初にお会いした時といい、もしかしてわたしの顔って、誰か知り合いの方に似てるんでしょうか?」 「んなことお前に関係ないだろ」 「はっ………!まさか………元カノ!?」 「誰が元カノだ………!」 反射的に馬鹿女の頭を鷲掴みにすれば、愁傷な声が響いて来る。 「ああ、わたしとしたことが、男の人だから元カノ、だなんて………前時代的にも程がありました………前にお付き合いされていた方ですか!?と聞くべきでしたね………」 「配慮のベクトルが念れてるんだよお前は………!!」 そのまま手に力を入れれば、痛い痛いと喚くからしばらくしてから離してやる。 「も、もう………そこまでしなくていいじゃないですか」 「お前がしつこいからだ」 「でも、わたしによく似た顔の人なんでしょう?いわば、ドッペルゲンガーじゃありませんか」 ドッペルゲンガー。世界には三人同じ顔の人間がいると言われている。そんなお伽噺だ。ただまあ、顔を合わせたら死ぬ、だなんてのは絵本には向かない話だろうがな。 「ええ、ええ。役被りなんて許せません。冗談じゃない。人間は誰しも自分自身であることから逃げられないというのに。………出会ったら、殺してしまわないと!」 そう言う女の目が爛々と輝いているのは、何もシャンデリアの光を取り込んでいるからだけじゃないんだろう。深淵を覗く時深淵もまた、なんて使い古された言葉が脳裏を過る。 「………………お前が殺さなくても、あいつはどっかで野垂れ死ぬだろうよ」 「あら、そうなんですか?」 随分と久しぶりに、あの女のことを思い出す。黒い服、陰気な表情に曲がった背筋。矛盾する言葉と相反する感情。 「あの女は、愚図だった。手際が致命的に悪かったんだ。盾で相手を殴る。フォークで肉を切る。そういうことをする女だった」 「へえ、それは確かに愚図。………それでも、浅桐さんが足を止めるには醜悪だった、と」 癪に障る言い方を、目の前の女は一々してくる。 「知ったような口を聞くな」 「ふふ。でも貴方、〝片側〟にしか興味が無いように見えます。だってさっきから、貴方の視線は色んなものを見下してるんですもの。なら、最低か最高かのどちらかです。その二つにのみ、許されるものがなんだかわかりますか?」 「………言ってみろ」 そう促せば、女の、細い人差し指が上を向く。 「────天地無用、でしょう。その二つのみが入れ替わりを許される。規定を許される。たった二つの………いえ、一つの特例です。それならその女の子は、きっと嬉しかったことでしょう!女の子は、いつだって特別が大好きなんですから」 「前時代的云々はどうした」 「マザーグースが書かれたのはどうしたって今よりも前時代です」 「詭弁だな」 そんな詭弁を平然と吐く様だけは、あの女に似ている。 ────あれは詭弁が好きだった。どんな正論に対しても相性が悪かった代わりに、どんな詭弁も受け入れた。 「………ええと、骨と皮だけの女がいた、だったかしら。〝わたしも死んだらこうなるの?〟〝そうですよ、そうですよ〟〝あなたも死んだらこうなりますよ〟」
Shall I be so when I am dead?
そんな詩を、女は不意に口ずさむ。
「現実の死はこんなにも醜いんです。それなら舞台の死を奪った貴方は────きっと、死ぬまで呪われますね」 「────」 反射的に、オレは目の前の女の首根っこを掴んだ。さっきまで、痛い痛いと喚いていた癖に、女は目を細めて笑っている。 「────もう一度、言ってみろ」 「さあ?わたし、何を言ったか忘れてしまいました。何しろ全部が詭弁ですから。意味を持たない尺稼ぎ、死を待つばかりの暇潰し………」 「お前の、名前は。自分の名前も忘れたとは言わせねえぞ」 「名前、ねえ」 女は息苦しそうに、それでも嘲笑を確かに浮かべる。 「わたしの、名前は───」
「義姉さん!」
そこに幼い日本語が、割って入った。 少年とも青年とも言い難いその容姿は、じっとオレの顔を見つめている。
「あ、レイくん」 「………やっぱお前の弟か」 「ふふ、全然似てないでしょう」 手を放してやれば、何故か嬉しそうにそんなことを言う。レイくんとやらは、真っ先に姉に駆け寄ってきた。 「義姉さん、どこに行ってたの!?俺も母さんもすげー探したんだからな」 「父さんは?」 「………まあ、そのうち帰って来るだろうって」 「ほーらね。父さんの言うとおりだったでしょう」 「またそんなこと言う………」 「あはは」 弟の手を握ったまま、こちらに振り返る。 「それじゃあ、浅桐さん。短い間ですけどお世話になりました。楽しかったです!」 「皮肉か?」 「まさか。本心ですよ」 「………義姉さん、この人誰?」 ん、と首を傾げた女はオレと弟を交互に見ては、こんなことを言った。
「この人はね────怪人なんだよ」
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